昭和53年(1978年) じいちゃんと。
自分の人生で忘れえないひとときがある。
毎日が感動で感激で非日常的で刺激的なひと夏だった。
昭和57年(1982年)夏。
小学校一年生の夏休み。
お菓子と着替えと夏休みの宿題が詰まったリュックを抱え、
水筒をぶら下げ、首からプラカードを下げて博多駅のホームに立っていた。
段ボールで作られたプラカードはクソ親父の手作り。
車掌や他の乗客に向けてのもので、「諫早駅で降ります。」と書かれていたと思う。
加えて、「うちは貧乏なので誘拐しても身代金は出せません。」と、
ふざけて書かれていた。
最寄りの駅から博多駅まで向かう、そこまでは両親が付き添ってくれたが、
そこから先はひとりで長崎県へ向かう。
祖父母の住む、長崎県愛野町(現:雲仙市)。
お母んの実家だ。
電車に乗って初めての一人旅。
夏休みに入ってすぐ、長崎のじいちゃん,ばあちゃんちへ行くことになった。
自然豊かな山奥、カブトムシやクワガタもたくさんいて、
海も近くて、磯遊びや潟浜(がたはま:干潟のこと)で貝獲りも楽しめる。
牛の世話,じゃが畑の手入れ,トウモロコシ畑の手入れ、
じいちゃんのお仕事の手伝いも楽しい。
ひとりで遠出する不安なんか一切なく、心躍らせていた。
博多駅から諫早駅まで特急に乗り、
そこから愛野町までは、島原鉄道線に乗り換えて愛野駅へと向かうのだが、
祖父・・じいちゃんが諫早駅まで迎えに来てくれることになっており、
眠ってしまって降り損ねたりしないかぎりは、間違いなくたどり着くことができる。
博多駅のホームで出会った、親切な学校の先生たちのグループが面倒を見てくださり、
無事、諫早駅までたどり着くことができた。
改札を出たら、「たけお~!!」と聞き覚えのある訛り声。
じいちゃんだ!
いつもの軽トラで迎えに来てくれていた。
じいちゃんの軽トラの助手席に座り、ガタゴト揺られて愛野町のじいちゃん家へ向かう。
諫早市から森山町を通り、愛野町へ。
愛野の中心部から脇道に入ると、そこは森と畑の広がる谷の田舎町。
車一台がギリギリ通れる車幅、アスファルトがなくなり、コンクリ舗装に変わる。
道路には、耕運機の車輪から落ちたであろう泥が点々とこびり付いている。
堆肥混じりの土であったり、糞そのものだったりする。
牛の泣き声が谷のあちこちから響く。
ニワトリや七面鳥の鳴声が聞こえる。
野鳥の鳴き声、笹の葉のすれる音、農機具の稼働音、
材木をカットする音,移動販売車のスピーカー,薪割りの乾いた音。
街の喧騒とは違う、田舎の心地いい音。
手作りの石垣で囲まれた田畑。
水田とじゃがいも畑,トウモロコシ畑が広がる。
当時から、もうなつかしく感じる香り。
小規模な牛舎が点在し、堆肥や飼料のにおい。
腐ったジャガイモのにおい、いろんなものが混ざった、なんともいえないにおい。
都会のひとからすれば、強烈で耐え難いかもしれない臭いだが、
自分は今でも、このにおいがたまらなく好き。
ガードレールもなく、端っこは崩れかけているような道路。
落ちれば、竹藪を転がり落ちる。
そんな細くて曲がりくねった道路を、じいちゃんの軽トラが粗い運転で駆け抜ける。
じいちゃんは当時、52歳。
まだまだ若かった。
じいちゃんの愛車はずっと軽トラだった。
メーカーや車種は覚えていないが、ずっと軽トラだった。
ドラクエⅩに出てくるムーロンさんが、じいちゃんに雰囲気が似ている。
性格はまったく違うけれど。
じいちゃんちに到着。
ばあちゃんが満面の笑顔で迎えてくれる。
今となっては、うちのお母んが瓜二つのばあちゃん。
