8月24日(土)に第7回、9月7日(土)に第8回の東北歴博館長講座が開催されまし
たが、第7回は都合で参加できなかったので資料によって概略を記します。そして、その
後に第8回の館長講座の概略を記すことにします。
第7回(2013-08-24)
2.Ⅱ期官衙と飛鳥の京
:
(3)飛鳥の服属儀礼
③斎槻(ゆつき)の広場
天武・持統朝。斎槻とは神の降臨する神聖なケヤキ=依代(よりしろ)。
(4)Ⅱ期官衙政庁の服属儀式
蝦夷は7C後半から毎年都とともに国府・城柵などの地方官衙に朝貢し、服属儀礼を
行なう。朝貢してきた蝦夷に饗宴と禄を与え、懐柔して帰服させる。
○太白山
飛鳥での服属儀礼の誓約の対象は須弥山、斎槻であるが、Ⅱ期官衙の誓約の対象と
なる神聖なものは太白山。郡山遺跡の西方8.25km、標高321mにある。
太白山=神体山の条件:①めだった円錐形の山容、②頂上の岩盤、直方体の巨石→
磐座、③貴船神社
○政庁の儀礼構造
儀礼の主宰者である国司が天皇の代理人として正殿に南面して、その南の庭・脇殿
を使って行なう。
3.Ⅱ期官衙の造営年代と宮都の関係
Ⅱ期官衙の造営年代は、出土土器・瓦の年代から7C末と言われており、宮都との関係
で694-700年の狭い範囲に推定できる。
(1)造営年代の上限
藤原京遷都(持統8年、694年)以後と考えられ、Ⅱ期官衙造営年代の上限は694年。
(2)造営年代の下限
Ⅱ期官衙に、都で700年まで行われた7C型の夷狄の服属儀礼の施設=禊のための石
組み池が設けられた→造営年代の下限は700年。
(3)Ⅱ期官衙造営年代と宮都
Ⅱ期官衙の造営年代:694-700年。701年の大宝律令の施行以前となる。
○宮都との関係:Ⅱ期官衙は基本的に藤原宮をモデルに設計された、飛鳥と同じ服属
儀礼の場を設けていた。701年の大宝律令の施行によって儀式が整備され、夷狄の
服属儀礼の場は大極殿・朝堂に統合された。
第5章 郡山遺跡の性格
これまで、郡山遺跡は、名取郡家、城柵、陸奥国府説などが提起されてきたが、結論と
しては、Ⅰ期官衙=城柵、Ⅱ期官衙=陸奥国府である。
1.Ⅰ期官衙と渟足柵・磐舟柵
次の(1)~(4)から、Ⅰ期官衙は、越の渟足柵・磐舟柵に対応する。
(1)奥越の辺境経営
7C後半に、陸奥と越では、城柵あるいは官衙の設置・移民、船団による北征という
同じ政策による辺境経営が行われた。越の渟足柵・磐舟柵に対応する城柵が陸奥にも
設置されたはず。
(2)Ⅰ期官衙と渟足柵・磐舟柵との共通点
7C半ばに蝦夷の地に設置。
渟足柵:647年(大化3年)、磐舟柵:648年(大化4年)。2遺跡は未発見。
(3)城柵の構造
城柵の施設上の特徴:①外郭施設、②国府型の政庁。Ⅰ期官衙はこの条件を満たす。
(4)畿内産土師器
城柵には国司・鎮官など中央派遣官が城司として駐在。畿内産土師器の出土。
(5)Ⅰ期官衙と渟足柵・磐舟柵
(1)~(4)から、Ⅰ期官衙は渟足柵・磐舟柵に対応する城柵で、蝦夷の地への支配領域
拡大、蝦夷の帰服の拠点。移民移配→宮城評・名取評の設置。
たが、第7回は都合で参加できなかったので資料によって概略を記します。そして、その
後に第8回の館長講座の概略を記すことにします。
