こんにちは。11連休明けで身体が寝ぼけてる感じのあほけーまです。仕事って疲れるんだなぁと再認識したところで、慣れって怖いなぁとも思い戦慄恐恐です。
さて、ちょっと時間が経ってしまいましたが、GW中に行ってきた美術展の内容を更新したいと思います。今回感想文を書こうと思っているのは、東京都美術館で開催中のバルテュス展、国内で初めての大回顧展となります。
ピカソが「20世紀最後の巨匠」と表現した程の画家バルテュス(本名:バルタザール・クロソフスキー・ド・ローラ)、恥ずかしながら今回の回顧展で初めて知りました……まだまだ美術の世界は奥が深いですね。
そして幸運なこと(?)に彼の画風や理念が個人的な好みにドンピシャ。ぼくが大学時代から好きだったピエロ・デッラ・フランチェスカの影響を強く受けており、アンリ・ルソーやフェルナンド・ボテロなど素朴派的な絵画を想起させる独自の描画手法、そして「少女」というモチーフに対する執拗な拘り、強い理念。(バルテュスは少女を「この上なく完璧な美の象徴」であると述べています。)
ということで、本展覧会についての感想文()は、ピエロ・デッラ・フランチェスカの影響を受けた「異空間的構図」、独自の作風を確立した「素朴派的幻想性」、処女性の喪失にも言及する「少女という神聖なモチーフ」という3つの観点で観覧してきました。
1.異空間的構図
さて、この異空間的構成に関してですが、個人的には結構デ・キリコに近いものを感じたというのが正直なところです。もちろん、ピエロ・デッラ・フランチェスカの「わけのわからなさ」も如実に感じられたわけですけれど、実際の作品はフランチェスカ的な「異空間」というよりもどちらかというとキリコ的な「異世界」を想起してしまいました。
バルテュス《キャシーの化粧》
バルテュス《山》
《キャシーの化粧》は彼が当時取り組んでいたエミリー・ブロンテの『嵐が丘』の挿絵とほぼ同じ構図となっております。苦悩のヒースクリフと自身を重ねて描いており、うまくいかない恋愛を嘆いてでもいたのでしょうか。召使とキャシーの間のあり得ない立ち位置や人間らしからぬ人間像に、素朴派的で偶然性に満ちた美的快感を得ることができます。また、《山》に見られるこの謎の人物配置……草上に横たわる人物が古典に対するオマージュのような気もしますが、実際のところどうなんでしょう。この互いに関係しているのか関係していないのかわからない奇妙な人物配置も、フランチェスカの「わけのわからなさ」に通じるようなところがあります。
デ・キリコの作品に見られる異世界的イメージ
ピエロ・デッラ・フランチェスカと言えば、祭壇画の天井に吊るされたダチョウの卵で有名ですが、彼の生きていた時代でこのような表現が有り得たというのが個人的にはめちゃめちゃ滾るところですね。(因みに登場人物の視線は中心の赤ん坊に止まる蠅=ベルゼブブに集まっているというのも実に近代的)ともすれば、ダリの偏執狂的作品に通じてしまうような、「わけのわからなさ」を彼の作品は湛えております。というか、ダリがルネサンス期の宗教画を偏執狂的な視点で描いたらフランチェスカの絵に近くなるのではないかとさえ思ってしまう程に、現実を超越しています。
ピエロ・デッラ・フランチェスカ《モンテ・フェルトロの祭壇画》
ピエロ・デッラ・フランチェスカ《キリストの鞭打ち》
2.素朴派的幻想性
彼はほぼ独学で絵画を学んできたという経緯があり、彼の作品の所々に素朴派を思わせるような幻想的イメージが散見されます。ある意味、アカデミックな描画法を学んでいないからこそ可能な描写。素朴派といえばアンリ・ルソーがまず挙がってくるところですが、コロンビアのフェルナンド・ボテロもプリミティブで幻想的な作品が多いので個人的には結構好きな作家です。でも実物あんまり見たことないので個展とかやってくれまいかしら。
バルテュス《金魚》
