東北歴博の第10回館長講座が10月5日(土)に開催されました。
以下にその概要を記してみます。
第10回 (2013-10-05)
第6章 渟足柵・磐舟柵と郡山遺跡Ⅰ期官衙
:
4.斉明朝の北征
:
(3)斉明朝北征の目的--従来の説
①国内における支配領域拡大説(東北学院大・熊谷公男氏)
北方各地の蝦夷集団と個別的に貢納制的政治支配を結んで大和政権の支配下に置こ
うとするもので、国郡制の面的な拡大に対して貢納制支配の点的な拡大を意図した。
②国際情勢説--(奈良大・坂井秀弥氏)
7C後半の北東アジアの緊迫した国際情勢を重視して、阿倍比羅夫の北征は倭国の
北方領域の確定を目的とした。
(4)北征と国際情勢
次の2点から(3)の②と同様に国際情勢の中に位置づける。
・奥越羽でこのような船団による遠征が行なわれたのはこの時限りで、ちょうどこの
時期は倭国をめぐる東アジアの国際情勢が緊迫している時期であった。
・7C半ばの国家の支配領域は陸奥国では仙台・大崎平野、越国では越後平野止まり
で、この時の北征の対象地域があまりに北に突出している。
○7C半ばの東アジアの国際情勢
朝鮮半島:高句麗・百済・新羅の3国が鼎立して抗争。
643年 「唐と新羅同盟」と「高句麗と百済同盟」の対立
唐の高句麗征討:645・647・648・655・658年
倭国の外交:改新以前は高句麗・百済と親交
改新以後、646年に二面外交へ転換(親百済を基本に新羅を通して唐とも通交)
657年:新羅との関係が悪化し二面外交の破綻
660年:唐・新羅によって百済滅亡
・658~660年北征をこのような国際情勢の緊迫下に置いてみると、いつ非常事態が
起きるか分からない時に倭国が国内問題のために奥越両国で大軍を動かす余裕が
なく、この北征が国際問題の一環であったと考えられる。北征の開始658年が二
面外交の破綻の翌年であった。
(5)北征の目的
○室賀信夫説:阿部比羅夫の北征は、日本の国土と大陸との地理的関係を明らかにす
る地理的探検であり、高句麗・粛愼への北方航路の開拓を目指したもの。
○今泉隆雄説:奥越両国の北征は、国際情勢の緊迫化の中で国土の北部と大陸との地
理的関係を明らかにするための地理的探検・探索であり、より限定的には高句麗へ
の北方航路を開拓することを目的とした。
(6)阿倍比羅夫と阿倍氏
○阿倍引田臣比羅夫:阿倍氏の引田家の出身。7Cの官人・武将
○阿倍氏:阿部とも。6C前半~8Cに大和朝廷の上級豪族・貴族。初め姓は臣、
684年から朝臣。本拠は大和国十市郡阿倍(奈良県桜井市阿部)。
・主な人物:阿倍大麻呂、阿倍麻呂、阿倍御主人、阿倍仲麻呂
*日本書紀に越国の記述が多いが、阿倍氏の持っていた記録があり、それが書紀の
中に入ったのではないか。
第7章 Ⅱ期官衙-陸奥国府の時代(7C末~724年)
1.陸奥国府と観世音寺
①Ⅱ期官衙は藤原宮をモデルに設計
②Ⅱ期官衙には、大宝令以前の蝦夷の呪術的服属儀礼を行なうための施設が設けられる
③郡山廃寺=観世音寺は太宰府の付属寺院である筑紫観世音寺と同時期に造営
2.陸奥国司と城司
701~702年:大宝律令の制定・施行、Ⅱ期官衙には陸奥国司が駐在
・国のランクは、大国・上国・中国・下国によって国司の定員と相当位階が決まる。
陸奥国は大国で、守(長官、従五位上相当)、介(次官、正六位下相当)、大掾(大
判官、正七位下)、少掾(少判官、従七位上)、大目(大主典、従八位上)、少目
(少主典、従八位下)、史生:3人、国博士、医師の計11人
以下にその概要を記してみます。
