平らな深み、緩やかな時間

215.2022.04 個展パンフレット

ラジオを聞いていたら、気になるリクエストがありました。
ひとつはStingの『Russians』です。まさかこの時代に、この曲を感慨をもって聴くことになるとは、夢にも思いませんでした。英語のわからない私にも、「ロシア人にだって愛する子供がいるはずだろう?人間どうしで理解しようよ・・・」というメッセージは伝わります。
https://www.youtube.com/watch?v=376SZvpqIQg

もうひとつは「プロコル・ハルムの中心人物、ゲイリー・ブルッカーが76歳で死去」というニュースにともなうリクエストです。私の聴いている番組では、『青い影:A Whiter Shade of Pale』はベタ過ぎて一回しかかかりませんでしたが、若い方たちはご存知ですか?バッハの曲にシュールな歌詞をのせた大ヒット曲です。
https://youtu.be/cTxvYuyEssU

それにしても、ウィルス感染や自然災害は歯を食いしばって耐えるしかありませんが、戦争で人が亡くなるのは、何ともやるせないですね。ブルッカーさんは癌で亡くなった、ということですが、ご冥福をお祈りいたします。



さて、本題に入ります。
この4月11日(月)から4月16日(土)まで東京・京橋のギャラリー檜で個展を開催する予定ですが、そのパンフレットの原稿が出来上がりました。次の私のホームページから「パンフレットpdf」をクリックしてください。作品写真が入ったものをご覧いただけます。
http://ishimura.html.xdomain.jp/news.html
その原稿の文章は、次の通りです。読みやすい方で読んでいただけるとうれしいです。


<パンフレット原稿>
このパンフレットは2022年4月に開催する京橋・ギャラリー檜での個展のために製作したものです。新型コロナウイルスの感染状況がなかなか改善しない中で、前回、前々回に続いて今回も感染状況を配慮して会場に来ていただけない方に記録として見ていただけるものを作っておきたい、と思ってパンフレットを製作することにしました。そして、もしも私の活動に興味を持っていただけたなら、私の発信しているblogもご覧になってください。何かの参考にしていただければ、こんなにうれしいことはありません。


〇今回の個展のプレスリリース
絵画における「触覚性」ということをこの数年、考えてきました。そうすると、さまざまな興味深い知見に出会います。例えば、伊藤亜紗の『手の倫理』という本には、英語の「touch」にあたる言葉として、日本語では「さわる」と「ふれる」というニュアンスの異なるふたつの表現があり、その違いは次のようなものだと書かれていました。 「ふれる」は人間的なかかわり、「さわる」は物的なかかわり、ということになるでしょう。そこにいのちをいつくしむような人間的なかかわりがある場合は「ふれる」であり、おのずと「ふれ合い」に通じていきます。逆に、物としての特徴や性質を確認したり、味わったりするときには、そこには相互性は生まれず、ただの「さわる」にとどまります。
私が絵画における「触覚性」というとき、「ふれる」と「さわる」の両方の意味を含んでいるように思います。私たちは眼で絵に「ふれる」と同時に、「さわる」のです。絵画を人の創作物としていつくしむと同時に、物として眼で味わうことで、視覚や触覚といった複数の感覚が相互に連動して、主観と客観を越えた表現が実現できると考えているのです。

〇触覚性絵画について
 プレスリリースに書いたように、この4年ぐらいの間、私は絵画の「触覚性」について考察しながら絵を制作してきました。私は学生時代に、哲学者の中村雄二郎(1925 - 2017)の『共通感覚論』(1979)という本を読んで、現代という時代が人間の五感の中でも「視覚」を偏重する傾向にあることを知りました。「常識」の英語訳であるコモンセンスという言葉がありますが、その語源は古く、古代ギリシアのアリストテレス哲学において「共通感覚」として、つまり「五感の統合態」を表す言葉としてとらえられていたのです。ところが文明の発達において、利便性の高い「視覚」ばかりが独走し、ほかの感覚の重要性が見過ごされてしまいました。中村雄二郎は、その見過ごされた感覚のなかでも「触覚」の重要性についてとくに注目したのです。私はこれまでの創作活動を通じて、現代絵画の行き詰まった状況の要因の一つに「視覚」の偏重が大きく関わっていると考え、絵画における「触覚性」について探究していくことにしたのです。
 その探究の過程でさまざまな知見、著作、作品と出会いましたが、そのことについて興味を持っていただける方は、先にご紹介した私のblogや私のホームページから、これまでに私の書いた文章、テキストをご覧ください。今回は、はじめにプレスリリースにも書いた美学者、伊藤亜紗の『手の倫理』という著作から考えたいと思います。