この作品は「猫の顔~金魚鉢~子供の顔~女性の顔」と流れるように丸いイメージが連続し、作品内にリズムを与えるような構図になっています。通常であればリズミカルな連続性にはポップで明るいイメージがつきまといますが、この絵画の陰鬱な雰囲気のせいであたかも半音下がったようなリズムになっており、そこが非常に気持ちのいい作品です。音楽にしたら絶対に短調でしょうね笑
バルテュス《街路》
バルテュス《トランプ遊びをする人々》
《街路》は個人的に最も素朴派的な作品だと思ったのですが、この人らしからぬ人が予知不能な動きをしているシーン……良すぎます。《トランプ遊びをする人々》は人らしからぬ人、だけでなくこの時代にフレスコ画を思わせるテンペラでの制作。絵画内の人物が鑑賞者を見つめるという斬新な情景も奇異な印象を与えます。
アンリ・ルソー《戦争》
フェルナンド・ボテロの作風
3.少女という神聖なモチーフ
そして、本展のメイントピックとなっておりました「少女」というモチーフです。もう、ビラから彼に対する少女への執念は滲み出ておりましたけれども、実際に彼のヤバい発言をピックアップしてみましょう。
「この上ない完璧な美の象徴=少女」
「大人の女性のフォルムよりも少女のフォルムが私の興味を引くのは、それがまだ手つかずで、より純粋だからです。」
とりわけ、彼が好んだのは少女という段階から抜け出そうとしている、思春期後半の少女です。性に目覚める直前の少女に彼はこの上ない美を感じており、その一度失われれば永遠に失われてしまう穢れのない最後の一瞬間、そこに彼が極上の美を見出したのは哀しき哉、大いに賛同してしまう自分が在ります。永遠に戻らないという不可逆性を絵画に留めようとする彼の強い理念は、彼の作品の多くに見られます。
バルテュス《美しい日々》
バルテュス《夢見るテレーズ》
バルテュス《決して来ないとき》
いずれも、少女が少女でなくなる直前の多感的な時期を描写しております。特に《美しい日々》では、左側から順に処女を象徴する水桶と手鏡、だらしなく垂れた挑発的な四肢、赤く燃える暖炉の傍に居る男性……といったようにまさに少女が少女でなくなる直前の場面を暗く、美しく、そして気持ち悪く描写しています。不可逆性所以の尊さというものはそれはもう一般的に周知されていますが、彼の少女性への執念は若干異常だとさえ感じられます。それは処女性に対する拘りなのかもしれませんね。
【以下、気色の悪い私的な妄想所感】↓
キリスト教的世界観では「処女性=神聖なるもの」として扱われていますが、この展示会でそれとは似て非なる「少女性」というものの可能性を感じました。"girl/lady/virgin girl"どれもまったくもって異なるものですが、果たして彼が描写したかったのは本当に"virgin girl"だけだったのか。であるとすれば、彼はどうして"lady"を愛し続けたのか……それは正にいくら歳を重ねても"girl"即ち「少女性」というものが失われない可能性もあったからではないでしょうか。
成人しても、処女でなくても、天真爛漫で心に穢れのない人は存在して、彼女らの恋愛はいつでも初恋のように一喜一憂に溢れ、常時新鮮な恋心を可能にしてくれる。"girl"でなければ「恋」はできない、"lady"に可能なのは「愛」だけであり、彼女らの「恋」は永遠に失われてしまう。"love"では括れない日本的で繊細な「好き」の機微を彼が理解していた可能性は大いにあります。彼は日本の影響を強く受けていただけでなく、日本人の女性を妻として迎えているのですから。
言うなれば彼の「少女性」に対する「恋」心が、不気味なまでに魅力的な少女画を可能にしたのでしょう。
いやあ、画集を買えばよかったなあと心底後悔している次第でございます。
来月の出張では三菱一号館美術館で開催予定の「ヴァロットン展」に行ってみたいですねー。
こちらも初の美的体験になりそうで期待大です。
