1月ももう半分終わったって本当ですか?
年齢によって主観的な時間の長さが変わる感覚、心理学で「ジャネーの法則」って言うらしいですよ。
今回は美術の話。六本木の森美術館で開催中の『カタストロフと美術のちから展』に行ってまいりました。
ここは夜遅くまでやってるので、社会人としては本当にありがたい。
森美術館は今までにも「宇宙と芸術展」や「シンプルなかたち展」、「LOVE展」など、一つのテーマを切り口にした時代横断的な展覧会を企画してきていますが、今回のテーマは「カタストロフ」。
美術史的に美術とカタストロフは切っても切り離せない関係があり、個人的には割とメジャーなテーマだなと感じていましたが、やはりそこはさすがの企画力と言いますか、今を生きるアーティストを中心に紹介された新鮮な展示でした。
やはり、美術史上最大のカタストロフは二度にわたる世界大戦でしょう。その未曾有の惨事は、ダダイズムやアンフォルメル等、破壊的なスタイルを出現させました。
ジャン・フォートリエ《人質》シリーズ(1943年〜)
これは「カタストロフの力」による精神性の変化によってもたらされた形式で、あくまでも表現のひとつです。
昨今で言えば、東日本大震災等「自然災害」に関する作品の多くが、「カタストロフの力」に依拠しているような感じます。
例えば、武田慎平さんは福島の神社や病院等各地の地中放射線量を可視化した《痕》シリーズを制作し、平川恒太さんはブラックユーモアを交えた《ブラックカラータイマー》で黒く閉じ込められてしまった瞬間を演出。双方とも福島の原発事故が残したインパクトの大きさを表現しています。
武田慎平《痕 #7, 二本松城(福島県二本松市)》(2012)
平川恒太《ブラックカラータイマー》(2016-2017)
この傾向は顕著で震災があった年の翌年には、プロアマ問わず震災をテーマにした数多くの作品が生まれました。言葉は悪いですが、それこそ「うんざりするほどの」量です。当時、美術館で「カタストロフの力」を身をもって感じました。
しかし、「カタストロフの力」が起こせるのは内省を促すことによるスタイルの変革で、アートは受動的にならざるを得ない、ように感じます。
では「美術の力」とは?
それはアート活動を通じて、環境問題、貧困問題、食糧問題、性・差別社会的問題の解決を前進させる、能動的な機能のように感じます。
Chim↑Pomの《REAL TIMES》は、放射線のハザードシンボルを日本国旗に見立て、発電所の見える場所に立てるまでを撮影したドキュメンタリー映像。福島に福島原発事故に対する能動的な機能を有した作品でしょう。
Chim↑Pom 《REAL TIMES》(2011)
その他にも、イスラエルの宗教問題に踏み込み、パレスチナでピカソの作品展示を試みようとしたハレド・ホウラニの《パレスチナのピカソ》や、現代の難民問題を古代ギリシャの奴隷社会になぞらえた艾未未(アイ・ウェイウェイ)の《オデッセイ》なども、巧みな手法で現在の社会問題を伝えています。
ハレド・ホウラニ《パレスチナのピカソ》(2011)
艾未未《オデッセイ》(2016/2018)
武器の廃材から鐘を作り出したヒワ・Kの《The Bell》は、実際に戦時中に行われた鐘等生活圏の金属から武器を鋳造していた事実を批判的に捉えた作品です。
ヒワ・K《The Bell》(2015)
そして最後に展示されていたのが、今回のメインビジュアルにも使用されたオノ・ヨーコの《色を加えるペインティング(難民船)》。
真っ白な壁と床、そして難民船を象徴するボートに来場者がメッセージを書き込んでいく参加型の作品。私が行った際はもうほぼメッセージで埋め尽くされていました。
オノ・ヨーコ《色を加えるペインティング(難民船)》(2018)
タイトル通り、力のある作品が多い素晴らしい展覧会でした。
個人的な考えですが、美術はカタストロフによって進化し、進化した美術作品が人の心を変え、社会問題の解決を手伝うのではないでしょうか。
今年はのっけからムンク展を見逃して萎えていましたが、クリムトとモローの個展は確実に抑えとこうと決意する私でした。