もうこの頃のばあちゃんより、うちのお母んの方がよっぽど老け込んでいるが・・・。
じいちゃんは方言がきつい。
今ではすっかり聞かれなくなったかもしれない、ネイティブなどぎつい長崎弁。
そのうえ早口だから、何を言っているのかさっぱりだ。
だが、不思議と子ども時代は、じいちゃんの言うことが理解できていた。
大人になって、何を言っているのか判らなくなってしまった。
子どもの方が英語を覚えるのが早いって理論が解るような気がする。
じいちゃんは行儀が悪かった。
とりわけ食事作法が汚いったりゃありゃしない。
自分は食事作法を厳しくしつけられていたので、
「じいちゃん、ひじ つかんと!」
「くち あけて たべんと!」
じいちゃんの行儀の悪さが目に余り、生意気にも ちょいちょい注意していた。
「なんばな!よかくさ!」笑いながら、反論するじいちゃん。
昭和52年(1977年)。
じいちゃんと。
じいちゃんは、シンプルなものが好きだった。
生卵。
めざし。
厚揚げを焼いただけのもの。
天ぷら※1を焼いただけのもの。
ハムを焼いただけのもの。
明太子をあぶっただけのもの。
そういったものに醤油をかけて、白ごはんのうえに乗っけて食べる。
くちゃくちゃ音を立て咀嚼しては、チュッチュ音を立てながら嚥下する。
ご飯粒が残った茶碗に、でっかい急須からお茶を注ぎ、最後にそれを飲み干す。
行儀が悪くて汚いんだけど、じいちゃんの食事を見るのが好きだった。
長崎県は全国2位のジャガイモ生産量を誇る。
一位はダントツで北海道。
じいちゃんは畑で仕事する。
じゃがいもを掘り起こし、コンテナに詰め、選別し、箱詰めして納品する。
トラクターで掘り起こされたじゃがいも。
手で拾いながらコンテナや、大きな飼料袋に入れてゆく。
そんな じゃがいも拾いを手伝う。
畑の隅の作業小屋へ運び、キズの有無や大きさの選別。
掘り起こす際に傷が入ってしまったもの、
小さくて出荷できないものは牛の餌になる。
段ボールを組み立て、でっかいホチキスで閉じ、そのフタにある枠にハンコを押す。
ハンコを押すのは自分の仕事。
はっきりとは覚えていないけれど、「特」とか「優」とかの、等級のハンコと、
生産者を示す、じいちゃんの名前のハンコだったように思う。
じゃがいもの詰まった段ボールを軽トラに積み、農協へ出荷する。
農協職員や同業者。
みんな顔なじみなのだろう。
あちこちで、いろんな人と喋るじいちゃん。
初孫である自分を、みなに自慢げに紹介していた。
潟浜(がたはま)へ連れて行ってくれた。
有明海の諫早湾にある大きな干潟。
干潮時にそこへ入り、魚介類を獲る。
じいちゃんに連れられて、アゲマキと呼ばれる、細長い二枚貝を獲りに行った。
ちょこちょこ歩いては、なにかをついばむ水鳥。
ワラワラと出てきては、カサカサと潜ってゆく小さなカニ,
ぴょんぴょん跳ねるムツゴロウに、ドウキン※2。
海とは無縁の山間部に住んでる自分にとって、普通の海だけでもワクワクなのに、
珍しい生き物がたくさんの干潟ときたら、もうたまらない楽園だった。
そんななかで、ふたり黙々とアゲマキを獲る。
夢中になり過ぎて、深みにはまってしまう。
干潮時とはいえ、干潟のなかにも流れはあって、
海水を多く含む泥のゆるい部分が、川のように筋になって何本も通っている。
そこへはまってしまったのだ。
気付けばヘソの辺りまで埋まってしまい、もがけばもがくほど体が沈んでゆく。
まさに底なし沼のような場所。
じいちゃんとの距離は十メートルくらいだったろうか?
