見出し画像

寮管理人の呟き

大正8年に発生した福山大水害(その4)

昭和5年(1930)発行の福山市街地図を用いて野上堤防の決壊部分(前田商店~地吹荒神社前)を紫色の線で示してみた。大正8年(1919)の鷹取川・下井手川・鞆軽便鉄道のルート・鷹取橋の位置関係がよく分かると思う。洪水の被害が入江の北(北浜)まで及んだというのだから驚くほかない。

駐車場のフェンスに取り付けられたプレート(古野上町ごみステーション付近)

前田商店近くの駐車場(古野上町12)前はごみ捨て場となっているが、その表示の上に「福山大水害と古野上」「人柱お米の伝説」というプレートが取り付けられている。私は平井隆夫さんと同じようにお米が人柱にされた話を信じてはいない。平井さんの著作「おもしろふくやま史(二〇〇一年)」では次のような見解となっている。

人柱伝説 12
 人柱伝説は、この地方のみならず全国に多くその例話がある。堤防、築城ということにまつわるものが多いようである。
 しかし、これが事実であるか否かということになると、これを裏付ける史資料はなく、いずれも伝説をもとにして後世に作られた物語や墓や塚である可能性が高い。現在の歴史学は実証学であり、これらの伝説をそのまま現実の歴史として考えることはできない。
 この地方に伝わる伝説には、服部大池のお糸の物語、芦田川堤防のお米の伝説、瀬戸池のおとせの物語、福山城月見櫓(着見櫓)の人柱、笠岡冨岡大池の人柱などがあるが、これらの物語の登場人物は、継の当てられた着物を共通して着用しており、これは全国に存在する多くの人柱伝説とも共通する要素である。
 元和六年、福山城築城、城下町建設の最中、堤防が切れ、城下町が大きな被害を受けた。そのために新しい堤防に人柱を埋めたということになっている。また、服部大池のお糸も池の堤防に埋められたということになっている。
 しかし、蟻の穴からでも堤は崩れる、という諺があるように、堤に人間を埋めるような大きな穴を堀り、堤の強度のバランスを崩すようなことをなぜわざわざやらねばならないのか。当時干拓造成が盛んで、築堤術が急速に進歩していたのに、その結果がわからぬはずがない。
 したがって、これらの物語は人柱をしたという歴史的事実を伝えているのではなく、各地にある水神信仰から発し、それが物語の形に変化されていったものと考えるべきである。つまり、ここには水神を祀って祈願しているので絶対に堤防は切れない、だから大雨による決壊も心配ないし、日照りによる水の心配もない、という信頼感が、いつの間にか、そこで豊作・豊穣を願う信仰となり、お米やお糸という女性の形を借りた物語へ発展していったのである。物語にあるように、多くの農民が自らの利益を願うために人ひとりを犠牲にし、人柱を立てたと解すべきではない。
 このような伝説や物語をいかなる主観で捉えるかは、人それぞれにおいて自由であるが、根本は歴史と伝説を同一視しては実際の歴史認識に誤解が生じるということである。我々は後世のためにも歴史の事実を伝えるべきで、虚構の歴史を作って後世に伝えてはならない。歴史は実証学である。そして伝説は伝説として大切に残されるべきである。

まさに名言である。郷土史研究において最も大切なことは事実を淡々と述べるということであり、一部の特定の人間が飯の種に歴史の捏造を平気で行っていることは決して許されないのである。また恫喝を恐れて事実を隠蔽したり、問題の核心への言及を避ける人間は研究など止めればいいと私は思う。

古野上町の歴史案内より旧野上堤防周辺を拡大

にほんブログ村 その他日記ブログ ひとりごとへ
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「郷土史」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事