あっという間に秋。つい数日前まで暑くて、ジリジリした日差しを感じていたのに。慌てて長袖を着る。服が少ないと衣替えの必要がないので、とても楽だ。残念ながらお洒落にもあまり興味がないので(私はきっと枯れているのだろう…)悪目立ちしなければ、同じような服をずっと着ていても気にならない。
ただ一つ、気になっていることがある。数年前に読んだ記事のこと。フリースのような化学繊維は、ホコリとなったり洗濯の排水となって、マイクロプラスチックを放出しているそうだ。確かに心当たりがある。洗濯後の布地を触ると、手にざらざらした感触があるのを不思議に思っていた。まだホコリがとれていないのか?と疑問だったが、あれがマイクロプラスチックだったのだ。身につけた時に肌に刺激があるような、乾燥するような感覚は、それが原因だったのか。なるほど。
そう知りつつも、これまでずっとフリース素材のパジャマを着ている。フリースのような温かくて扱いの楽な素材が、他に見当たらないのだ。で、罪悪感を持ちつつ使っている。敷き布団パットもしかり。分解できないゴミは出したくないな。
こう書いていて気が付いた。私はミニマリストではないが、少ない持ち物ですっきり暮らしたいとか、原発はやめて自然エネルギーによる電気の社会だったらいいなとか、省エネ生活がしたいとか、望みがいろいろある。これらは結局『自然に還らないゴミを出したくない』につながっていたのだ。野菜ゴミを出すのに罪悪感はないが、プラゴミやペットボトルを資源回収に出しに行く時の恥ずかしさは、キタナイゴミ(環境の中で循環されないゴミ)を出すことに対する羞恥だったのだ。
人間が生きる以上、環境に負荷をかけることは当然のことだ。そうしなくては生きていけないから。しかしそれは、程度問題の話。海や魚をプラスチックまみれにして、空気中の二酸化炭素を急速に増やし、土壌を農薬まみれにして、それでもなお、それを認めようとせず経済を語るあり方にうんざりしている。人は何のために学んできたのか?『経済』という言葉の前に、これまで学んできたことは一抹の塵になってしまう。『経済』はどんな罪をも許される免罪符のようになってしまっている。いくら金を積んでも、環境は元に戻らないというのに。
だから私は、汚く食べ散らかされた皿が嫌いだ。そこには、羞恥心や慎みが感じられないから。そして罪悪感を感じながらフリースパジャマを着る。
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