いや、もっと離れていたのだろうか?
胸まで沈んでしまい、さすがに自力で這い出すのは不可能と悟る。
必死に「じいちゃん、たすけて~!」と叫ぶも、
じいちゃんもアゲマキ獲りに夢中になっていて、まったく自分の声に気付かない。
あごまで沈み、死を覚悟したとき、
両脇を抱えられ、いとも簡単に引っこ抜かれ助けられた。
なぜもっと早く来てくれないのかと、
泣きながらじいちゃんを責め立てたと思う。
「な~んばしよっとな!」
笑いながら、じいちゃんは助けてくれた。
アゲマキによく似る、マテ貝。
これは福岡でもたまに売っているのを見かける。
アゲマキの味はよく覚えていないけれど、
砂抜きが不完全だったのか?
元からそういものなのか?
ジャリジャリしてあまり食べなかったような気がする。
ごくたまにこっちのスーパーで売られているのを見つけると、
このとき死にかけたエピソードをなつかしく思い出す。
あの思い出の潟浜も、今はもうない。
諫早湾の干拓事業によって田畑になってしまった。
アゲマキもムツゴロウも、カニも水鳥もドウキンも、もう居ないのだ。
採れたてのトウモロコシを茹でて食べる。
庭にあった、ドラム缶を割ったゴミ燃やしのうえ。
大鍋を乗せて、トウモロコシを茹でる。
北海道のスイートコーンとか、そういうのじゃなく、本来は牛の飼料用のもの。
それでも、充分に美味しかった。
採れたての ぬるいスイカも美味しかったし、
味があるのかないのか判らないようなマクワウリも美味しかった。
獲った貝も大鍋で茹でて食べる。
岩ガキ,イシダタミ,トコブシ,ウミニナ・・・。
干潟でなく、磯にもよく連れていってもらい、
いろんな貝が獲れ、それをそのまま茹でて食べた。
山の幸も海の幸も、当時 福岡では味わうことがなく、
本当にワイルドで美味しいものだった。
じいちゃん家の周りは竹林や雑木林,天然林が続く。
カブトムシやクワガタが獲り放題。
福岡にも居るのは居るが、自分の行動範囲では滅多に獲れない。
それが、じいちゃんちだと、家を出てちょっと歩けば、真昼間でもウヨウヨと居る。
福岡では持ってたら自慢できるような、ノコギリクワガタがうじゃうじゃだ。
夜になれば、あっちの方から網戸に飛んできてくれる。
カブトムシ,クワガタだけじゃあない。
色とりどりのカナブンたちに、極彩色のタマムシ、
怖さよりも、恰好良さに見とれてしまう大きなスズメバチ。
いかつい虫に混ざる、アブやチョウなどの羽虫たち。
カナブンでもない、クワガタでもない、なんだかちっちゃい甲虫たち。
クヌギの樹液にたくさんの虫が群がる あの光景は本当に夢のようだった。
あの、昆虫たちの楽園だった雑木林も、もうない。
大きな道路が整備され、その先にゴルフ場やリゾート施設が作られた。
その道路の土台や基礎として、山も林も切り開かれてしまったのだ。
じいちゃんちで食べた思い出のお菓子のひとつ。
盆時期にしか売っているのを見かけないレアなお菓子。
お盆になると、じいちゃんに連れられて、あちこちの家をめぐった。
おそらく初盆のおたくを巡っていたのだろう。
その都度 孫だと自慢気に紹介され、家の人らに可愛がられ、
たくさんお菓子やお小遣いをもらった。
あの地域の盆の風習なのだろうか?
