東北歴博の第11回館長講座が10月26日(土)に開催されました。
以下にその概略を記してみます。
第11回(2013-10-26)
第7章 Ⅱ期官衙-陸奥国府の時代(7C末~724年)
:
2.陸奥国司と城司
:
・陸奥国司は畿内・長門国司とともに重要視され、高位の者を任命する。この時期に陸奥国が大国
に位置づけられたのは辺要国で蝦夷と対峙していたからであろう。
陸奥国司は国内の行政・司法・軍事・祭祀の一般的な職務の他に、城柵の城司(城主)として辺
境の支配を行なう。
3.陸奥国按察使:Ⅱ期官衙に駐在する陸奥守は陸奥国按察使を兼任
・按察使:719年(養老3年)7月に全国的に設置された上級広域地方官で、全国を4~5のブロックに
分けその中の1国の守を按察使に任命し国司より大きな権限をもってブロック内の国司・群司を
監察させた。
陸奥国按察使は720年9月に初見し、陸奥守が兼任し、陸奥・石城・石背国を、721年からは出羽国
を管轄。Ⅱ期官衙にいた最初の陸奥国按察使は上毛野朝臣広人、720年(養老4年)の蝦夷反乱で殺
害される。
4.軍団制と兵士
大宝律令により地方軍政として軍団制が施行され、城柵であるⅡ期官衙には防備のために軍団兵士が
駐屯した。
・軍団制:律令国家の地方軍制。諸国の国司の下に軍団を設置し、1軍団に兵士1000人が所属。
大毅(長官)1人、少毅(次官)2人、主帳(主典)1人の下に、指揮官として次の幹部を置く。
校尉5人:兵士200人を管轄、旅帥10人:兵士100人、隊正20人:兵士50人
兵士は1戸から1人、あるいは成人男子(正丁:21~60才)の1/4迄が指定され、一般諸国では軍事
教練、国府の守衛などにあたり、奥羽2国では城柵の鎮守にあたった。792年に陸奥・出羽国などの
一部を除き全国的な軍団制は廃止された。
・8C初めの陸奥国の軍団:4団兵士4000人が交代で城柵勤務。
5.大崎平野への進出
Ⅱ期官衙建造とともに大崎平野への本格的な進出が始まり、ほぼ同時期に越後でも庄内平野への進出
が始まり、出羽国が分国される。
(1)出羽国分国
698・700年(文武2・4年) 磐舟柵改修命令、庄内平野への進出の準備。
708年(和銅元年) 出羽柵設置、出羽郡設置。
710年(和銅3年) 蝦夷の反乱、征討軍派遣鎮圧。
713年(和銅6年) 越後国から出羽郡を分け出羽国設置。陸奥国から置賜郡・最上郡の移管命令
(716年実現)。
714年(和銅7年) 出羽柵に200戸柵戸移民。
716年(霊亀2年) 出羽柵に400戸柵戸移民(約8000人)。
(2)名生館遺跡と赤井遺跡
Ⅱ期官衙と同時に名生館遺跡と赤井遺跡に官衙が成立する。
・名生館遺跡:(大崎市大崎字名生館)大崎平野西北部、古代の玉造郡、丹取郡・玉造郡郡家。
・赤井遺跡:(東松島市赤井)石巻海岸平野。古代の牡鹿郡。
○705年(慶雲2年)陸奥国蝦夷の反乱:武蔵国奈良神の伝承、武蔵国から軍士が出征。
(3)715年の移民と黒川以北十郡の建郡
715年(霊亀元年) 坂東6国(相模:神奈川、上総:千葉、常陸:茨城、上野:群馬、武蔵:東京・
埼玉、下野国:栃木)の富民1000戸(2万人以上)が移民、「黒川以北十郡」と呼ばれる郡が一
斉に設けられ、支配が強化される。
・移民と地名の移動:陸奥国の郷名には坂東・東国の郡名・国名、陸奥南部の4郡名と同じ
ものが存在し、移民とともに地名が移動。
・黒川以北の十郡:牡鹿・小田・新田・長岡・志太・玉造・富田・色麻・賀美・黒川郡
以下にその概略を記してみます。
第11回(2013-10-26)
第7章 Ⅱ期官衙-陸奥国府の時代(7C末~724年)
:
