ここに一枚の写真があります。これは明治から大正・昭和と山崎町が一望できる名所として多くの人々が訪れた最上山のお寺「最上稲荷山経王院」から城下方面を撮ったものです。中央下の山崎小学校の向こうには広い田園が広がっています。この田園は山崎町の穀倉地帯ともいうべき城下平野で、そこに点在した村々が城下村です。東側(写真の左)には揖保川が流れ、西から合流する黒い帯筋が見えます。これは、揖保川に流れ込む菅野川の両岸に繁茂する竹藪です。古写真の撮られた明治後期から現在までの約120年に及ぶ町の移り変わりは、広々とした平野部の田畑や竹藪が大きく減少したことです。今回は、城下村(城下地区)の成り立ちやそれを構成する村々(現在の自治会)を地名由来や遺跡をもとに探ってみたいと思います。
▲古写真1 明治37年の城下平野
この写真は最上山のお寺から南に向かって撮られています。中央下にみえるのが山崎小学校の運動場です。中ほどに左右に延びる黒い帯筋は、主に菅野川両岸に繁茂する竹藪です。菅野川は西から東に向かって揖保川に合流しています。
城下村の地名由来
城下村は明治22年(1889)から昭和30年(1955)の宍粟郡の自治体名で、中井・鶴木・段・春安・下広瀬・船元・野・千本屋・御名・金谷・上比地・中比地・下比地の13か村が合併して生まれました。地名は、江戸期に北隣の山崎地区の南端に領主の居城(陣屋)が置かれ、当地がその城の下にあたることによります。
明治7年(1874)全国に「廃城令」が発布されたのを機に、旧山崎藩士遠藤亘(わたる)氏が山崎町の発展のためにと、城下村への新道路の建設を計画しました。その敷設の中心者の遠藤氏の名をとり、「遠藤坂」と呼ばれました。明治以降は、江戸期の揖保川高瀬舟による舟運に替わって、道路と車の時代に入り、この新道路は山崎の町場と龍野(現たつの市)を結ぶ唯一の産業道路となりました。
▲城下地区図(中央の道が明治の新道路)
地名と遺跡で探る村々の歴史
1,中井(なかい)
場所は、城下平野の北端に位置し、県道山崎・新宮線と東西には中国自動車道によって四分されています。地内の田中神社を基点に条里制を示す泉ケ坪、柳ケ坪、子牛ケ坪の小字が残され、これらは「中井条里遺構」と呼ばれています。平成15年(2003)の山崎町教育委員会の埋蔵文化財調査では、2千年前の弥生中期の田んぼの証の赤土が確認されています。ちなみに平成8年(1996)の調査で西鹿沢の総合病院の建っている場所に弥生の住居跡地が発見されています。(※下記写真)高台に住居を構え、一段低い城下地域で揖保川から水を引き、水路を作り稲作を行っていたようです。中井の地名は今宿辺りに井堰を作り、途中で水路を枝分かれのように二股にしていて、水路の中ほどに井堰があったことにからと思われます。
2.鶴木(つるぎ)
揖保川支流菅野川の下流域にある。伝承によると、里人の井上左衛門が土中から剣を掘り出したことで、剣村と言われるようになったという。鶴木神社(金毘羅神社)には、それに関わる故事来歴を書いた古文書が残されています。里人は、剣は神の霊刀だとして大きな樹木の下に立て置くと、ある日鶴が飛来し立ち去らず、そこに仙人のような蒼い顔の白髪の老翁が訪れ、「私は剣の霊なり、今よりこの地に神殿を祀るべし」、と言い残して立ち去った。そうして、村人は霊剣を神としてお祀りし、それより村を鶴木と改めて、その社を鶴木神社と称するようになったとあります。
3.段(だん)
菅野川の下流域。地名の由来は、古い集落が段丘面に発達していることから一段高いところの村といわれる。天保11年(1840)に松井氏が鋳物師の権利を得て、仕事場を開設し、安政2年(1855)大砲を鋳造している。地内の北東部に犬ノ馬場の小字が残る。観音堂には伝説を物語る絵馬があります。
4.春安(はるやす)
菅野川の中流域に位置し、集落は国見山の北麓周辺に集散。元和元年(1615)池田輝澄が宍粟藩主となり、池田家の祈願所の天台宗中寺円明院「円明寺」を建立し、延宝7年(1679)本多忠英が山崎藩主となり、吉祥山願行寺を建立しました。城の西にあたり、朝日を最初に受ける春安を藩主の菩提や祈願に相応しい聖地としたのでしょう。天神神社はふるくから春安の天神さんと親しまれ賑わいを見せています。
5.下広瀬(しもびろせ)
揖保川中流右岸の平野部で、北方に中広瀬があります。広瀬の地名は、揖保川の瀬の広い流れによるものと考えられます。水田中に条里の遺構が見られますが、揖保川の氾濫により大きく攪乱されています。広瀬は篠ノ丸城主の宇野氏の館跡があった場所と考えられ、北の中広瀬を含むあたりを広瀬郷といい、山崎の旧名です。
6.船元(ふなもと)
