首里城再建にあたり、龍柱の向きが問題になっているようです。
当初龍柱は
正面を向いていたのか?
向き合っていたのか?
問題視されてます。
龍柱↓
最近、最古の写真が発見されました。
【首里城正殿の最古写真】
1877年に琉球を訪れたラクロシュトリ号のアンリ・リウニエ艦長の子孫が所蔵し、論文で紹介したルヴェルトガ撮影の正殿写真。
(2020.11.14 沖縄タイムスプラス)
龍柱は正面を向いていますね。
この写真が本当に1877年なのかがポイントになってきたようですが、
1877年琉球王国、尚家の資料に記載されています。
RBCNEWSより
確かに1877年来客の記載が残っているので、やはり当初は龍柱は正面を向いていると言えます。
ちなみ龍柱の向きはいつから変わったのか??
RBCNEWSより
明治時代
見えづらいですが龍柱は正面を向いていますね
大正時代
RBC NEWSより
龍柱は正面を向いていますね
昭和10年代 昭和の大修理後
RBCNEWSより
龍柱は向き合っていますね
Wikipediaより
2016年時
龍柱は向き合っていますね
ですから昭和大修理前後に向きが変わったということですね。
ちなみに、昔は朱色ではなく灰色や黒い色をしています。
戦後の首里城は中国の影響を受けているように感じます。
沖縄の独立と言うと響きは良いのですが、裏には分断という言葉も隠れています。
さて、
昭和の大修理後の写真を良く見ると神社などでよく見かける石灯篭がみられますよね。↓↓
元々、琉球は御嶽(うたき)という自然崇拝信仰で、神社はありませんでした。
沖縄神社が創建されたのは1925年(大正14年)
首里城正殿が沖縄神社拝殿となり、奥には本殿がありました。
(ひょっとすると龍柱は神社になってから向き合うようになったかもしれません)
祭神は最終的に
舜天・尚円・尚敬・尚泰・源為朝
となりました。
↑源為朝が祀られることに大きな意味があります。
保元の乱での敗戦後に琉球へ逃れ、大里按司の娘と子をなし、その子が初代琉球王舜天になったという伝説があるからです。
これは日本政府が日琉同祖論を積極的に進めていったということになります。
琉球の朝貢と冊封の歴史から様々な意見がありますが、異国の脅威から沖縄を守る為、この時代の同化政策は得策だったと思います。
日本は大きく言えば、縄文と弥生の2つの柱で成り立っていますが、沖縄はムー、レムリアの血を色濃くひいています。それはyap遺伝子を持つ縄文日本人の象徴とも言えます。
沖縄は日本の大切なルーツですから、しっかり守っていかなければなりません。
首里城の龍柱の向きは原点を見つめることを示唆しているように感じます。
明治維新の後、1879年に沖縄県は誕生しました。
以後、方言礼の言語統制や御嶽信仰から神社への移行など様々な同化政策が進められてきました。
その時には必要だったものも、時代と共に見直すことも大事です。
御嶽(うたき)の多くは森の空間や泉や川などで、島そのものであることもあり、縄文時代の自然崇拝の在り方を残しています。
琉球諸語のような地域言語は、その地域の文化や、そこに暮らす人たちのアイデンティティを支えてきたものであると言えます。
今一度、全てのルーツを見直すときが来ているのではないでしょうか。
還ることが良いこと、
融合させることが良いこと、
新たに作り変えることが良いこと、
無くした方が良いこと、、、
新たな時代。
日本から型が出ていきます。
皆で知恵を出し合い、
素晴らしい愛のある仕組みを作りたいですね。
mamanoria