ウォルシュ:
わたしたちの意思は神の意思ですか?
じゃあ、なんでわたしたちは間違えるんですか?
神:
神のメッセージには必ず喜びがあって愛がある。
その逆はなんやと思う?
実はな、人間の行動には二つの動機しかないねん。
「不安」と「愛」だ。
ワシが宇宙を創造し君らが住む世界をつくった時に生み出した二つの真逆。
ひとの行動はすべてこの愛か不安を根拠としている。
他の感情は、愛と不安から派生したものやねん。
人間が同じような体験を繰り返す理由はここにあんねん。
神を信頼しないという誤りは、人間の恋愛にも似ている。
相手に愛してますと言った瞬間、相手も同じことを言ってくれるかなと心配になる。
ここから全ての行動が不安に基づいた自衛反応となるわけやな。
神に対しても同じことしてんねん。
神が創造した素晴らしい存在であることを自覚できていれば不安にはならないはず。
それやのに、君らは自分のことをダメな存在だと考えている。
誰が君らはダメな存在だと教え込んだのか。
君らが無条件に信じた母親と父親だ。
親は子供を守るために、こうしないとダメ、それはやったらあかんと教育する。
当然だが、親は育児のためにそうしているわけであって、神のメッセージを伝えているわけではない。
ところが、君らはそれを神からのメッセージだと勘違いし信じてしまった。
君らにとって親は神同然の存在だからな。
そういうのが積み重なっていって、知らず知らずのうちに、人の言うことを聞かない人間は愛される資格がない、期待に応えられない人間は価値のない存在である、生産性のない人間はクズである、などと思い込んでいき、愛は条件付きであると信じてしまうんや。
そして、そういった小さいころの経験を愛する人や神との関係にもあてはめてしまう。
神は愛の存在であると言いつつ、悪いことをすれば永久に罰せられてしまうと矛盾したことを言っているわけや。
愛を注いでくれた親から突き放された経験があるからやな。
その経験を神にもダブらせてしまう。
つまり、君らは無条件に愛されているとはどんな状態だったのか忘れてしまったわけやな。
神の愛の体験を思い出せなくなっている。
だから、世間でいうところの愛を基準にしてしか愛せない。
神の愛についても同じ尺度で考えている。
不安を秘めた愛という現実が君らの愛の経験を支配してるねん。
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