第10回 (2013-10-05)
第6章 渟足柵・磐舟柵と郡山遺跡Ⅰ期官衙
:
4.斉明朝の北征
:
(3)斉明朝北征の目的--従来の説
①国内における支配領域拡大説(東北学院大・熊谷公男氏)
北方各地の蝦夷集団と個別的に貢納制的政治支配を結んで大和政権の支配下に置こ
うとするもので、国郡制の面的な拡大に対して貢納制支配の点的な拡大を意図した。
②国際情勢説--(奈良大・坂井秀弥氏)
7C後半の北東アジアの緊迫した国際情勢を重視して、阿倍比羅夫の北征は倭国の
北方領域の確定を目的とした。
(4)北征と国際情勢
次の2点から(3)の②と同様に国際情勢の中に位置づける。
・奥越羽でこのような船団による遠征が行なわれたのはこの時限りで、ちょうどこの
時期は倭国をめぐる東アジアの国際情勢が緊迫している時期であった。
・7C半ばの国家の支配領域は陸奥国では仙台・大崎平野、越国では越後平野止まり
で、この時の北征の対象地域があまりに北に突出している。
○7C半ばの東アジアの国際情勢
朝鮮半島:高句麗・百済・新羅の3国が鼎立して抗争。
643年 「唐と新羅同盟」と「高句麗と百済同盟」の対立
唐の高句麗征討:645・647・648・655・658年
倭国の外交:改新以前は高句麗・百済と親交
改新以後、646年に二面外交へ転換(親百済を基本に新羅を通して唐とも通交)
657年:新羅との関係が悪化し二面外交の破綻
660年:唐・新羅によって百済滅亡
・658~660年北征をこのような国際情勢の緊迫下に置いてみると、いつ非常事態が
起きるか分からない時に倭国が国内問題のために奥越両国で大軍を動かす余裕が
なく、この北征が国際問題の一環であったと考えられる。北征の開始658年が二
面外交の破綻の翌年であった。
(5)北征の目的
○室賀信夫説:阿部比羅夫の北征は、日本の国土と大陸との地理的関係を明らかにす
る地理的探検であり、高句麗・粛愼への北方航路の開拓を目指したもの。
○今泉隆雄説:奥越両国の北征は、国際情勢の緊迫化の中で国土の北部と大陸との地
理的関係を明らかにするための地理的探検・探索であり、より限定的には高句麗へ
の北方航路を開拓することを目的とした。
(6)阿倍比羅夫と阿倍氏
○阿倍引田臣比羅夫:阿倍氏の引田家の出身。7Cの官人・武将
○阿倍氏:阿部とも。6C前半~8Cに大和朝廷の上級豪族・貴族。初め姓は臣、
684年から朝臣。本拠は大和国十市郡阿倍(奈良県桜井市阿部)。
・主な人物:阿倍大麻呂、阿倍麻呂、阿倍御主人、阿倍仲麻呂
*日本書紀に越国の記述が多いが、阿倍氏の持っていた記録があり、それが書紀の
中に入ったのではないか。
第7章 Ⅱ期官衙-陸奥国府の時代(7C末~724年)
1.陸奥国府と観世音寺
①Ⅱ期官衙は藤原宮をモデルに設計
②Ⅱ期官衙には、大宝令以前の蝦夷の呪術的服属儀礼を行なうための施設が設けられる
③郡山廃寺=観世音寺は太宰府の付属寺院である筑紫観世音寺と同時期に造営
2.陸奥国司と城司
701~702年:大宝律令の制定・施行、Ⅱ期官衙には陸奥国司が駐在
・国のランクは、大国・上国・中国・下国によって国司の定員と相当位階が決まる。
陸奥国は大国で、守(長官、従五位上相当)、介(次官、正六位下相当)、大掾(大
判官、正七位下)、少掾(少判官、従七位上)、大目(大主典、従八位上)、少目
(少主典、従八位下)、史生:3人、国博士、医師の計11人
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