K馬日記

映画や美術、小説などの作品鑑賞の感想を徒然なるままに綴っていきます。

マイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット『レッドタートル ある島の物語』

2017年08月06日 | 映画
おはようございます。あっという間に8月ですね。夏はお盆に奄美大島に行くので、それだけが唯一の楽しみです。

今回はマイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット監督(舌噛みそう笑)の『レッドタートル ある島の物語』の鑑賞記録です。
ジブリ作品とは思えないタッチで興行は散々だったようですが、カンヌの「ある視点」部門で特別賞を受賞した作品です。




《Story》
どこから来たのか どこへ行くのか いのちは?
嵐の中、荒れ狂う海に投げ出された男が九死に一生を得て、ある無人島にたどり着いた。必死に島からの脱出を試みるが、見えない力によって何度も島に引き戻される。絶望的な状況に置かれた男の前に、ある日、一人の女が現れたーー。


象徴的なシーンが多く、各シーンを本質的に理解するのは非常に難しかったです。
ただ、個人的に一言でまとめるとすれば、「ゴーギャン風 創世記」に尽きるでしょう。キャッチコピーもそれを踏まえているとしか考えられません!笑
ゴーギャンの代名詞《我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか》という作品は、人類の命題にも迫るようなテーマを持っており、本作品も同じようなテーマを持っているように感じられました。
では、そんな壮大な哲学的命題に対し、この作品はどういう視座を与えたのでしょうか。



物語の前半では、必死に無人島からの脱走を試みていた男が、後半では脱出しようともせず、自分たちが何者であるかにも頓着しなくなってしまいます。つまり、一見すると哲学的命題に対する追求の姿勢を放棄したと考えることもできるわけです。
では、彼を哲学的命題から解放したのは何か、ということになるわけですが、そこで「愛」という考え方が出てきます。
彼の態度は、海亀の化身である女が現れてから変化していきます。男は脱出するために自作していた筏を海に流し、その島で女と生活することを決意するのです。



男が自ら筏を自作して島を脱出しようとする態度は、何もない舞台から逃れて自己規定を欲していたようにも考えられます。つまり、他人と接触することで自己存在を実感したいという、ハイデガーの存在論にある共存在の考え方です。
女の登場は、そうした男のアイデンティティ・クライシスに一種の安寧を与え、彼は自己存在の探求を辞めることになるのです。つまり、探求していた哲学的命題を、愛する女に見出すわけですね。



そこで対照的なのは、息子の行動でしょう。彼らの息子は、無人島が津波の被害にあった後、島から出て行ってしまいます。
それは「津波」という現象で外の世界を改めて認識し、外部の存在を知りたいという「知的探究心」からくる行動でした。我々は、自己存在を求める動物であり、それと同時に知的好奇心に従順な動物でもあるわけです。
《我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか》内を知り、外を知る、私たちの行動はそこに通ずるのでしょうか。


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