平らな深み、緩やかな時間

210.『さとう陽子展』、『内山睦展』『パート1:地底人』から考えたこと

さとう陽子さんの個展が、2月19日まで東京・京橋のギャラリー檜で開催されています。
http://hinoki.main.jp/img2022-2/exhibition.html
さとうさんについては、美術作品から詩作品まで、何回かこのblogで取り上げてきました。
前回の個展については、こちらを読んでみてください。
https://blog.ap.teacup.com/tairanahukami/196.html
さとうさんの詩については、こちらを読んでみてください。
https://blog.ap.teacup.com/tairanahukami/202.html
https://blog.ap.teacup.com/tairanahukami/203.html
さて、そのうえで手短に今回の個展を紹介したいのです。
そう思ったのは、もしもあなたが絵画を描いていて、制作上のことで悩んでいるなら、ぜひこの展覧会を見てください、と言いたいからです。
このblogで何回も書いていることですが、いまは何を描いてもいい時代だと言えます。しかしその反面、何を描いても確信を持ちにくい、つらい時代だとも言えます。
無邪気に好きな絵を描いていると、私のような物知り顔の嫌な年寄りが「どこかで見たような絵だな・・」などと言うかもしれません。それではそれに対抗して、何か知恵をつけるために美術評論でも勉強しようか、と思ってみても「誰の本を読んだらいいの?」と、わからなくなります。何かいい本を見つけたと思えば、必ずその本を批判する意見が出てきます。それに時代の移り変わりが早いから、せっかく身につけた知見もすぐに古くなります。
誰かに批判されたくなければ、何もしないのが一番?でも、あなたは絵を描きたいのでしょう?それならば、好きな絵を描きませんか?

それでは、さとうさんの絵を見てみましょう。
さとうさんの個展会場に到着したら、ちゃんと奥の部屋まで見に行ってください。奥の部屋の左手に大きな黄色(オレンジ色)の絵があります。虚心坦懐にその絵と向き合うなら、あなたはその美しさにびっくりするはずです。どうやって描いているのか、知りたくなって近づいてみても、クレヨンのような描画材と絵の具が重なり合っていて、その手順をかんたんに予測することができません。
その美しさに見とれているうちに、右上に方眼紙のようなグリッドがあることに気がつきます。なぜ、ここにこんなグリッドがあるのでしょうか。
このグリッドがなければ、この絵は現代絵画の見慣れた手法の作品として解釈することができます。何回もこのblogで話題にしてきたことですが、例えば美術評論家のクレメント・グリーンバーグ(Clement Greenberg, 1909 - 1994)と画家のジャクソン・ポロック(Jackson Pollock、1912 - 1956)が産み出した抽象表現主義絵画のオール・オーヴァーな絵画として解釈できるのです。画面上を均質な強度で埋め尽くす、モダニズム絵画を象徴する手法のことです。しかし、右上のグリッドによって、この絵はそんな現代美術の文脈の上にはないことがわかります。これまでも何度か書いてきたことですが、そんなふうに絵画を統一した手法やシステムによって描かなければならない、などと、さとうさんは考えていないのです。
さとうさんのこのような絵の特徴は、さとうさんの表現のすべてに見ることができます。おそらく、さとうさんには自分の作品を批判的に見る姿勢が、自然に備わっているのだと思います。そしてさとうさんの写真作品にも、そして詩作品にも、同じような批判的な、あるいは客観的な姿勢を感じることができます。
例えば写真作品では、今回の展覧会で2枚の写真を並べているものがあります。1枚でも面白い写真ですが、カラーと白黒、人物と床面という違った写真が2枚並べられていることで、それらは互いを相対化したり、相乗効果を高めたりするのです。1枚の写真の美しさに耽溺するのではなく、それらを外側から眺めるような視線がさとうさんにはあります。
あるいは、詩の例で言うと、さとうさんから以前にいただいた短詩集の中に『生き継ぐ』という作品があります。