揖保川中流域西岸の平野部。近世は船本村と記されていました。慶安年間(1648~1652)には揖保川の渡し場が置かれ、藩主の参勤交代に利用され、家臣が控える下座場がありました。一雲寺(大雲寺の末寺)と長谷川孫兵衛銘の梵鐘が残されています。
7.野(の)
揖保川中流域西岸。『山崎町史』によると中世の野村郷があったことが記されています。
8.千本屋(せんぼんや)
揖保川と菅野川の合流する地点付近。城下村の役場が置かれました。水田には条里制の遺構が認められます。地内北東部には雨乞神社(貴船神社)があり、その北隣に奈良期の創建と考えられる千本屋廃寺跡があります。千本は何を意味するのか不詳です。古代寺院や古社の仏具や神具に関わるものでしょうか。
9.御名(ごみょう)
揖保川と菅野川の合流点付近。古くは五明、中世には五ミやうとの記述があります。名田の呼び名によるものと思われます。明治になり、西部を南北に走る新道が建設され、主要交通路となりました。
10.金谷(かなや)
古くは金屋とあります。国見山麓の段丘面と段丘下の河川灌漑地に分かれています。城下平野を一望できる高台に金谷山部古墳(県指定)があり、また金谷群集墳として五基の後期古墳が確認されています。。当地には古くから鋳物を作る技術をもった長谷川姓を名乗る鋳物師がいて、記銘入りの梵鐘が数多く残されています。
比地村(ひじむら)
江戸期の村名。延宝7年(1679)に上・中・下の三か村に分けられ、庄屋・年寄りが各村に置かれました。比治は、播磨国風土記に播磨国宍粟郡(しさわのこおり)の七里の一つとして「比治里」と見え、7世紀中ごろ揖保郡より分けて宍禾郡(しさわのこおり)が出来たときに、山部比治が里長に任じられ、この人の名をとって比治の里と名付けたという。現在の上比地、中比地、下比地、川戸、宇原、平見、金谷を含む地域に比定されています。土地柄は中の上とあります。比地は泥や湿原地を意味するもので、県内では朝来市和田山町比治も同じ意味で比治の地名が残されています。
11.上比地(かみひじ)
比地三か村の上手に位置します。国見の森公園周辺。比地の滝は古くから行者の修行場で播磨の名所として知られていました。ここから峠を越して新宮町奥小屋、牧に通ずる生活道が三本ありました。
12.中比地(なかひじ)
比地三か村の中央に位置しています。圃場整備で消滅しましたが、低平地には条里制の遺構の市ノ坪という遺称が残っています。
13,下比地(しもひじ)
比地三か村のうち南(下)方にあります。地内南部の郡境(市境)に「比地保キ(ひじがほき)」という小字が残り揖保川の蛇行で生じたヘアピンカーブの交通の難所があります。
古写真2 中井付近の田園
この写真は現在の咲ランド(イオン山崎店)の西入口あたりから西に向かって撮られています。小学校の南下の田んぼと段方面の山並みが見えます。田んぼには今では目にすることがない「つぼき」(脱穀した後のわらを積み上げたもの)が写っています。
移りゆく地域の中で、大切に伝えたい地名という小さな文化財
城下地区に想いを馳せると、山崎小学校の南のがけ下には広い田んぼがあり、そこには一面にピンク色のレンゲソウが咲いていたこと、その田んぼの畦で田鮒や鯰を沢山捕まえてバケツに入れて持ち帰ったこと、遠藤坂でバスが転倒しているのを目撃したこと。小学のクラス全員で国見山に登ったこと、遠足で比地の滝に行き、滝に打たれている白装束の人を見たこと、比地保キで「ぎぎ」という魚が入れ食い状態で日が暮れるのも忘れて、親に心配をかけ叱られたこと等々を思い出しました。
今や昭和の原風景は追憶でしか見られませんが、山河や地名は変わらず残っています。特に土地の小区間に名付けられた小字から土地の様子や成り立ちを読み取れるものが数多くあります。城下には条里制を意味する坪という小字がしばしば出てきました。また、比地保キという地名のホキは、崖を意味します。川の流水が衝突してできる川崖に多く名付けられています。このように地名は、土地の成り立ちや、災害・危険地名として残されてきました。地名は小さな文化財といえるゆえんです。地名から先人達がどのような場所に住んでいたのか、未来の居住者へのメッセージと感じ取ることができます。常日頃から住んでいる地域の地名に関心を持つことが地域の歴史を知る近道かと感じています。そうして地名を大切に後世に伝えていきたいものです。
参考文書 『山崎町史』、『日本地名大辞典』、『門徒の地名』西川博敏氏著、『兵庫県小字名集 西播磨編』
山崎郷土会報 No.141 令和5年8月26日発行より転載、一部字句修正有り
※弥生時代の住居跡 鹿沢城(山崎城)跡六軒町遺跡
▲山崎歴史郷土館展示
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