前回、『アルテ・ポーヴェラ 戦後イタリアにおける芸術・生・政治』(池野絢子著)について触れました。この本によって、私たちはアルテ・ポーヴェラ(Arte Povera)という芸術運動に関する基礎的な資料を得ました。しかし翻って、彼らの作品を見る機会がどれくらいあったのか、と問いかけてみると実は私は、彼らの作品をほとんど見たことがないのです。
日本におけるアルテ・ポーヴェラの展覧会ですが、2005年に豊田市美術館がアルテ・ポーヴェラを紹介する意欲的な展覧会を開いています。また、アルテ・ポーヴェラの中では若手の作家だったジュゼッペ・ペノーネ(Giuseppe Penone、1947 - )の展覧会も、私が調べた限りでは少なくとも二回開催していますが、残念ながら私自身はいずれも見ていません。また、名古屋ICAという大きなギャラリーがありましたが、そこで1987年にアルテ・ポーヴェラの代表的な作家であるヤニス・クネリス(Jannis Kounellis、1936 - 2017)が、また1988年にはマリオ・メルツ (Mario Merz、1925 - 2003)が来日して、それぞれ日本で作品を制作し、展覧会を開いていますが、こちらについてはなぜか、マリオ・メルツの展覧会だけ見た記憶があります。私の記憶だと、わざわざ名古屋まで見に行った憶えがなく、東京のどこかで見たような気がしていたのですが、私の勘違いなのか、あるいは東京でも何かの展示があったのか、今となってはわかりません。
いずれにしろ、この歳になって振り返ってみると、なぜ日帰りでも行ける場所でこのような展覧会がやっていたのに見に行かなかったのか、と後悔ばかりが先に立ちます。当時はアルテ・ポーヴェラの重要性がよくわかっていなかった、ということもありますが、それにしても、ヤニス・クネリスはすでに故人ですし、まったく惜しいことをしました。そんな後悔も含めて、それでは当時の私は「アルテ・ポーヴェラ」の作品を、あるいは現代美術の作品全般をどのようなものとして見ていたのか、そしていまの私たちは「アルテ・ポーヴェラ」の作品から何を感受できるのか、ということについて書いてみたいと思います。
さて、それでは1980年代の私は、どのような気持ちで現代美術の作品と向き合っていたのでしょうか。これは何度か書いてきたことですが、例えばフランク・ステラ(Frank Stella, 1936 - )のような、その時代を代表する作家を見てみますと、ステラが1960年代のミニマルなストライプだけの作品から変貌しはじめたのが1970年代で、少しずつ幾何学的な複雑さが作品に表れてきます。それが1980年代になると、まったく規則性のない不定形の立体作品に変わってしまいました。この変化が私の眼にどう見えたのかと言えば、禁欲的な最小限の要素の作品から幾何学的な規則性をもった作品へ、さらにまったく不定形の形が三次元的に増殖していく作品へ・・・、というふうに段階的な一連の流れのように見えたのです。
そして、このステラのミニマル・アートからの変貌の最初の時期、つまり幾何学的な形がある程度の規則性を有しながら作品に表れ始めた1960年代後半から1970年代にかけての時期に、イタリアの「アルテ・ポーヴェラ」、フランスの「シュポール/シュルファス(Support/ Surface)」、日本の「もの派」といった美術の動向が同時的に起こったのです。この頃の美術の動きというのは、ステラの幾何学的な規則性といい、「シュポール/シュルファス」の「絵画」という制度への「異議申し立て」といい、「もの派」の現象学的な思考への接近といい、それぞれの表現の裏には、その変化を支える理論的な背景がありました。
その理論的な背景が吹き飛んでしまったのが、1980年代以降の美術の動きです。その動きというのは「新表現主義」とか「ニュー・ペインティング」とか「トランスアヴァンギャルド(Transavantgarde)」とか呼ばれたものですが、ドイツ、アメリカ、イタリアなどの海外からそれらの情報が一気に流れ込んできたのです。ステラの作品も、それに呼応するように不定形の大がかりな立体作品になっていきました。日本でも美術的な動向の中でこの動きに同調する作品が見られましたが、それに加えて「ヘタウマ」と呼ばれるようなイラストレーションや子供が作ったような工作的な作品が巷に広がり、さまざまな分野で「カルチャー」と「サブカルチャー」の越境が起こりました。象徴的だったのが先鋭的だった思想家で詩人の吉本隆明(1924 - 2012)が漫画や広告のコピー、ポップ・ミュージックなどについて猛然と語り始めたことでした。また、思想界では「モダニズム」に変わって「ポスト・モダニズム」が海外から流入し、日本でも「ニュー・アカデミズム」と呼ばれるような若い学者の動きがありました。私のような不勉強な学生の頭では理解も整理も不可能で、ほとんどパニック状態でしたが、そのことについては何度もこのblogで書きましたので、これ以上は触れません。