生き継ぐ

肩に降りかかる
温かい雨

これだけの短い詩です。「生き継ぐ」ということは「温かい雨」のようなものなのでしょうか。何だか、世知辛いこの世の中で、生きていくことのささやかな喜びを歌っているようで、ホッとする詩です。しかし、その一方で『世界はいつも』という作品があります。

世界はいつも

勝手に醜く 
勝手に喜劇で 
勝手に惨め 
全部知らん顔

これも、これだけの詩です。「世界」は「醜く」て、そして「全部知らん顔」なのでしょうか?何だか、つらい詩ですね。私の知り合いの国語の先生は、さとうさんは短い言葉で世界を切り取る人だ、と言っていました。
詩とはしょせん、言葉の集まりに過ぎません。この詩を唱えたからといって、何かご利益(りやく)があるわけではありません。しかし、世界をみごとに切り取る温かい視線と客観的な視線の両方が、さとうさんの詩にはあります。言葉を愛して、言葉を紡ぎながらも、さとうさんはそこに耽溺することがありません。「温かい雨」のことを想起しつつ、「世界」が「勝手に醜く」という側面も見逃さないのです。その批判的な姿勢が、言葉の最大限の効果を導き出すのだと思います。
ここで、面倒な美術評論の話を少しだけしておきましょう。
先ほどのグリーンバーグのように、絵画が統一した手法で描かれなければならない、あるいは画面上から画家の表現様式を読み取らなければならない、という考え方のことを美術評論ではフォーマリズムと呼びます。これは現代絵画が発展していく中で、主にグリーンバーグによって提唱された考え方です。彼はそうやって真面目に絵と向かい合ったのです。しかし、そのような見方では解釈できない作品が現れました。あるいはそういう見方から逃れるような作品が現れました。そのどちらが先なのか、よくわかりませんが、フォーマリズムまでの絵画の見方をモダニズムと呼ぶのなら、その後に現れた作品や批評のことをポスト・モダニズムというふうに呼びます。それらの表現は、意図的に復古的なものとモダニズム的なものとを画面上でミックスしました。
このモダニズムにしろ、ポスト・モダニズムにしろ、考え方として共通しているのは、芸術の背後にはそういう難しい思想があって、芸術作品はそれを体現したものでなければならない、という思い込みです。先ほども書いたように、思想が先か、芸術作品が先か、どちらかわかりませんが、お互いに寄り添いながら目新しいものを生んできたのです。さとうさんの作品も、あえてそのパターンに当てはめれば、ポスト・モダン的な作品として売り出すことになるのでしょうか?
しかし、さとうさんの作品には、そんな意図はありません。繰り返しになりますが、私がさとうさんの作品から感じることは、どんなにその作品が美しくても、さとうさんはそれが絵画である、ということを知っているということです。
例えば、今回のさとうさんの作品の中に、額縁に着色したものがあります。前回もそういう作品がありました。さとうさんは額縁の外からも作品を見ます。何気なく作品を見る人は、それを当たり前だと思うかもしれませんが、私は額縁のことを考えて絵を描くことはありません。さとうさんが絵を見る目は私よりも巨視的だとも言えますが、その一方でさとうさんの絵画のディテイルを見ると、そこにはどんな微細なものも見逃さない視線も感じられます。
はじめの話に戻りますが、絵画の制作上のことで悩んでいる方がいたら、ぜひともこの『さとう陽子 展』を見てください。作品が美しく、そして説得力があるということが、何よりも作品の力になるのです。画家は、それ以外のことを考えなくても良いのではないでしょうか。もしも、あなたの作品が語るに足るほどの力があれば、見識のある評論家がそこに何か意味のある言葉を見出すことでしょう。
ただ、今の日本でそれだけの評論を書く人がいるのかどうか、はなはだ心もとないのですが、それは考えても仕方のないことです。とにかく、自分を信じて描きましょう。


さて、次に紹介するのは、まったく別の展覧会です。
東京の東神田にある武蔵野美術大学が運営するgallery αMで開催されている『わたしの穴 美術の穴|地底人とミラーレス・ミラー』という展覧会の『パート1:地底人』です。
https://gallery-alpham.com/exhibition/project_2020-2021/plus_vol2/
どういう展覧会でしょうか。プレス・リリースから見ていきましょう。