〇伊藤亜紗『手の倫理』について
伊藤亜紗(1979 - )の『手の倫理』(2020)は、人が人に「さわる」、「ふれる」時に、どのような交流が生まれ、どういうふうに相互理解が深まるのか、ということについて考察した本です。この本の興味深いところは、哲学的な考察ばかりでなく、介助、子育て、教育、性愛、看取りなど、現代社会でもさまざまな課題をかかえる具体的な事象にも光をあて、机上の理論にとらわれない思考を展開しているところです。ですから、あらゆる分野の人がこの本から学ぶ点があると思うのですが、私はやはり絵画や芸術の「触覚性」という観点から考えてみたいのです。 私は、私の書いているblogでこの本を取り上げましたが、そこで次のように書いています。

ところで、伊藤が触覚に関心を持ったきっかけは、彼女が障害を持つ方の身体について研究する際に介護の体験をし、そのときに触覚の重要性に対して多くの気づきがあったからなのです。したがって、具体的に介護に関わっている方がこの本を読むと、多くの点で直接的な示唆を得ることができるでしょう。しかし、介護に関わらない私が読んでも興味深く思いましたし、またここに書かれた身体性の問題は、もっと普遍的な思想全般に及ぶ課題を含んでいると思います。
私はそのうちの美術に関するところを読み取っているに過ぎないのですが、例えば次のコミュニケーションに関する章を読んでみましょう。

伝統的に触覚の特徴として指摘されてきた持続性。常に部分的な認識しか得られず、全体を把握するのに時間がかかるという特徴は、触覚が視覚に比べて劣った感覚であることを示す一つの証拠とされてきました。
しかし、「人の体にふれる」という本書の関心からすれば、時間がかかることは必ずしもネガティブなことではありません。なぜならそれは、ふれる側とふれられる側とのあいだの、触覚的なコミュニケーションの可能性を開くからです。
(『手の倫理』「コミュニケーション」伊藤亜紗)

さっそく重要なことが書かれていました。感覚と時間の問題です。触覚は視覚に比べて遅れて感じられる感覚なのです。だからスピードを求める近代文明の中で、劣ったものとされてきたのでしょう。しかし、その欠点が新たな可能性を持っているのだと伊藤は書いています。持続して触っていることで、じわっと伝わってくるもの、そういうものが今こそ必要なのではないでしょうか。
https://blog.ap.teacup.com/tairanahukami/211.html

この時に私はこのように書きました。現在も「触覚性」について考えていることは、基本的に変わりませんので、この本に関する考察としては、上記のblogの文章の全文を読んでいただけるとうれしいです。
今回はさらに伊藤亜紗が「ふれる」と「さわる」ということについて考える際に参照した哲学者の坂部恵(1936 - 2009)が書いた『ふれる」ことの哲学――人称的世界とその根底』(1983)という著書の中の『「ふれる」ことについてのノート』という論文を見ていきましょう。

〇『「ふれる」ことについてのノート』について
この『「ふれる」ことについてのノート』は、どういう論文でしょうか。この論文で言いたいことについて、坂部は「はじめに」の中で次のように書いています。

わたしというものがまずあって、それがわたしとは区別され、わたしの外側にある宇宙のいのちにふれたり、赤子のいのちの鼓動にふれたりするのではない。モノコード(一弦の楽器)にそっとふれることを通じて宇宙のいのちにふれるとき、わたしは、いわば端的に閉ざされた日常の自我の殻を破って、宇宙のいのちそのものと位置を入れかえ、宇宙のいのちそのものとなる。
「ふれる」ことはつねに「ふれ合う」こと、いうなれば、惰性化した日常の境域の侵犯であり、能動-受動、内-外、自-他の区別を超えた原初の経験である。
(『「ふれる」ことについてのノート』坂部 恵)