そんな未整理な状況の中で、もっとも情報が入りにくかったのがイタリアの「アルテ・ポーヴェラ」だったのではないか、と思います。「アルテ・ポーヴェラ(貧しい芸術)」という名称からは、その動向の理論的な背景が分かりにくかった(「貧しい」って何?)し、1970年代後半の「トランスアヴァンギャルド」の作品が早々と日本にも入ってきて、それがイタリアの現代美術のイメージを形成してしまった、ということもあったでしょう。「トランスアヴァンギャルド」のなかでもサンドロ・キア(Sandro Chia, 1946 - )、フランチェスコ クレメンテ(Francesco Clemente,1952 - )、エンツォ・クッキ(Enzo Cucchi, 1950 - )という3人の作家はイタリアの「3C」と呼ばれるなど、あっという間にポピュラリティーを獲得してしまった感じです。彼らのことをいまではあまり聞きませんが、たぶん自国では巨匠となっているのでしょうね。そして私は彼らの作品を知った後で、マリオ・メルツやヤニス・クネリスのことを知ったのだと思います。同時代の現象を知った後で、その前の時代のことがさかのぼって分かってくる、という構造はいつの時代の若者にとっても同じです。それに今のようにインターネットで何でも検索できる時代ではなかったので、「アルテ・ポーヴェラ」はおそらく「シュポール/シュルファス」や「もの派」のイタリア版(?)なのだろう、という程度の認識しか私にはなかったのだと思います。
そして話が戻りますが、1987年に名古屋でヤニス・クネリスの展覧会があったことは、当時も知っていましたが、わざわざ見に行くことはなかったのです。実際に展覧会を見たという友人に感想を聞いてみましたが、なかなか良かった、ということでした。どんな作品なのか、その記事が載った『美術手帖 1987 8月号』で写真や批評を見ることができます。木片を壁の棚の上に並べた作品や、火を燃やした煤の痕跡を壁に付着させた作品など、確かに面白そうです。けれども、「シュポール/シュルファス」や「もの派」の作品に比べると、理論的な背景が読み取りにくくて、とても感覚的な感じがしました。当時の私の頭の中では、特に1960年代から1970年代のはじめにかけての作品を理解するためには、作品を成立させている構造や理論を自分なりに把握する必要がある、という思いが強かったので、クネリスの作品に興味を持ちながらも、その可否の判断を保留してしまったのです。
そして翌年に、なぜかマリオ・メルツの作品を見ました。
先ほども書いたように、どこで見たのかも覚えていないのに、かなり広い会場で、そして大掛かりな展示であったことを覚えています。おそらく、彼の代表的な作品のパターンがだいたい含まれていたのではないか、と思われます。実はこれも、当時の『美術手帖 1988 6月号』がたまたま手元にあって、そのときの写真やそれ以外の参考写真、それにメルツのインタビュー記事を見ることができるので、それと私の曖昧な記憶を突き合わせながら書いています。
例えば彼の作品の代表的なものにエスキモーの住居、イグルーを模した半球状の立体作品がありますが、これは骨組みがむき出しのものと、鉛の延べ板で囲ったものとふたつ(あるいはそれ以上)あったようです。それから、大きな部屋いっぱいにらせん状に並べられた長テーブルがあり、その台面にもやはり鉛の薄板がかぶせられ、さらにネオン管の数字が点々と置かれている、という作品がありました。それと、やたらとフルーツが並べられたテーブルを見た覚えがありますが、それがそのテーブルの上だったのか、それとも他にも同様の作品があったのか、記憶と写真を照らし合わせても判然としません。しかし、そんな曖昧さの中でもたしかに言えることは、メルツの作品の印象が「貧しい」というよりはむしろ物量においてゴージャスで贅沢な感じがしたこと、そしてそれらの素材の見せ方がとてもうまい、ということでした。