「地底人とミラーレス・ミラー」
石井 友人・高石 晃
「わたしの穴 美術の穴」はアーティストの石井友人と高石晃によるアート・プロジェクトです。「地底人」と「ミラーレス・ミラー」という二つのテーマは、穴というモチーフを巡るプロジェクトでの7年間の活動を通じて浮上してきたものです。日常空間に遍在する穴。穴を実在するものとして認識することは出来ません。そこには何もない。しかし、不可思議にもそこに穴は存在していると感じます。このアンビバレントな経験を通して、私たちの知覚や記憶、情動や想像力は駆動されている。そしてそのことの内に、人間という認識の枠組みを持った存在、そして、美術という制度における人間的営為の根源性があるのではないか、私たちはそのように解釈しています。
(『わたしの穴 美術の穴|地底人とミラーレス・ミラー』より)

この展覧会はパート1とパート2に分かれていますが、2月12日まで『パート1:地底人』が開催されていました。こちらは高石晃さんの企画によるものです。参加している作家、企画者は、高石晃、高山登、ニコライ・スミノフの三人です。
今回の展示は部屋を暗くした中で鑑賞するようになっていて、壁一面にニコライ・スミノフのメッセージ文字が書かれています。そして、暗い室内に置かれた液晶パネルの作品資料はニコライ・スミノフが2019年にウラル・ビエンナーレで企画した「死、不死、そして地下世界の力」という展示から選定された資料だそうで、別々の三人の作家の作品、およびプロジェクトのようです。そこに高石晃さんの石に描画した作品と、高山登さんの枕木のインスタレーション作品が加わります。
この展覧会は、地下世界には豊饒なイメージが隠されている、という企画者の意図が十分に伝わってくるものでした。この展覧会について、さらにその企画意図を知りたい方は、次のニコライ・スミノフのインタビューの動画を参照してください。
https://youtu.be/tNzvN9dNthI
このような資料から、高石✕スミノフの展覧会の様相がある程度わかると思いますので、私はここでは、高山登さんの作品について、若い高石晃さんがどのようにとらえているのか、ということを中心に話を進めたいと思います。高山登さんの作品について、高石晃さんが書いたと思われる文章を一部抜粋してみましょう。

高山登が1968年前後から開始した表現実践は、一見要素還元的な形式をとっていたとしても、一貫して事物がその内部に抱え込んでいる記憶、歴史を志向しており、同世代の日本の作家よりもむしろヨーゼフ・ボイス等の実践との同時性をもっていました。その独自な物語性は、初期作の多くが「地下動物園」と名付けられていたことからもわかるように、この世ならざる地下世界への想像力に根ざしたものです。作品の構造、素材などには監獄や処刑台、強制労働など、近代国家による暴力が暗示されており、高山にとって地下世界は抑圧されてきた死者=他者たちが潜む場所として措定されていたのかもしれません。
(『わたしの穴 美術の穴|地底人とミラーレス・ミラー』より)

この展覧会をご覧になっていない方、あるいは若い方には『地下動物園』がどんな作品かわかりませんよね。例えば次のサイトを見てください。
https://www.kamakura.gallery/KG-html/monoha-page/works/past/takayama/p_takayama-1.htm
そして高石晃さんの短い文章の中には、さまざまな情報や思いが凝縮されています。だからこういう文章を読み慣れないと何だかよくわからないと思います。ちょっと噛み砕いてみましょう。高山登さんは現代美術史の中で「もの派」と呼ばれる動向の作家として位置づけられることが多い作家です。この「もの派」というのは、例えば美術手帖のホームページに次のように書かれています。

「もの派」は1968年頃〜70年代中期までにわたって存在したアーティスト10数名の表現傾向に与えられた名称。関根伸夫、李禹煥、菅木志雄、吉田克朗、成田克彦、小清水漸、榎倉康二、高山登、原口典之などが主な作家である。共通して認められるのは、自然物、人工物への人為的な関与の少ない即時的、即物的な使用だが、それ以外は個人によって思考やテーマにも比較的大きな隔たりがある。
(『美術手帖』ホームページより 沖啓介)