どこの家でも、手作りの大きな蒸し饅頭が用意されていて、
腹いっぱいそれを食べたのを覚えている。
当時を思い出して、それに似たようなものを買って 食べてみるけれど、
あのとき食べたそれとは、やっぱりどこか違う。
昭和60年(1985年)。
じいちゃんとばあちゃんと、お母ん,叔母たち、妹弟たち、従弟妹たちと。
盆には福岡から、両親や妹たちもやってきた。
盆が過ぎると、家族と一緒に福岡へ戻る。
じいちゃん、ばあちゃんとはお別れだ。
長かったけれど、あっという間だった長崎で過ごした夏休み。
笑顔で名残惜しそうにずっと手を振っていたじいちゃん。
顔をうつ向かせて、ときおり涙を拭うばあちゃん。
あのとき、自分たちを見送ってくれた、ふたりの姿は今でも目に焼き付いている。
持って行っていた夏休みの宿題は、ほとんど手つかずだった。
今みたいに、ゲーム機やパソコンがあったわけじゃない。
それでも、退屈することなく、宿題なんかやってられないくらいに毎日が楽しかった。
このとき長崎で手に入れた虫や貝殻で夏休みの工作を作り上げた。
昆虫採集の標本と貝殻採集の標本、さらに思い出の数々を絵にした。
昆虫と貝殻の標本は、その年の六年生が作ったものよりも明らかに出来がよく、
また、福岡では見られない生き物も含んでいたので、
担任が教室から持ち出し、しばらく校長室の前に展示されていたのを覚えている。
全校生徒がそれを見にくる。
誇らしかったのを覚えている。
39年前のひと夏の思い出。
今でも鮮明に覚えている、長崎のじいちゃん,ばあちゃんと過ごした夏。
以降、小学校から中学生のときまでは、たぶん毎年、夏なり年末年始なりに行った。
小学校6年のときは、妹を連れてふたりだけで愛野まで行った。
それでも、このときほど長く滞在したことは以後なかった。
高校生くらいになると、とたんにじいちゃんちへ行くのが嫌になった。
もうカブトムシにもクワガタにも興味がなくなり、
畑仕事の手伝いや、貝獲りなんかも面倒になってしまっていた。
ゲームもない、テレビも見れない、そんな環境が嫌で仕方がない。
向こうの従弟妹たちに会うのが楽しみでもあったけれど、
当時、自身はコンプレックスの塊で、それも億劫になってしまっていた。
なによりも、うちのクソ親父と行動を共にすることが嫌で仕方がなかった。
じいちゃん,ばあちゃんにも、冷たい態度をとっていたかもしれない。
就職し、成人し、長崎へ行く機会は一気に減る。
自分が広島へと就職してしまったこともあり、疎遠になってしまう。
結婚式には、わざわざ福岡まで駆けつけてくれたのに、あまり相手ができなかった。
あのとき披露宴で、浪曲というか なにかよく判らない、
古めかしい歌を披露してくれたじいちゃん。
後からそれが、ありがたい「お謡い」という由緒あるものだと知った。
結婚生活は2年足らずで終焉を迎えた。
あんなに喜んでくれてお祝いしてくれたのに、申し訳なく思った。
離婚して福岡へ戻っても、長崎は疎遠のままだった。
行くのは、従弟妹たちの結婚式くらい。
それも、仕事の休みが取れれば出席する程度で、
全員の結婚式に出席できたわけではない。
でも、会う都度、じいちゃんは満面の笑顔で自分を歓迎してくれた。
大人になっても、小学校一年生だったときと変わらない笑顔で迎えてくれた。
平成4年(1992年) 大晦日。
じいちゃんとばあちゃん。
12年前の冬。
ばあちゃんが倒れた。
元々、高血圧だったが、トイレで立ち上がった瞬間に意識を失い倒れたそうだ。
そのまま危篤状態に陥り、自分が駆け付けたときには息を引き取っていた。
先に駆け付けたお母んは、かろうじて死に目に会えたが、自分は叶わなかった。
まだぬくい、ばあちゃんのふくよかな手を握ってお別れした。
母から聞けば、じいちゃんは孫には、やさしい面白いじいちゃんだが、
妻や子に対しては、“クソ親父”だったという。
とりわけ、ばあちゃんには かなり冷たくひどい仕打ちをしていたらしく、
エピソードを聞いていると、なにやら、うちの両親に似たようなものを感じる。
じいちゃんに対し、怒りを交えてエピソードを話すお母んだが、
あんたも、けっきょく似たようなのを夫にしてんじゃん・・・などと心の中で思うのだ。
火葬場で、最後のお別れ。
釜に入る直前、ばあちゃんの棺の上に、そっとスイセンと梅の花の枝を乗せる じいちゃん。
きれいにラッピングされているわけじゃない、花束にされているわけでもない、
子どもが花摘みをしたままのような状態。
家を出るとき、自宅の庭に咲いていたものを そのまま折ってきたものだろう。
お母んから聞かされていた、ひどいエピソードからは想像できなかったが、
じいちゃんが、ばあちゃんに対する、さりげない愛情表現だったのか?