年齢によって主観的な時間の長さが変わる感覚、心理学で「ジャネーの法則」って言うらしいですよ。
今回は美術の話。六本木の森美術館で開催中の『カタストロフと美術のちから展』に行ってまいりました。
ここは夜遅くまでやってるので、社会人としては本当にありがたい。
森美術館は今までにも「宇宙と芸術展」や「シンプルなかたち展」、「LOVE展」など、一つのテーマを切り口にした時代横断的な展覧会を企画してきていますが、今回のテーマは「カタストロフ」。
美術史的に美術とカタストロフは切っても切り離せない関係があり、個人的には割とメジャーなテーマだなと感じていましたが、やはりそこはさすがの企画力と言いますか、今を生きるアーティストを中心に紹介された新鮮な展示でした。
やはり、美術史上最大のカタストロフは二度にわたる世界大戦でしょう。その未曾有の惨事は、ダダイズムやアンフォルメル等、破壊的なスタイルを出現させました。
ジャン・フォートリエ《人質》シリーズ(1943年〜)
これは「カタストロフの力」による精神性の変化によってもたらされた形式で、あくまでも表現のひとつです。
昨今で言えば、東日本大震災等「自然災害」に関する作品の多くが、「カタストロフの力」に依拠しているような感じます。
例えば、武田慎平さんは福島の神社や病院等各地の地中放射線量を可視化した《痕》シリーズを制作し、平川恒太さんはブラックユーモアを交えた《ブラックカラータイマー》で黒く閉じ込められてしまった瞬間を演出。双方とも福島の原発事故が残したインパクトの大きさを表現しています。
武田慎平《痕 #7, 二本松城(福島県二本松市)》(2012)
平川恒太《ブラックカラータイマー》(2016-2017)
この傾向は顕著で震災があった年の翌年には、プロアマ問わず震災をテーマにした数多くの作品が生まれました。言葉は悪いですが、それこそ「うんざりするほどの」量です。当時、美術館で「カタストロフの力」を身をもって感じました。
しかし、「カタストロフの力」が起こせるのは内省を促すことによるスタイルの変革で、アートは受動的にならざるを得ない、ように感じます。
では「美術の力」とは?
それはアート活動を通じて、環境問題、貧困問題、食糧問題、性・差別社会的問題の解決を前進させる、能動的な機能のように感じます。
Chim↑Pomの《REAL TIMES》は、放射線のハザードシンボルを日本国旗に見立て、発電所の見える場所に立てるまでを撮影したドキュメンタリー映像。福島に福島原発事故に対する能動的な機能を有した作品でしょう。
Chim↑Pom 《REAL TIMES》(2011)
その他にも、イスラエルの宗教問題に踏み込み、パレスチナでピカソの作品展示を試みようとしたハレド・ホウラニの《パレスチナのピカソ》や、現代の難民問題を古代ギリシャの奴隷社会になぞらえた艾未未(アイ・ウェイウェイ)の《オデッセイ》なども、巧みな手法で現在の社会問題を伝えています。
ハレド・ホウラニ《パレスチナのピカソ》(2011)
艾未未《オデッセイ》(2016/2018)
武器の廃材から鐘を作り出したヒワ・Kの《The Bell》は、実際に戦時中に行われた鐘等生活圏の金属から武器を鋳造していた事実を批判的に捉えた作品です。
ヒワ・K《The Bell》(2015)
そして最後に展示されていたのが、今回のメインビジュアルにも使用されたオノ・ヨーコの《色を加えるペインティング(難民船)》。
真っ白な壁と床、そして難民船を象徴するボートに来場者がメッセージを書き込んでいく参加型の作品。私が行った際はもうほぼメッセージで埋め尽くされていました。
オノ・ヨーコ《色を加えるペインティング(難民船)》(2018)
タイトル通り、力のある作品が多い素晴らしい展覧会でした。
個人的な考えですが、美術はカタストロフによって進化し、進化した美術作品が人の心を変え、社会問題の解決を手伝うのではないでしょうか。
今年はのっけからムンク展を見逃して萎えていましたが、クリムトとモローの個展は確実に抑えとこうと決意する私でした。
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