退屈男の愚痴三昧

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日本学術会議会員推薦者任命拒否事件雑感(1)

2020年10月09日 13時19分26秒 | 日記

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20201007/k10012651691000.html?utm_int=detail_contents_news-related_001

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 加藤官房長官は記者会見で「憲法23条に定められた学問の自由は、広くすべての国民に保障されたもので、特に大学における学問研究について教授が自由に行えることを保障したものだと認識している。学術会議の会員などが個人として有している学問の自由への侵害にはならないと考えている」と述べたそうだがこの認識には疑問がある。

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 「学問の自由」を考えるときには広義の「学問の自由」と狭義の「学問の自由」を分けて考えなければならない。加藤長官の認識は狭義の「学問の自由」には当たるかもしれないが広義の「学問の自由」には当たらない。そして、真に問われるべきは広義の「学問の自由」なのである。そもそも、政府の決定に向けられた批判は狭義の「学問の自由」の問題ではない。以下簡単に眺めてみたい。

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 まず、加藤長官の認識にある「憲法23条に定められた学問の自由は、広くすべての国民に保障されたもので」という部分とそれに続く「特に大学における学問研究について教授が自由に行えることを保障したものだ」という部分とに論理的つながりが見えてこない。よもや、「国民が大学へ行って研究者の研究成果を聴く自由」だと解釈したわけではなかろう。万一そうであれば「学問の自由」をあまりにも狭く捉えすぎる。仮に、前者を「広くすべての国民」が享受する抽象的な「学問の自由」だと読んだとしても、大学の研究者が講義する、すなわち、教授する学問研究の成果に関する「学問の自由」とでは質的に並列できない。

 ちなみに、長官のこの説明はインターネントの無料汎用型百科事典の記述に酷似している。政府の見解なのだからもう少し自前で研究し、もっともらしい説明をしてもらいたい。

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 問題とすべきは広義の「学問の自由」である。「大学における学問研究について教授が自由に行える」ためには教授すべき内容の科学性と普遍性が客観的に担保されていなければならない。

 研究者が研究室にこもり一人でコツコツ研究しているだけでは到底「教授すべき内容の科学性と普遍性が客観的に担保され」る段階に至るとは言えない。そのためにそれぞれの研究者は、同一領域、類似領域、周辺領域の研究者と議論を交わしながら研究を進めるのである。当然、学会における意見交換は必須だ。

 そして、更に高度の科学領域に至っては一人の研究者で研究を進めるなぞできようはずはなく当然、共同研究となる。

 さらに、政府の諮問(日本学術会議法第4条)に答えるような大きな問題や重要な問題に関する科学的認識を確定し疑問点と未知の部分をあぶりだすには科学横断的な、いわば専門領域を異にする研究者による学際的共同研究と意見交換を経た検証が不可欠となる。

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 日本学術会議はこの科学的要求を満たすために設立されたのではないのか。そうでなければ「科学の向上発達を図り、行政、産業及び国民生活に科学を反映浸透させること」(日本学術会議法第2条)なぞできようはずがない。

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 さらに、「科学の向上発達」に必要な知見は当該専門研究を実際に長年行って来た当の人物でなければ科学遺産として後世に正しく正確に伝えることはできない。したがって、人の確保、研究者の確保は優れて学問研究には必須不可欠の要素なのであって、研究者の人選は「学問の自由」における極めて重要な要素なのである。

 斯かる意味で研究主体たる日本学術会議が必要とした研究者を排除することは一体として活動する研究主体たる日本学術会議の「学問の自由」を侵害することになると言ってよい。

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浅学非才愚考卑見乱文長文多謝



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