50年以上連れ添ったばあちゃんへの、最後のお別れを見たとき、一気に涙がこぼれた。
6年前の夏。
長崎市内で従妹3号の結婚式。
当時小学校5年生だった息子を連れて出席した。
この頃になると、じいちゃんは孫の結婚式に出席しなくなっていた。
一泊して式の翌日、息子を連れて愛野のじいちゃんちへ向かった。
離婚していたので、長いこと会わせることができなかったが、
ついに自分の息子、曾孫を会わせることができた。
自分と自分の息子を、満面の笑みで迎えてくれたじいちゃん。
息子を呼んで、手を差し出すように言い、
その手のひらに、ワンカップから何かをじゃらじゃらと落とす。
大量の氷砂糖。
苦笑いしながら じいちゃんにお礼する息子が印象的だった。
ちゃぶ台の上に雑多に並んだ、ワンカップの空き瓶。
そのなかに、いろんなものが詰められていた。
センブリを使った薬草茶に、梅を使った化粧水、手作りの梅酒に豆乳、
はてには、目薬の空き瓶に入れられた、手作りの目薬!
この頃、いろんなものを手作りするのに凝っていたようで、
これ持って帰れ、これも持って帰れと、その手作りの品々をたくさんよこす。
目薬だけは丁重にお断りした。
梅酒はいいとして、あの豆乳を飲むのは勇気がいった・・・。
息子や叔父を交え、いろいろと談笑していたのだが、
相撲中継が始まると、もうテレビに釘付け。
自分らそっちのけで、相撲に見入る。
こうなってくると、もうじいちゃんは周りの話は聞こえない。
まあ、頃合いだなと思い、別れを告げてじいちゃんちを後にした。
火葬場の中庭で水遊びしていた小鳥。
・・・。
・・・・・。
じいちゃんと会うのは、このときが最後になった。
ずいぶんと弱ったように見えたが、まだまだ元気そうだった。
あのとき撮った笑顔の写真は、今もうちの台所に貼られてある。
自分が子どものときよりも老けてしまってはいたが、逆にふっくらしたじいちゃんの姿。
毎日、近所の温泉施設へ通い、入浴後は芝居を見ながらくつろぎ、
家では何かを自作して、日々楽しそうに過ごしていた。
今年の2月。
ばあちゃんの十三回忌。
自分は仕事で参加できなかった。
お母んや妹らは行って、じいちゃんにも会っていた。
「じいちゃん、もう だいぶ弱っちょうね・・・。」
ろれつが回らず、実の娘ですら何を言っているのか聞き取れなかったという。
口から食べものをこぼし、よだれも垂らす始末だったとか。
90を過ぎ、さすがのじいちゃんもガタが来ていたようだ。
その翌月、とうとう入院してしまった。
ヘルパーさんが来ていて、身の回りのお世話をしてくれていたようだが、
医療従事者でない、素人の介護ではどうしようもなくなってしまった。