つまり1970年代を中心に、自然物や人工物をあまり加工せずにそのまま作品として展示した作品群に対して、「もの派」と言っているわけです。そしてこの「もの派」の作家として見られてしまうことで、モチーフの「もの」を「即時的、即物的」に表現する「要素還元主義」的な作品として捉えられてしまうのです。高石晃さんは、高山さんの作品はそういうものとはちがうのではないか、と言っているのです。
そのことに関連して、例えば美術評論家の椹木野衣は、その著書『日本・現代・美術』で次のように書いています。

自作の枕木を一貫して作品に使用する高山登の作品は、きわめて空間構成的な側面が強く、また、当時欧米でさかんであったミニマル・アートやプロセス・アート、そしてアースワークとの接点もあり、またこうした観点からも充分な成果をあげていることは尊重したい。しかし、高山の作品の価値が、そのような外来の評価基準にそいながら、同時にそこにおさまりきらない両義性を、作品の内なる境界としてつねに孕んでおり、いまなお、いや、いまだからいっそう、この緊張感において見られるべきであるように思われる。
(『日本・現代・美術』「第六章 バリケードのなかのポストモダン」椹木野衣)

椹木野衣は、高山さんの作品には「外来の評価基準にそいながら、同時にそこに収まり切らない両義性」があるのだと言います。その「両義性」というのは、もちろん美術史的な「もの派」という範疇にもおさまらないものです。
あるいは、作家の徐京植は『ディアスポラ紀行』という著書のなかで、高山さんの枕木の作品について、高山さんが北海道の炭鉱の中で見た枕木のイメージと、高山さんの出自とを重ね合わせて次のように書いています。

「枕木」という素材への独特のこだわりや「強制連行・強制労働」を連想させるその作風と、彼の民族的出自とを短絡的に結びつけることには問題があろう。だが、アートが人間のなす行為である以上、作品は作家の出自と無縁であると片付けるわけにもいかない。
(『ディアスポラ紀行』「暴力の記憶」徐京植)

韓国の光州市立美術館の前庭で、高山さんの壮大な作品を見た徐京植は、高山さんの「枕木」について、自分なりの思いを馳せてこのように書いたのでした。
これらの評論家、作家の解釈と、今回の高石さんの企画意図とを考え合わせると、高山登という作家が「もの」を「要素還元主義」的に並べる「もの派」の一員としてではなくて、もっと独自の読み取り方が必要な作家なのだ、ということがわかってきます。
私はこのように若い作家が過去の作品をリスペクトし、既成の美術史的な文脈にとらわれずに、そこに新たな解釈を見出していることに賛同します。そして「地下世界」という自分たちの興味をその解釈に相乗させていることも、面白い試みだと思います。
しかし実を言うと、会場が暗すぎて、高山登さんの黒い枕木の作品が少々見づらかったのが残念でした。私の老眼のせいかもしれませんが・・・。
それはともかく、次の『パート2:ミラーレス・ミラー』が2月19日から3月19日まで開催されます。そのキュレーターは、石井友人さんです。参加アーティストの中に、高山登さんと同世代の藤井博さんが含まれていますので、こちらの展示も楽しみです。