第7回(2013-08-24)
2.Ⅱ期官衙と飛鳥の京
:
(3)飛鳥の服属儀礼
③斎槻(ゆつき)の広場
天武・持統朝。斎槻とは神の降臨する神聖なケヤキ=依代(よりしろ)。
(4)Ⅱ期官衙政庁の服属儀式
蝦夷は7C後半から毎年都とともに国府・城柵などの地方官衙に朝貢し、服属儀礼を
行なう。朝貢してきた蝦夷に饗宴と禄を与え、懐柔して帰服させる。
○太白山
飛鳥での服属儀礼の誓約の対象は須弥山、斎槻であるが、Ⅱ期官衙の誓約の対象と
なる神聖なものは太白山。郡山遺跡の西方8.25km、標高321mにある。
太白山=神体山の条件:①めだった円錐形の山容、②頂上の岩盤、直方体の巨石→
磐座、③貴船神社
○政庁の儀礼構造
儀礼の主宰者である国司が天皇の代理人として正殿に南面して、その南の庭・脇殿
を使って行なう。
3.Ⅱ期官衙の造営年代と宮都の関係
Ⅱ期官衙の造営年代は、出土土器・瓦の年代から7C末と言われており、宮都との関係
で694-700年の狭い範囲に推定できる。
(1)造営年代の上限
藤原京遷都(持統8年、694年)以後と考えられ、Ⅱ期官衙造営年代の上限は694年。
(2)造営年代の下限
Ⅱ期官衙に、都で700年まで行われた7C型の夷狄の服属儀礼の施設=禊のための石
組み池が設けられた→造営年代の下限は700年。
(3)Ⅱ期官衙造営年代と宮都
Ⅱ期官衙の造営年代:694-700年。701年の大宝律令の施行以前となる。
○宮都との関係:Ⅱ期官衙は基本的に藤原宮をモデルに設計された、飛鳥と同じ服属
儀礼の場を設けていた。701年の大宝律令の施行によって儀式が整備され、夷狄の
服属儀礼の場は大極殿・朝堂に統合された。
第5章 郡山遺跡の性格
これまで、郡山遺跡は、名取郡家、城柵、陸奥国府説などが提起されてきたが、結論と
しては、Ⅰ期官衙=城柵、Ⅱ期官衙=陸奥国府である。
1.Ⅰ期官衙と渟足柵・磐舟柵
次の(1)~(4)から、Ⅰ期官衙は、越の渟足柵・磐舟柵に対応する。
(1)奥越の辺境経営
7C後半に、陸奥と越では、城柵あるいは官衙の設置・移民、船団による北征という
同じ政策による辺境経営が行われた。越の渟足柵・磐舟柵に対応する城柵が陸奥にも
設置されたはず。
(2)Ⅰ期官衙と渟足柵・磐舟柵との共通点
7C半ばに蝦夷の地に設置。
渟足柵:647年(大化3年)、磐舟柵:648年(大化4年)。2遺跡は未発見。
(3)城柵の構造
城柵の施設上の特徴:①外郭施設、②国府型の政庁。Ⅰ期官衙はこの条件を満たす。
(4)畿内産土師器
城柵には国司・鎮官など中央派遣官が城司として駐在。畿内産土師器の出土。
(5)Ⅰ期官衙と渟足柵・磐舟柵
(1)~(4)から、Ⅰ期官衙は渟足柵・磐舟柵に対応する城柵で、蝦夷の地への支配領域
拡大、蝦夷の帰服の拠点。移民移配→宮城評・名取評の設置。
現在多賀城跡と称する遺跡は別物です。
加美郡以外の所から出土した多賀城碑は勿論偽物です。記されている内容が続日本紀と全く合致しません。東鑑に文治五年に源頼朝が多賀国府に寄った如く記ますが、発掘調査ではるか以前に廃墟となった遺跡と確認されました。
多賀国府など最初から存在しません。陸奥国府は信夫郡にあったのです。大同五年五月十一日太政官符より。