2.陸奥国司と城司
:
・陸奥国司は畿内・長門国司とともに重要視され、高位の者を任命する。この時期に陸奥国が大国
に位置づけられたのは辺要国で蝦夷と対峙していたからであろう。
陸奥国司は国内の行政・司法・軍事・祭祀の一般的な職務の他に、城柵の城司(城主)として辺
境の支配を行なう。
3.陸奥国按察使:Ⅱ期官衙に駐在する陸奥守は陸奥国按察使を兼任
・按察使:719年(養老3年)7月に全国的に設置された上級広域地方官で、全国を4~5のブロックに
分けその中の1国の守を按察使に任命し国司より大きな権限をもってブロック内の国司・群司を
監察させた。
陸奥国按察使は720年9月に初見し、陸奥守が兼任し、陸奥・石城・石背国を、721年からは出羽国
を管轄。Ⅱ期官衙にいた最初の陸奥国按察使は上毛野朝臣広人、720年(養老4年)の蝦夷反乱で殺
害される。
4.軍団制と兵士
大宝律令により地方軍政として軍団制が施行され、城柵であるⅡ期官衙には防備のために軍団兵士が
駐屯した。
・軍団制:律令国家の地方軍制。諸国の国司の下に軍団を設置し、1軍団に兵士1000人が所属。
大毅(長官)1人、少毅(次官)2人、主帳(主典)1人の下に、指揮官として次の幹部を置く。
校尉5人:兵士200人を管轄、旅帥10人:兵士100人、隊正20人:兵士50人
兵士は1戸から1人、あるいは成人男子(正丁:21~60才)の1/4迄が指定され、一般諸国では軍事
教練、国府の守衛などにあたり、奥羽2国では城柵の鎮守にあたった。792年に陸奥・出羽国などの
一部を除き全国的な軍団制は廃止された。
・8C初めの陸奥国の軍団:4団兵士4000人が交代で城柵勤務。
5.大崎平野への進出
Ⅱ期官衙建造とともに大崎平野への本格的な進出が始まり、ほぼ同時期に越後でも庄内平野への進出
が始まり、出羽国が分国される。
(1)出羽国分国
698・700年(文武2・4年) 磐舟柵改修命令、庄内平野への進出の準備。
708年(和銅元年) 出羽柵設置、出羽郡設置。
710年(和銅3年) 蝦夷の反乱、征討軍派遣鎮圧。
713年(和銅6年) 越後国から出羽郡を分け出羽国設置。陸奥国から置賜郡・最上郡の移管命令
(716年実現)。
714年(和銅7年) 出羽柵に200戸柵戸移民。
716年(霊亀2年) 出羽柵に400戸柵戸移民(約8000人)。
(2)名生館遺跡と赤井遺跡
Ⅱ期官衙と同時に名生館遺跡と赤井遺跡に官衙が成立する。
・名生館遺跡:(大崎市大崎字名生館)大崎平野西北部、古代の玉造郡、丹取郡・玉造郡郡家。
・赤井遺跡:(東松島市赤井)石巻海岸平野。古代の牡鹿郡。
○705年(慶雲2年)陸奥国蝦夷の反乱:武蔵国奈良神の伝承、武蔵国から軍士が出征。
(3)715年の移民と黒川以北十郡の建郡
715年(霊亀元年) 坂東6国(相模:神奈川、上総:千葉、常陸:茨城、上野:群馬、武蔵:東京・
埼玉、下野国:栃木)の富民1000戸(2万人以上)が移民、「黒川以北十郡」と呼ばれる郡が一
斉に設けられ、支配が強化される。
・移民と地名の移動:陸奥国の郷名には坂東・東国の郡名・国名、陸奥南部の4郡名と同じ
ものが存在し、移民とともに地名が移動。
・黒川以北の十郡:牡鹿・小田・新田・長岡・志太・玉造・富田・色麻・賀美・黒川郡
陸奥国黒川・賀美等十一郡俘囚三千九百廿人言曰、己等父祖本是王民。而為レ夷所レ略、
遂成二賊隷一。今既殺レ敵帰降、子孫蕃息。伏願、除二俘囚之名一、輸二調庸之貢一。許レ之。
史料上、上記の記録がみられますが、
[ (3)715年の移民と黒川以北十郡の建郡]
715年に黒川以北建郡とする史料は何に記されているのですか?