この本が書かれたのが1980年頃、中村雄二郎の『共通感覚論』とほぼ同じ時期であったことを覚えておきましょう。この時期に、哲学にとって「能動-受動、内-外、自-他の区別」という既成概念を見直す機運があったのです。それから40年を経て、伊藤亜紗のような思想家がやっと現れたことは、喜ばしい驚きです。
そしてこの『「ふれる」ことについてのノート』は、精神分裂症に関する考察から、「ふれる」ことについて考えていきます。坂部はフランスの精神医学者,臨床家のE. ミンコフスキー(1885 – 1973)が精神分裂症を「現実との生きた接触の喪失」と定義したことに注目します。つまりこの病は人間が「世界」との「ふれ合い」を失うことによって生じてしまうのです。これは人間にとって「ふれ合う」ことがいかに根源的なことであるのか、を示しています。

分裂病がちょうどこのように生のもっとも基礎的な「深さ」ないしは「われわれの存在のもっとも深い層にふれる」こと、「世界のなかに生きる」ことにかかわる障がいであることに応じて、感情による診断、あるいは洞察、内側に入り込むことによる診断であるとか、あるいはビンスヴァンガーのいう、やはり感情による診断、あるいは接触の心理学といったことの重要性について、ミンコフスキーは語っている。
(『「ふれる」ことについてのノート』坂部 恵)

ここで、坂部が「内側に入り込む」と言っていることに注目しましょう。「触覚性」には表面に「ふれる」ということだけではなく、「内側に入り込む」感覚が生じるのです。伊藤亜紗もこの点に注目して、実際に介護の場面で「ふれ合う」ことが、ときに「内側に入り込む」ような濃厚な接触になり、介護者を悩ませることを事例としてあげています。
芸術の分野からの興味で言うと、坂部と伊藤がともにドイツの哲学者・文学者、詩人、神学者のヘルダー(1744 - 1803)が書いた『彫塑』論を取り上げていることに注視しましょう。ヘルダーは彫像を見る人について、次のように書いています。

低く体をかがめて彫像のまわりをうろつく愛好家を見たまえ。彼は、視覚を触覚と化するために、つまり、あたかも暗がりのなかで手さぐりをするかのように見るために、そうするほかないのだ。彼はすべりまわり、落ち着ける場所を探すが、見つからず、絵のときのような視点をもたない。それは何千という視点があっても足りないからであり、視点がきまりきってしまうと、たちまち、生きたものが板となり、ふくらみのある美しい姿がみすぼらしい多角形にくだけてしまうからだ。だからこそ彼はすべり動く。彼の目は手となり、光線は指となった。あるいはむしろ彼の心は、手と光線よりなおはるかに敏感な指、像をつくった人の腕と魂となって、像をおのれのなかにつかもうとする指をもっている。彼の魂はたしかにそれをもっているのだ。あれは生きているという錯覚が生じ、魂は、それが生きていると感じ取っている。
(『「ふれる」ことについてのノート』坂部 恵)

彫像が「生きていると感じ取っている」ということまで言われると、それはちょっと大げさな・・・と思いますが、彫像を「見る」ということが、かぎりなく「ふれる」ことに近いのだということを認識しておきましょう。そして「ふれる」ことが彫像の内面、あるいは彫像を創作した人の内面に「入り込む」ことにつながるのだということも、覚えておきましょう。
しかしヘルダーが彫像を賛美するあまり、このあとの文章で「彫刻は真実であり、絵画は夢である」と言っていることは、納得できません。たしかに彫刻は現実の物質に近く、絵画は平面的なイリュージョンにすぎない、というのは一面の真実です。しかし私は一枚の絵画が、ヘルダーが記述したような彫像を見る体験を表現できる、と考えているのです。そのことについては、あとで具体的な事例をあげて説明することにしましょう。
坂部の論文にもどりますが、彼はさらに「ふれる」、「さわる」という言葉の表現について考察しています。これは伊藤亜紗の『手の倫理』の最初に考察されていることを、すでにご紹介しましたから、ここでは割愛します。
それから「微分」的なものの見方、「積分」的なものの見方について坂部は論じています。「微分」とは、あるものの微小(瞬間的)な変化を追うもの、「積分」とは、あるものの微小(瞬間的)な変化の積み重ねを追うものです。人類は狩猟採集民であったときには、自然のなかのあらゆるものの微小な変化を見逃さない「微分」的な感性を持っていたのに、農耕民になったときに時間の流れをルーティーンとしてとらえるような「積分」的な感性に変わってしまったようです。そのときに、世界との接触を失ってしまい、精神分裂症を患うようになったそうです。(狩猟採集民に分裂症の人はいないとのことです。)このことも、世界との接触がいかに人間にとって根源的なことであるのか、そのことの根深さを示しているのです。
この「微分積分」という考え方は、その後の思想の時間や空間の把握の方法ともからんでくるのですが、これはもう、わたしの理解の範疇ではありません。ニュートン (1642 – 1727)とライプニッツ(1646 – 1716)を比較して論じられても困ります。結論らしき部分だけ引用しておきましょう。

