心理学を学び始めて
口ごもることがある
どう伝えたらいいか・・・・
言葉を失うことがある
言葉を選びながら言うから時間がかかることもある
最近もやもやというかムッとというか・・・
なんだかなあ・・・とスッキリしないことが多々あった
何か言われた時に言い返さず押し殺してしまうときに感じる
何とも言えない『もやーっ』とした感じ
でもそれが積み重なると8月のぜんそくの時のような感じと似ている
怒りではないのだが・・・悲しみに近い
もやっと・もやっと・・
「あ、知ってる!」と言われて嬉しいはずなんだけど
『あ。知ってる。blog読んだし書いてあった!』
確かに書いている
事実である
けれど100%綿密にすべては書かない
たとえば彼だけに伝えたいことをblogに事細かに書かないように
友人の個性・可能性
嫁たちの性格
はたまた自分のグループの人
全く知らない人
心理学を学んでいる仲間・トレーナー
いろんな人たちが読む
目にさらされるところに
100%書けるかと言われたら
書けないこともある
書けることはできるだけ書いているつもりだが・・・
だから『あ。読んでる。』から私をすべて解っているからというニュアンスで言われてしまうと
『なんだかなあ・・・・・まあそんな一面もあるんだけど…』
読んでるからもう話さないでも解っているというように感じる
『読んだら面白くて・・・すぐ時間が過ぎちゃう』と言われると
だからと言って 『もっと話して・・』と言うことは感じない
面白くて時間が過ぎるということは引き込まれて次々読んでくださったんだなあ…
ありがたいなあ・・そんな読者がいっぱいになったら本を出したいという夢が叶うのがはやくなるなあとウキウキするんだ!
と感じる嬉しさだな。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
夕べ電話での出来事
もやっと感は『読んでる。で?』と電話口で言われた時にピークに達した
もやっとしたまま話していて自分でもうまく言えないなあ・・と思いながら・・・
『もう20分聴いているんだけど』と言われた時に
脳みそがピッチってなったかもしれない
もやもやが瀬戸の渦潮みたいになった大きいもがいくつもグルグル回り始めた感じ
なんだったんだろう・・・という感じ・・・
その渦はグルグル廻りながら地球の深部まで深く深く降りていく
簡単に言えば凹むかな・・・・・
こんなことがあって・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今夜嫁と話しているときにも何かもやっと感があった
彼女は何か彼女の状態で反応的になって突っ込んできたと解るのだが・・・
それを飲み込んでしまって
もやっと・・・そう・・昨日のようにもやっと・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・
時間がたってから嫁のほうが言い出した
『なにか、正直に言ったつもりがもやっとしてる。何を言っても何か返してくれると思って言ったんだけど・・・もやっとしている』
「そうやったんや・・・どういおうかなと考えていたんやけどなあ・・・・」
『ままちゃん、どうしたらさっきのコミュニケーションは前に進むんやろ?』
「そうやなあ・・・・聴いてくれたらこれから言う事が解ると思う。さっきの状態で言っても耳に入らなかなあと思っていわへんかったんや」
『前に進みたいしきかせてほしいなあ』
「うん。うまくいえへんかったんやけど・・・もやっと感があって・・」と昨日の電話の話をする
「よく自分を観察すると人の話は案外受け取れるようになってきたんだなあと思うんだけど
相手に『受け取ってもらえない』ともやっとするんやなあ…なんか、悲しいっておもったり。拒絶され多様な感じかなあ・・・・」
『受け取るか!』
「そうやねん。さっきはなしたときに、反応的に自分の考えをいったやんかあ。そのときに『そうか、ままちゃんはそう思ったんやなあ。』と言ってくれたとしたら」
『「聴いてもらった!!」とまず安堵するよね。』