大がかりなインスタレーションと言えば、日本でも線路の枕木や建築の廃材、むき出しの垂木などを立てかけたり、並べたりした作品がありましたが、それらは素材の扱い方が抑制的で、ひとつの作品で多様な素材を並べる、ということはあまりありませんでした。これはちょっと大事なことだと思うので、説明しておきましょう。そもそも日本の「もの派」という名称についてよく言われることなのですが、「もの派」とは言うものの「もの」自体を見せることを目的とした作品はあまり多くはなくて、それよりも「もの」のあり様、「もの」と「もの」との関係性を見せる作品が多いのです。その関係性を見せるために、作家は素材を絞り込んだり、素材をある種の限界的な状態で見せたり、素材と素材をぎりぎりのバランスで設置したり、ということを試みたのです。そのときに素材のバラエティーが豊富であったり、素材そのものの美しさが際立って見えたりしたのでは、作品のねらいが分かりにくくなってしまいます。しかし、メルツの作品はそんなことには無頓着で、「もの派」とは明らかに違った狙いがあるように見えました。
それではメルツは、何を考えて制作していたのでしょうか。美術手帖の彼のインタビューから作品に対する考え方がある程度うかがえますので、そのいくつかを拾ってみましょう。まず、メルツが作るのは新しいタイプの彫刻であって、それが自然のたんなる形式的模倣になってはいけない、ということです。それから素材にネオン管を使うことの理由として、それが物体を通過して変化させる可視光線や放射線を象徴している、というふうに考えているからだと言っています。そして、それは運動し続ける彫刻を創造することに役立つのだ、ということも言っています。また、彼の作品にはネオン管などで形作られた文字がしばしば見られますが、その文字や数字には特殊な数列や象徴的な意味合いが含まれているのだ・・・。その他、作品のさまざまなことについて、彼なりの意味や理由があることが語られているのですが、正直に言ってそれらに統一した文脈はなく、私たちが彼の作品からそれらを正確に読み取ることは難しいと思います。
しかしそれにもかかわらず、彼の作品が高い質を持って見えたことに、当時の私はいささか混乱しました。先ほど私はクネリスの作品が、理論よりも感覚が先に見えてくる、と書きましたが、それでもクネリスの作品は素材として扱われている「もの」と鑑賞者である私たちとを理屈抜きで向き合わせるような、そんな直接性がありました。ある意味では「もの派」という名称は、クネリスのような作品にこそぴったりとくるのかもしれません。しかし、メルツの作品は素材も形状も複雑で複合的です。おそらく彼は教養深い作家なのだろうと思いますが、その頭の中の様々な引出しから象徴的な意味やら素材の性質やらを持ち出してくるので、結局、私のような無教養な人間には感覚的な作品にしか見えないのです。当時の私は、それでは作品としてまずいのではないか、と思っていたことは、先ほども書きました。
おそらく、ここまで読んでいただいた方の中で、私の気持ちが理解できるという方と、何を理屈っぽい面倒なことを言っているのだ、という方と二通りの方がいらっしゃるのではないでしょうか。そして今の私は、両方の立場がよくわかります。作品の在り方として、一つの理論や方法論を貫くことで作品がより魅力的になっていく、ということがありますが、その一方でそのような考え方が作品を硬直的なものにする、ということもあります。逆に理論や方法論が曖昧であるために、作品が散漫に見える、ということもしばしば起こり得ます。私は自分の制作において、その両方のネガティブな事例を経験しているので、いずれの立場のこともよくわかるのです。