さて、話題をもとにもどして、仮にいまわたしがふれ合い-表現空間の考え方の系統と名付けておいたものが、数学的手法の領域で射影幾何ないしさらにはトポロジーなどとして市民権を得るのは、19世紀から20世紀にかけてのことである。わたしはこのような領域について発言する準備も資格もまったくないのだが、それでもこのような動きをにらみ合わせてみると、おのずから、将来における、数学のことばと言語の詩的位相ないし芸術の領域一般との、現在よりははるかに緊密な出会いないしふれ合いの可能性を夢想せずにはいられない。
それはおそらく、ピタゴラス派以来受けつがれてきたリベラル・アートの伝統の今日における新たな復興、さまざまに孤立した前線で行きづまりの様相を見せている諸学のあらためての「ふれ合い」活性化と「歓ばしき学問」への再聚(しゅう)会という形をとってあらわれることになるのではあるまいか。
(『「ふれる」ことについてのノート』坂部 恵)

難しい言葉が並んでいますが、要するに学問や芸術の領域を超えて「ふれる」こと、「ふれ合う」ことについての探究が活性化するのではないか、と言っているのだと思います。私のせまい知見では、そのような状況には至っていないように思います。ですから、伊藤亜紗という研究者は、これからも注目に値するでしょう。
さて、それでは絵画表現として「触覚性」をどのように表したらよいのでしょうか。具体的に考えてみたいと思います。