「と思う。でな、そのときの気持ちとか聞いてもらえたらあーーーよかった・・・・聞いてもろた――――!!と思うわけ」
『そうか実習して聞き返してゆうてみてよかった!何でも言っていいと思うからほんまに感じてること言ってよかったわあ』
『それは良かった。私は良く『聴いてほしいだけ!』っていわれてたやろ?だから努力してきたつもりやねん。
まあ、私も聴いてほしいときはあるしなあ・・・・でも訓練してこそ聴けるんやなあと思うねん』
『そや、ひとには要求するけど『自分はできてへん』って解らんかったもん。』
「心理学学んだらわかることもあるし訓練もするしなあ。そやし周りの人に心理学勉強してほしいなあって思うねん」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
嫁とこんな話が安心して話せる間柄でとことん話したからこそもやもやがすっきりした
私の周りには可能性を秘めた人が沢山いる
経験も人一倍している人がいる
けれど受け取ってもらう経験が少なすぎるんじゃないかなあ・・・・
愛される受容されるという事が少なすぎるんじゃないかなあ・・・
沢山受容してもらうには受容出来る人との関わりが沢山必要ではないかなあ・・・
普通の生活の中でそんなことは皆無に近い
もし出来ていたとしたら
自分が広い幅を選択の範囲に取り入れて 自由に自信を持って自分の人生を歩むだろう
それが出来ないのは子供のころからの周りの環境によって
知らず知らずに身に着けた無意識
その中には人をそのまま受け取るというセンスは磨かれずにあると思う
もし磨かれていたら自分自身をそのまま受け取る『受容することが出来る』はずではないかなあ・・・・・
そうなれば人を受容することが出来る
人の話も聴けるようになるのだろうなあと思う・・・
聴いているようで実は全く聴けていない
先入観・自分の観念をはずして聴くって本当に訓練がいると思う
判断しているときは聴ではないし『受容して聴く』とは異なるのではないか?
ロジャーズという心理学者がカウンセリングというものを構築した
その理論を知っていても実際に使えなければどうなんだろう?
相手があって時間をすごすなら
場面はいろいろだろうが心地よく過ごしたいと思う
(だからやっぱりFeel at home やねんなあ・・・)
嫁と姑が腹を割っていろいろ話せるっていいなあ!
嬉しい~!
口ごもることがある
どう伝えたらいいか・・・・
言葉を失うことがある
言葉を選びながら言うから時間がかかることもある
最近もやもやというかムッとというか・・・
なんだかなあ・・・とスッキリしないことが多々あった
何か言われた時に言い返さず押し殺してしまうときに感じる
何とも言えない『もやーっ』とした感じ
でもそれが積み重なると8月のぜんそくの時のような感じと似ている
怒りではないのだが・・・悲しみに近い
もやっと・もやっと・・
「あ、知ってる!」と言われて嬉しいはずなんだけど
『あ。知ってる。blog読んだし書いてあった!』
確かに書いている
事実である
けれど100%綿密にすべては書かない
たとえば彼だけに伝えたいことをblogに事細かに書かないように
友人の個性・可能性
嫁たちの性格
はたまた自分のグループの人
全く知らない人
心理学を学んでいる仲間・トレーナー
いろんな人たちが読む
目にさらされるところに
100%書けるかと言われたら
書けないこともある
書けることはできるだけ書いているつもりだが・・・
だから『あ。読んでる。』から私をすべて解っているからというニュアンスで言われてしまうと
『なんだかなあ・・・・・まあそんな一面もあるんだけど…』
読んでるからもう話さないでも解っているというように感じる
『読んだら面白くて・・・すぐ時間が過ぎちゃう』と言われると
だからと言って 『もっと話して・・』と言うことは感じない
面白くて時間が過ぎるということは引き込まれて次々読んでくださったんだなあ…
ありがたいなあ・・そんな読者がいっぱいになったら本を出したいという夢が叶うのがはやくなるなあとウキウキするんだ!