だいぶ長くなってしまいましたが、もう一つだけ別の展覧会に触れておきます。
もう終わってしまったのですが、さとう陽子さんの展覧会の前半と同時期に、やはり京橋のギャラリー檜で開催された『内山睦展』です。
内山睦さんの作品といえば、和紙の温かな手触りと、目に染み込むような美しい色彩が持ち味です。その作品の触覚性と色彩感はつねに変わりませんが、それをどのように表現していくのか、ということについて内山さんは果敢な試行錯誤を続けています。今回もパネルに和紙を張り込んだものや、和紙の自然な矩形をそのまま展示したもの、2枚の和紙を重ね合わせたもの、というふうにいくつかの方法を試みていました。
さとうさんと同様に、内山さんも独自の色彩感を持っている作家です。私は、こういうふうに感性の豊かな人の作品を見ると、本当にうらやましくなります。こういう人たちは、何をやっても質の高い、美しい作品が作れるのだと思います。私は内山さんの展覧会を見に行って、がっかりしたことがありません。
その一方で、内山さんの作品を見ると、その豊かな感性を表現するベストな方法を、まだ見出していないのではないか、という気がしてしまいます。内山さんの持っているものを、もっと十分に発揮するやりかたが、どこかにあるのではないか、という予感がするのです。あまり論理的な言い方ができなくて申し訳ないのですが、私自身のことで言えば、私はいつも自分が伸び切ったゴムのような気分で絵を描いています。私はもともと美的な感性が貧弱なものですから、それを100%どころか、120%ぐらいにして見せないと、人並みの展示になりません。乾いたボロ雑巾をしぼるような、という比喩もありますね。
内山さんの作品を見ると、私とは逆にあふれるような美的感性が出口を求めているような、そんな気分になるのですが、これは私の理解や経験を超えた範疇のことですので、ここからは当てずっぽうで思いついたことを書いてみます。
内山さんの作品には、作品が美しく見える要素がたくさんあります。もしかしたら、それらが互いに主張しすぎているのかもしれません。和紙という素材の美しさ、それに加えて内山さんの繊細な彩色やドローイングの技法がその美しさを際立たせています。そしてそこに内山さんの色彩感の美しさ、という要素が重なります。これだけ美的な要素が重なると、行為者である内山さんのねらいや思いよりも、作品の美しさが上回ってしまう、ということがあるのかもしれません。
もうひとつは内山さんが現代美術や現代絵画のことをよく勉強されていて、その文法を正しく応用されている、ということも影響しているのかもしれません。先ほどのさとうさんのところで書いたような、オール・オーヴァーな現代絵画という文法です。この文法はときに作品の内容を限定し、窮屈にすることがあります。
そんなことを考えながら今回の作品を見せていただくと、和紙を2枚重ねた作品が現代絵画の文法から自由になる窓口になりそうな気がしました。現代絵画の文脈では、フォルムとか構成とか呼ばれるような、旧套的な絵画の要素は否定されます。しかし、私は作品が魅力的であれば、そんなことはどうでも良いと思っています。今回の内山さんの二枚重ねの作品の、下の層の和紙には少し骨太な形(フォルム)のようなものが見えていました。それが透けて見えることで、内山さんの作品に新たな息吹をもたらしている、と感じたのです。
モダニズムの絵画は、すでに窒息しかかっています。だからその文法を、あまり律儀に重んじる必要はないと思います。内山さんには、和紙の美しさを際立たせる技術と、独自の美しい色彩感という大きなアドヴァンテージがあります。だから、現代絵画の文脈から少し外れたぐらいでは、その作品の美しさはびくともしないと思います。
和紙というのは、美術表現を試みる者から見ると、とても魅力的な素材です。私も作品の素材として、和紙にいくつかの試みをしてみましたが、その素材の魅力に飲まれてしまいそうな気がしてあきらめてしまいました。そんな私の生半可な関わり方に比べると、内山さんにとっての和紙はすでに血肉化されていて、内山さんの感性と表裏一体を成しているように感じます。ですから、内山さん独自の表現をもっともっと押し出した作品を見てみたい、と切望してしまうのです。
ずいぶん、勝手なことを書いてしまいました、すみません。

今回は、それぞれまったく違った表現をしている展示を見ることができました。新型コロナウイルスの感染状況下で、美術館が企画する人気の展覧会は予約することもままならない状況です。しかし街の画廊では、こうした魅力的な展覧会が今も開催されています。そのことを、もっと多くの方に知っていただきたいと思っています。
私も仕事の忙しさにかまけてしまったり、自分の健康状態を慮ったりして行けなかった展覧会が少なくありません。しかし、あまり下向きに考えないで、こうして見ることのできる展覧会を、大いに楽しみたいと思っています。そしてその思いを共有していただけるとうれしいです。

 
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