〇触覚性の表現について
「触覚性」を絵画でどう表現すればよいのでしょうか。そのことを考えるにあたり、私自身がどのような作品に「触覚性」を感じるのか、そのことを思い出してみましょう。
 例えば後期印象派の画家、セザンヌ(1839 - 1906)の絵画の絵筆のタッチに「触覚性」を感じます。空間を刻むように小気味よく繰り返す一定の筆触に、セザンヌが絵に触るようにして描く様子が目に浮かぶようです。しかし実際のセザンヌはたいへんな遅筆で、モデルをしていた友人がつい居眠りをして動いてしまうと「りんごは動かない」と言って怒ったとか、そのりんごも描いているうちに腐ってしまったとか、さまざまな逸話があります。空白の画面上に無駄のない筆触で「世界が誕生する瞬間」を捉えたような絵を描くことは、たとえセザンヌであっても並大抵ではなかったはずです。彼の苦闘の末にあのような心地よい筆致の絵画空間が生まれたことを肝に銘じておきましょう。セザンヌがそれほどの時間をかけて苦心したのは、彼の筆致があらわす「色価(ヴァルール)」の微妙な表現です。セザンヌの筆致によって画面上に置かれた絵の具は、その色あい、形象、絵具の厚みなどによって、絵画空間の中である確かな位置を占めることになります。一つ一つの筆致の関係が画面上で緊密に作り上げられた時、それらは目の中で反応しあって「世界が生まれた瞬間」を表現することになるのです。
 それから、ごく単純に画面上に物質的な「もの」が貼り付けてあると、私はその「もの」の手触りを眼で感受することになります。その貼り付けられた「もの」は、完全に画面に溶け込んでしまっては「触覚性」を持たなくなりますし、また「もの」のままで露わな姿を見せるなら、それは絵画の「触覚性」ではなくて、たんなる「もの」の「触覚性」ということになります。その危ういバランスの作品例としては、クルト・シュヴィッタース(1887 - 1948)のメルツ絵画があります。ダダイズムの作家であるシュヴィッタースですが、彼は適度に不器用であり、彼が画面上に貼り付けた物質的な素材は、絵画の一部になり切らずに「もの」としての感触を残したままとなっています。その危ういバランスが、ときに絵画の物質的な「触覚性」のぎりぎりの限界を表すことがあるのです。
 そしてもちろん、抽象絵画のジャクソン・ポロック(1912 - 1956)を忘れてはなりません。ポロックのドリッピング技法による野生的で、なおかつ繊細な絵画の「触覚性」は、表面的な激しさを装う絵画がいかにつまらないものなのかを教えてくれます。また、ポロックと同時代にヨーロッパで活躍したニコラ・ド・スタール(1914 - 1955)の絵画も、ポロックとは別な意味で衝撃的です。一人の画家の短い人生の中で、これほど触覚的なマチエールを激変させた画家はいないと思います。若い頃の抽象画の厚いマチエールによる重厚な「触覚性」から、早過ぎた晩年の即興的な薄いマチエールの「触覚性」まで、いずれも絵画に対する率直性が共通していて魅力的です。そしてポロックもド・スタールも、失敗作だと思われる作品が少なくありませんが、このことは絵画の「触覚性」を露わにするという表現が、まるで生き物のように画家の手に乗り移るものであることを示しています。優れた画家の短い人生の中でも、「触覚性」が生き生きとして見える時もあれば、死んだように見える時もあるのです。
 そのような「触覚性」の表現のムラをなくし、常に均質で一定の水準の表現ができる方法を見つけたのが、現代の巨匠ゲルハルト・リヒター(1932 - )の抽象絵画だと思います。画面の表面を板状の用具でこする方法は、「触覚性」のコンセプトだけを取り出し、そこから生じるはずの実感を消失した表現だと思います。ビジュアルな彩りと聡明なコンセプトに裏付けられた表現は、常に水準の高い作品を保証していますが、そこには絵画を描く時に感じるドキドキするような「触覚性」が欠落しています。
 それに比べると、すこし前の時代の具象絵画とはいえ、ゴッホ(1853 – 1890)やボナール(1867 – 1947)はそれぞれ独自の「触覚性」を感じさせて、興味がつきません。ゴッホの作品は、その彩りの華やかさゆえに、写真で複製された図版を見ただけでゴッホの魅力を分かったような気になりますが、彼の筆触は大胆であると同時に繊細で、どうしてこれほど抗い難い力が働くのか、そのことは実物の作品を見ないとわかりません。またボナールは、壁に直接布をはって絵を描いたそうですが、よく見るとその筆致に壁の抵抗感のようなものを感じます。ボソボソとした筆の跡が、硬い壁に当たっているような実感があるのです。ボナールは色彩画家だと思われていますが、その触覚的なタッチのデッサン力にも、魅力がある画家です。
 そのほか、私のblogで頻繁に論じている中西夏之(1935 – 2016)や辰野登恵子(1950 – 2014)など、興味深い日本の画家もたくさんいます。よかったら、私の彼らに関する文章も読んでみてください。

〇今回の作品について
 このように絵画において、物質的な「触覚性」もあれば、視覚的な「色価」としての「触覚性」もあります。私は自分の作品に制限を設けず、木の葉や枝、茎などの自然物や色紙、自分の描いた紙片などを画面に貼り、油彩絵具、アクリル絵具、水彩絵具、パステル、コンテ、色鉛筆、鉛筆、木炭などの描画材も、思いつくままに総動員して、「触覚性」を表現することを試みています。
 どれも抽象的な作品ですが、いちおう「近所の公園の風景」という共通したモチーフはあります。それがどのように見えてもかまいませんし、作品相互の共通性にも頓着していません。そのわりには似たような出来の作品になってしまうところが、もっと自己規制を取っ払う努力を必要としている、ということなのでしょう。
 いろいろと書きましたが、どうか私の作品を自由な気持ちで見ていただきたいと思います。ただひとつ、「触覚性」について考えているので、できれば実物を見て感触を確かめていただければ、と願っています。

 この展覧会を開催する頃には、世界が平和であり、感染症がおさまっていることを、切に願っています。
(2022年3月 記)



以上となります。
pdf原稿には、展示予定の作品数点の写真が掲載されています。
(まだ制作中なので、全てではありません)
前回と同様に、直接会場にいらっしゃることが難しい方で、パンフレットだけでももらっていただける方は、メールにて送付先をご連絡ください。
<harvestone1@gmail.com>
または私のホームペからご連絡ください。
http://ishimura.html.xdomain.jp/contact.html

 
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