見舞いに行きたくても、コロナのせいで他県からの見舞いは病院側から拒否される。
同じ長崎に住んでいる叔父や叔母、従弟妹たちでさえ、
PCR検査で陰性が証明されたひとのみ、ガラス越しでの見舞いに限られた。
福岡に住んでいる自分たちは、行きたくても行けなかった。
今年の夏。
叔母から、じいちゃんが危ないという連絡が入る。
咀嚼も嚥下もできなくなり、食事も水分補給もできなくなり、
喉に穴を開けて、そこから点滴?での食事・水分補給に。
それでも意識ははっきりしていて、体は動かせていたようで、
時に杖を振り回したりして、悪態をつき暴言を吐き、
医師や看護師、着替えの交換など世話をしていた叔母たちを困らせていたという。
先週の木曜日。
危篤との報が入る。
意識がなくなり昏睡状態に。
もう一日と持たないとのこと。
通夜・葬儀の段取りも既に手配しているようで、
最短の日時が伝えられる。
急いで準備する両親。
そして翌日未明、静かに息を引き取った。
享年91歳。
「おら、百まで生きっとぞ!」
むかし、そう豪語していたじいちゃん。
実際、冗談ではなく、間違いなく100過ぎまで生きるだろうと思えるくらいに元気だった。
なんなら、うちのお母んや、叔父叔母よりも長生きしそうなくらいに、
元気で活発で、活き活きとしていた。
危篤と連絡を受けたその日の夜。
布団に潜っても寝付けなかった。
小学校一年生のあの夏休み、あのときの最高の思い出とともに、
じいちゃんのことが、ずっと頭にめぐる。
そうして朝になり、お母んが部屋に入ってきて訃報を知らせる。
一睡もできないまま、支度して高速で長崎へ向かった。
雲仙市の葬儀場。
ばあちゃんのときと同じ斎場。
棺に入ったじいちゃんを見る。
変わり果てた姿に悲しくなる。
フサフサだった頭髪はハゲ頭になったかのように、まばらになっており、
両目は何かテープが貼られていた。
まぶたが閉じないので、病院でそうされたという。
頬がこけ、目がくぼみ、開いた口に干からびた舌。
喉にはぽっかりと空いた穴。
痩せこけて、顔のシルエットは まさにしゃれこうべ。
ミイラよりもミイラになっていた。
まだエジプト展などで展示されている、
本物のミイラの方がふっくらしているかもしれない。
通夜を終えて翌朝。
自分は福岡へ戻っていたので、また高速で長崎まで行く。
礼服は車に乗せたままだった。
葬儀場の駐車場で着替える。
!
ちょっと待った、ジャケットとスラックスの色が違う!
スラックスは真っ黒で、確かに礼服なんだけど、
ジャケットは紺色・・・ふつうのスーツ。
なんと、上下ちぐはぐを着て昨晩の通夜に参列していたのだ。
暗くてよく判らなかったのか?