さて、メルツの作品の複雑な成り立ちが何となく見えてきたところで、前回の『アルテ・ポーヴェラ 戦後イタリアにおける芸術・生・政治』から、「アルテ・ポーヴェラ」運動の成立について復習しておきましょう。「アルテ・ポーヴェラ」は、若き批評家のジェルマーノ・チェラント(Germano Celant,1940 - )が組織した運動でした。その運動の当初の意味合いは、「あらゆる修辞的複雑さ、あらゆる意味論的確信を意図的に断念し、もはや現実の曖昧さではなくて、ただその一義性を証明し、記録しようとする」ということでした。つまりは作品の意味の簡素さ、その「一義性」がこの運動の特徴だったのです。それでは、この「一義性」は何によって担保されていたのでしょうか。それは「アルテ・ポーヴェラ」の作家たちが絵の具などの既成の画材を使わずに、むき出しの素材をそのまま提示したことによります。それは、当時アメリカから流入してきたポップ・アートへの反発という面もあったのでしょう。商業主義的なイメージを作品化するポップ・アートの対極にあるもの、それは加工される前のむき出しの素材を提示することであり、資本主義以前の素朴な人間の営みをイメージさせることだったのです。メルツの作品は複合的な意味を含んでいて、決して「一義性」のものではありませんでしたが、それでも例えばイグノー形式の作品では原始的な住居をイメージさせますし、様々な素材が使われていてもそれらはむき出しの状態であることには変わりありません。結局のところ、彼は「アルテ・ポーヴェラ」運動の理念に沿った作家であり、すでに当時40代であった彼は1968年からグループに参加することになったのです。
このようにメルツとクネリスを見比べてみても、そのコンセプトにはだいぶ相違があるような気がしますが、その一方でインスタレーション形式の自由な表現形態や素材のむき出しの使い方などの共通項によって、「アルテ・ポーヴェラ」運動の中で両者が緩やかに結ばれていたことに、私はイタリアらしい大らかさと、古い伝統が土壌にある懐の広さを感じます。同時期に活動した「もの派」と「シュポール/シュルファス」と彼らを比較すると、メルツやクネリスはその他の二つの芸術運動の作家たちよりも素材の感触や固有性を大切にしているように見えますし、その分だけ観念的ではなかった、とも言えると思います。もちろん、彼らにとっても既成の芸術観から離脱することが重要であったでしょうし、伝統的な作品に比べれば十分に観念的であったと思いますが、そもそも彼らが格闘すべき芸術観や伝統が、それぞれの国や地域によって異なっていたのかもしれません。
こういうことを考えていくと、芸術のことだけではなくて思想や哲学においても、それぞれの地域や国によって異なるでしょうし、日々の生活感の相違も影響しているのでしょう。日本が西欧の国々とまったく異なっていることは疑いようもありませんが、例えばフランスとイタリアでそれらがどのように違っているのか、などと考えると興味が尽きません。そういえばポストモダンの頃にはフランスの哲学者がしきりに日本でも紹介されていましたが、イタリアの現代思想について私はほとんど知りません。近いうちに勉強しようと思っていますが、そういうこともひっくるめて考えていくと、それぞれの芸術運動についての理解が深まり、また違ったものが見えてくるのかもしれません。
さて、しかし前回も見たように、「アルテ・ポーヴェラ」運動はその後、主唱者のチェラントが創作の行為性を強調する方向へと傾斜していったために、作家と評論家との間で離反が起こってしまいました。少なくともメルツとクネリスの作品を見るかぎり、素材の具体的な感触を抜き取ってしまうことは不可能ですし、それは作品の根幹を壊してしまうことになります。いろいろと事情はあったのでしょうが、チェラントの取った行動はほとんど暴挙と言ってもいいと思いますし、芸術運動の難しさをあらためて感じます。その一方で、メルツ、クネリス、それから若手作家だったペノーネの三人を見ても、この運動には才能のある作家が集っていたことがわかりますから、チェラントが「アルテ・ポーヴェラ」運動を組織したことは素晴らしいことだったと思います。そして彼ら以外にもジルベルト・ゾリオとか、ジョヴァンニ・アンセルモなどの作品が、単純にとてもかっこ良さそうに見えて興味が尽きません。彼らについて資料を取り寄せてもいるので、もう少し何かblogに書くことになるかもしれません。そして彼らのことを現代美術が熱かった時代、などと過去のことにしないで、彼らを含めたその時代の芸術運動から学んだこと、感じ取ったことを、私たちは現在に生かさなくてはならないと感じています。
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