と感じる嬉しさだな。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
夕べ電話での出来事
もやっと感は『読んでる。で?』と電話口で言われた時にピークに達した
もやっとしたまま話していて自分でもうまく言えないなあ・・と思いながら・・・
『もう20分聴いているんだけど』と言われた時に
脳みそがピッチってなったかもしれない
もやもやが瀬戸の渦潮みたいになった大きいもがいくつもグルグル回り始めた感じ
なんだったんだろう・・・という感じ・・・
その渦はグルグル廻りながら地球の深部まで深く深く降りていく
簡単に言えば凹むかな・・・・・
こんなことがあって・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今夜嫁と話しているときにも何かもやっと感があった
彼女は何か彼女の状態で反応的になって突っ込んできたと解るのだが・・・
それを飲み込んでしまって
もやっと・・・そう・・昨日のようにもやっと・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・
時間がたってから嫁のほうが言い出した
『なにか、正直に言ったつもりがもやっとしてる。何を言っても何か返してくれると思って言ったんだけど・・・もやっとしている』
「そうやったんや・・・どういおうかなと考えていたんやけどなあ・・・・」
『ままちゃん、どうしたらさっきのコミュニケーションは前に進むんやろ?』
「そうやなあ・・・・聴いてくれたらこれから言う事が解ると思う。さっきの状態で言っても耳に入らなかなあと思っていわへんかったんや」
『前に進みたいしきかせてほしいなあ』
「うん。うまくいえへんかったんやけど・・・もやっと感があって・・」と昨日の電話の話をする
「よく自分を観察すると人の話は案外受け取れるようになってきたんだなあと思うんだけど
相手に『受け取ってもらえない』ともやっとするんやなあ…なんか、悲しいっておもったり。拒絶され多様な感じかなあ・・・・」
『受け取るか!』
「そうやねん。さっきはなしたときに、反応的に自分の考えをいったやんかあ。そのときに『そうか、ままちゃんはそう思ったんやなあ。』と言ってくれたとしたら」
『「聴いてもらった!!」とまず安堵するよね。』
「と思う。でな、そのときの気持ちとか聞いてもらえたらあーーーよかった・・・・聞いてもろた――――!!と思うわけ」
『そうか実習して聞き返してゆうてみてよかった!何でも言っていいと思うからほんまに感じてること言ってよかったわあ』
『それは良かった。私は良く『聴いてほしいだけ!』っていわれてたやろ?だから努力してきたつもりやねん。
まあ、私も聴いてほしいときはあるしなあ・・・・でも訓練してこそ聴けるんやなあと思うねん』
『そや、ひとには要求するけど『自分はできてへん』って解らんかったもん。』
「心理学学んだらわかることもあるし訓練もするしなあ。そやし周りの人に心理学勉強してほしいなあって思うねん」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
嫁とこんな話が安心して話せる間柄でとことん話したからこそもやもやがすっきりした
私の周りには可能性を秘めた人が沢山いる
経験も人一倍している人がいる
けれど受け取ってもらう経験が少なすぎるんじゃないかなあ・・・・
愛される受容されるという事が少なすぎるんじゃないかなあ・・・
沢山受容してもらうには受容出来る人との関わりが沢山必要ではないかなあ・・・
普通の生活の中でそんなことは皆無に近い
もし出来ていたとしたら
自分が広い幅を選択の範囲に取り入れて 自由に自信を持って自分の人生を歩むだろう
それが出来ないのは子供のころからの周りの環境によって
知らず知らずに身に着けた無意識
その中には人をそのまま受け取るというセンスは磨かれずにあると思う
もし磨かれていたら自分自身をそのまま受け取る『受容することが出来る』はずではないかなあ・・・・・
そうなれば人を受容することが出来る
人の話も聴けるようになるのだろうなあと思う・・・
聴いているようで実は全く聴けていない
先入観・自分の観念をはずして聴くって本当に訓練がいると思う
判断しているときは聴ではないし『受容して聴く』とは異なるのではないか?
ロジャーズという心理学者がカウンセリングというものを構築した
その理論を知っていても実際に使えなければどうなんだろう?
相手があって時間をすごすなら
場面はいろいろだろうが心地よく過ごしたいと思う
(だからやっぱりFeel at home やねんなあ・・・)
嫁と姑が腹を割っていろいろ話せるっていいなあ!
嬉しい~!