それにしても、誰も指摘してくれなかったぞ。
これは恥ずかしい・・・しかし今さら福岡まで取りに戻れない。
ジャケットなしで参列しようかと思ったが、
親族で孫筆頭なので、最前列の席。
仕方なく、葬儀も上下ちぐはぐで参列することに。
そして自分の熊本から来ている弟。
この弟もまたやらかす。
革靴の底がボロボロと崩壊。
よくある、革靴をたまにしか履かなくて、葬儀場で崩壊する現象。
葬儀の後の掃除で、供花の葉っぱなどをのぞくと、
もっとも散らかっているのが靴底の欠片だったりする。
最前列で、上下ちぐはぐのスーツと、礼服にスニーカーの孫が並んで座る。
そしてその二人が棺を運ぶという・・・。
葬儀が終わり、いよいよ最後のお別れ。
棺に皆で花を手向ける。
胡蝶蘭,カーネーション,トルコギキョウ,ガーベラ,デンファレ,etc・・・。
色とりどりの花に囲まれてゆく じいちゃん。
晩年愛用していた、背広や帽子、お気に入りの馬のぬいるぐみ、
好物だったお菓子やバナナ、孫・曾孫の書き寄せ,etc・・・。
花とともに、いろんなものも棺に納められてゆく。
霊柩車は火葬場へ行く途中、愛野のじいちゃんちの前を通る。
葬儀社の粋な計らいだ。
リムジンで、あの細く曲がりくねった道をよく通れたなと。
運転手に感心するばかり。
火葬場で釜に入る。
棺の上に小さなブーケ。
ばあちゃんのときに、その棺のうえに、
じいちゃん自らが添えた、スイセンの花と梅の小枝を思い出した。
ちょうど四十九日のときは、スイセンと梅の花が咲く頃だろうか。
朝は青空が広がっていたのに、一面雲に覆われていた。
それでも、通夜も葬儀も12月とは思えない陽気のなかで、
たくさんの身内が集まって、大勢のご近所さんも来てくださって、
悲しいけれど、けっして寂しくはない、なごやかな雰囲気のなか、
じいちゃんは荼毘に付された。
骨が太かった。
米の袋や堆肥の袋を抱え、じゃがのコンテナを運び、
牛を引き、しいたけの原木を担ぎ・・・
若い頃から農業に勤しんだじいちゃん。
あんなミイラよりミイラになっていても、
火夫さんも驚くくらい、立派な骨だった。
じいちゃんが生前用意していた立派な骨壺に、
遺骨は破片のひとつも残さず、すべて納められた。
長崎の従弟妹たちも、ほぼ結婚したし、
じいちゃんが亡くなり、これから長崎へ行く機会はさらに減るだろう。
叔父や叔母の不幸があったとき、法事のときくらいになろうか。
叔父・叔母の不幸や法事だと、気軽に休みも取れないし、
ますます疎遠になっていくかもしれない。
じいちゃんちの庭にあったミカンの木。
どうせ叔父は食べないだろうし、ちぎって帰るんだった。
今回、じいちゃんの葬儀で、初めて会う子ども達が大勢いた。
従弟妹たちの子どもたちだ。
乳飲み子は居なかったが、いちばん小さい子で、まだ2歳くらい。
じいちゃん、ばあちゃんにとって、自分が初孫で最年長。
最初に結婚したので、19歳のうちの娘が曾孫でも最年長になる。
大勢のチビッコ達が、まあ賑やかなこと賑やかなこと。
孫は16人。
曾孫は27人。
じいちゃんとばあちゃんの子孫だ。
これだけたくさんの実を残して、この世を去った。
寂しがる必要はないのだ。
じいちゃんもばあちゃんも満足しているはずだ。
精進明け後、ひとりじいちゃんちの裏の山道を登り、
上の畑のあった場所まで散歩した。
広がっていた潟浜はなくなり、田畑やビニールハウスが並ぶ。
どこまでも広がっていたじゃがいも畑も途切れとぎれ。
あちこちで大型の倉庫や風力発電などの建造物がある。
すっかり開発が進んで姿が変わってしまった雲仙市。
だが、悠然とそびえる雲仙普賢岳の存在感だけは変わらなかった。
山がひとつ増えた(平成新山)けれど。
昔は対岸まで海だった場所。
諫早湾干拓事業によって埋め立てられ、今は広大な農地となっている。
雲仙岳
左の山のどれが普賢岳かは判らない・・・。
右に見える尖ったのは、平成三年(1991年)に起きた火砕流を伴う噴火活動の際、
膨らんだ溶岩ドームで新しくできた平成新山。
自分が小学校一年生のときに体験したようなことを、
今の子どもたちも体験できるのだろうか?