hona-☆
さて、ちょっと時間が経ってしまいましたが、GW中に行ってきた美術展の内容を更新したいと思います。今回感想文を書こうと思っているのは、東京都美術館で開催中のバルテュス展、国内で初めての大回顧展となります。
ピカソが「20世紀最後の巨匠」と表現した程の画家バルテュス(本名:バルタザール・クロソフスキー・ド・ローラ)、恥ずかしながら今回の回顧展で初めて知りました……まだまだ美術の世界は奥が深いですね。
そして幸運なこと(?)に彼の画風や理念が個人的な好みにドンピシャ。ぼくが大学時代から好きだったピエロ・デッラ・フランチェスカの影響を強く受けており、アンリ・ルソーやフェルナンド・ボテロなど素朴派的な絵画を想起させる独自の描画手法、そして「少女」というモチーフに対する執拗な拘り、強い理念。(バルテュスは少女を「この上なく完璧な美の象徴」であると述べています。)
ということで、本展覧会についての感想文()は、ピエロ・デッラ・フランチェスカの影響を受けた「異空間的構図」、独自の作風を確立した「素朴派的幻想性」、処女性の喪失にも言及する「少女という神聖なモチーフ」という3つの観点で観覧してきました。
1.異空間的構図
さて、この異空間的構成に関してですが、個人的には結構デ・キリコに近いものを感じたというのが正直なところです。もちろん、ピエロ・デッラ・フランチェスカの「わけのわからなさ」も如実に感じられたわけですけれど、実際の作品はフランチェスカ的な「異空間」というよりもどちらかというとキリコ的な「異世界」を想起してしまいました。
バルテュス《キャシーの化粧》
バルテュス《山》
《キャシーの化粧》は彼が当時取り組んでいたエミリー・ブロンテの『嵐が丘』の挿絵とほぼ同じ構図となっております。苦悩のヒースクリフと自身を重ねて描いており、うまくいかない恋愛を嘆いてでもいたのでしょうか。召使とキャシーの間のあり得ない立ち位置や人間らしからぬ人間像に、素朴派的で偶然性に満ちた美的快感を得ることができます。また、《山》に見られるこの謎の人物配置……草上に横たわる人物が古典に対するオマージュのような気もしますが、実際のところどうなんでしょう。この互いに関係しているのか関係していないのかわからない奇妙な人物配置も、フランチェスカの「わけのわからなさ」に通じるようなところがあります。
デ・キリコの作品に見られる異世界的イメージ
ピエロ・デッラ・フランチェスカと言えば、祭壇画の天井に吊るされたダチョウの卵で有名ですが、彼の生きていた時代でこのような表現が有り得たというのが個人的にはめちゃめちゃ滾るところですね。(因みに登場人物の視線は中心の赤ん坊に止まる蠅=ベルゼブブに集まっているというのも実に近代的)ともすれば、ダリの偏執狂的作品に通じてしまうような、「わけのわからなさ」を彼の作品は湛えております。というか、ダリがルネサンス期の宗教画を偏執狂的な視点で描いたらフランチェスカの絵に近くなるのではないかとさえ思ってしまう程に、現実を超越しています。
ピエロ・デッラ・フランチェスカ《モンテ・フェルトロの祭壇画》
ピエロ・デッラ・フランチェスカ《キリストの鞭打ち》
2.素朴派的幻想性
彼はほぼ独学で絵画を学んできたという経緯があり、彼の作品の所々に素朴派を思わせるような幻想的イメージが散見されます。ある意味、アカデミックな描画法を学んでいないからこそ可能な描写。素朴派といえばアンリ・ルソーがまず挙がってくるところですが、コロンビアのフェルナンド・ボテロもプリミティブで幻想的な作品が多いので個人的には結構好きな作家です。でも実物あんまり見たことないので個展とかやってくれまいかしら。
バルテュス《金魚》