だんだんと暮れてゆく空の下、雲仙を眺めながら遠い日の思い出を振り返る。
あの頃の思い出と重ねながら、今の光景を目に焼き付けて福岡へと戻った。
長崎市内で被爆し、それでも91まで生きられたじいちゃん。
大往生といってもいいだろう。
そして今日、自分は45回目の誕生日。
じいちゃんの人生の半分だ。
でも、さすがに自分は90までも生きられもしないだろう。
残りの人生、どんなふうに生きればいいか?
日々どう過ごせばいいか?
もうちょっと真剣に考えなければいけない。
感傷に浸っているなか、
クソ親父のわめき声が続く。
じいちゃんの葬儀が終わった一昨日の夜から酒浸り。
昼夜問わず目を覚ませば飲み続け、ずっとわめき続けている。
この親父の葬儀じゃ涙一滴も出ないだろう。
※1 天ぷら
さつま揚げのような、魚のすり身で作った練物(揚げかまぼこ)のこと。
西日本の広い地域、とりわけ九州では これを「天ぷら」と呼ぶ。
じゃあ、野菜やエビ,イカなどに衣を付けて油で揚げたもの・・・これも「天ぷら」と呼ぶ。
※2 ドウキン
正式名称はワラスボ。
有明海にのみ生息するハゼの一種。
目玉がキョロキョロしてて、おとなしく愛嬌のあるムツゴロウに対し、
狂暴なうえに、目が退化し牙むき出しのグロテスクな外観を持つ魚。
“エイリアン”に顔が似ているため、近年はそれがネタになって人気があったり。
まだお墓には入ってないんだけどね。
が、実話だったのですね。書き置きメモの事情もこの事だったのですね。
謹んでお悔やみ申し上げます。
小1ぐらいの時って、ただ行くだけでもたまらなく楽しくてワクワクするのに高校生あたりから億劫になってしまう。
よくわかります。どうしてなのかな~。
小さい時の方が方言のきつい会話でも理解できてしまう。もね。
言葉をアタマで論理的に理解しようとするのでなくもっと直感的に表情やら身振り手振りやらを見て「感じる」のでしょうね。大人になってしまうと、ちゃんと気の利いた返答をしなきゃとか、理解しようと頑張ってしまったりして「感じる」のを邪魔してしまうんじゃないかと思います。
ミイラよりもミイラっぽい。
これは正直かなりショックですね。同じ経験があります。
むしろ出席しないで、元気な時のイメージのまま自分の心に留めておきたかった。見なきゃ良かった。とさえ思います。
え?うそ・・・これがあのおじいちゃん(おばあちゃん)?
と一瞬固まってしまいました。
普段、仕事で人の死というものに散々立ち会っていても身内のそれは全く別の物なんだと改めて思い知りました。
書置きメモはこれのことでした。
祖父と自分の実話でございます。
途中の信じられないようなエピソードも、
すべてノンフィクションでございます。
トップの写真も実際のもの。
「たしかこんな写真あったよな・・・?」
自分の記憶をたどり、実家の押し入れの奥から探し出しました。
古いアルバムや写真を整理したお母ん曰く、
近いうちにすべて捨てるつもりでいたそうです・・・。
ふざけるなと。
幼い頃特有のあの能力は、大人になるにつれ失われてしまいますね。
純粋無垢なまま大人になれたら、生涯成長できそうです。
自分も職業柄 多くの他人の死を見てきましたが、
自然死であの状態はひどいなと思いました。
病院側の死後措置や、葬儀社の納棺の際のオプション(湯潅や死に化粧)など、
地域によって差があるのかもしれませんが、
少なくとも福岡や広島では、ご遺体の見える部分にテープそのままとか、
無精ひげそのままとか、空いた口そのまま、
くぼんだ頬そのままは有り得なかったので絶句しました。
まあ喪主だった叔父がオプション(別料金)を拒んだ可能性もありますけどね・・・。