この作品は「猫の顔~金魚鉢~子供の顔~女性の顔」と流れるように丸いイメージが連続し、作品内にリズムを与えるような構図になっています。通常であればリズミカルな連続性にはポップで明るいイメージがつきまといますが、この絵画の陰鬱な雰囲気のせいであたかも半音下がったようなリズムになっており、そこが非常に気持ちのいい作品です。音楽にしたら絶対に短調でしょうね笑
バルテュス《街路》
バルテュス《トランプ遊びをする人々》
《街路》は個人的に最も素朴派的な作品だと思ったのですが、この人らしからぬ人が予知不能な動きをしているシーン……良すぎます。《トランプ遊びをする人々》は人らしからぬ人、だけでなくこの時代にフレスコ画を思わせるテンペラでの制作。絵画内の人物が鑑賞者を見つめるという斬新な情景も奇異な印象を与えます。
アンリ・ルソー《戦争》
フェルナンド・ボテロの作風
3.少女という神聖なモチーフ
そして、本展のメイントピックとなっておりました「少女」というモチーフです。もう、ビラから彼に対する少女への執念は滲み出ておりましたけれども、実際に彼のヤバい発言をピックアップしてみましょう。
「この上ない完璧な美の象徴=少女」
「大人の女性のフォルムよりも少女のフォルムが私の興味を引くのは、それがまだ手つかずで、より純粋だからです。」
とりわけ、彼が好んだのは少女という段階から抜け出そうとしている、思春期後半の少女です。性に目覚める直前の少女に彼はこの上ない美を感じており、その一度失われれば永遠に失われてしまう穢れのない最後の一瞬間、そこに彼が極上の美を見出したのは哀しき哉、大いに賛同してしまう自分が在ります。永遠に戻らないという不可逆性を絵画に留めようとする彼の強い理念は、彼の作品の多くに見られます。
バルテュス《美しい日々》
バルテュス《夢見るテレーズ》
バルテュス《決して来ないとき》
いずれも、少女が少女でなくなる直前の多感的な時期を描写しております。特に《美しい日々》では、左側から順に処女を象徴する水桶と手鏡、だらしなく垂れた挑発的な四肢、赤く燃える暖炉の傍に居る男性……といったようにまさに少女が少女でなくなる直前の場面を暗く、美しく、そして気持ち悪く描写しています。不可逆性所以の尊さというものはそれはもう一般的に周知されていますが、彼の少女性への執念は若干異常だとさえ感じられます。それは処女性に対する拘りなのかもしれませんね。
【以下、気色の悪い私的な妄想所感】↓
キリスト教的世界観では「処女性=神聖なるもの」として扱われていますが、この展示会でそれとは似て非なる「少女性」というものの可能性を感じました。"girl/lady/virgin girl"どれもまったくもって異なるものですが、果たして彼が描写したかったのは本当に"virgin girl"だけだったのか。であるとすれば、彼はどうして"lady"を愛し続けたのか……それは正にいくら歳を重ねても"girl"即ち「少女性」というものが失われない可能性もあったからではないでしょうか。
成人しても、処女でなくても、天真爛漫で心に穢れのない人は存在して、彼女らの恋愛はいつでも初恋のように一喜一憂に溢れ、常時新鮮な恋心を可能にしてくれる。"girl"でなければ「恋」はできない、"lady"に可能なのは「愛」だけであり、彼女らの「恋」は永遠に失われてしまう。"love"では括れない日本的で繊細な「好き」の機微を彼が理解していた可能性は大いにあります。彼は日本の影響を強く受けていただけでなく、日本人の女性を妻として迎えているのですから。
言うなれば彼の「少女性」に対する「恋」心が、不気味なまでに魅力的な少女画を可能にしたのでしょう。
いやあ、画集を買えばよかったなあと心底後悔している次第でございます。
来月の出張では三菱一号館美術館で開催予定の「ヴァロットン展」に行ってみたいですねー。
こちらも初の美的体験になりそうで期待大です。
hona-☆
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