退屈男の愚痴三昧

愚考卑見をさらしてまいります。
ご笑覧あれば大変有り難く存じます。

先生との出会い(34)― 「毒樹の果実」理論 ―(愚か者の回想四)

2021年02月26日 17時31分26秒 | 日記

 排除法則(the Exclusionary Rule)は警察実務や一部の学者から劇薬などと批判された。

 しかし、日本とは異なり警察実務を直接監督することになる米合衆国最高裁判所は頑強にこの準則を維持した。

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 排除法則とはその名の通り米合衆国憲法に違反する活動が捜査の過程で生じた場合その活動は無かったこととされる準則である。

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 表現が難しい。

 「無かったこととされる」というのは日本人が、しばしば、「あのことは無かったことにしてくれ」と言う脈絡で使われるものとは全く違う。この点を誤解すると結果が逆になる。

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 有罪証拠となりうるものを入手した捜査活動の存在それ自体が消されるということだ。

 したがって、後になって消される結果となる捜査活動、たとえば、それが捜索や押収であればそこで得られた物、それが取調であればそこで得られた供述も、その元となった活動が消されてしまえば、当然、物も供述も消えてしまい何も残らない。有罪立証は不可能だ。

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 仮に憲法に違反する捜査で得られた証拠が特定の人を確実に有罪だと指していても、その証拠でその人を有罪とすることはできない。その結果、しばしば、凶悪犯が街に放たれることになる。映画「ダーティハリー」はこの過程を臨場感を持って描写している。

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 キャラハン刑事は施錠されたスタジアムのフェンスを無令状で乗り越えた。無礼状の立ち入りであり第4修正違反である。

 次に、容疑者のドアを蹴破って中に入った。これも第4修正違反である。

 したがって、容疑者の部屋から発見された狙撃用ライフル銃は公判では存在しないものとして扱われる。

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 さらに逃げる容疑者の足を撃ち、その痛がる足を踏みつけて被害者の居場所を聴き出した。

 容疑者は弁護権を主張していた。適正手続違反と弁護人依頼権の侵害があり第5修正と第6修正に違反している。

 したがって、この供述も刑事手続上、無いものとして扱われる。

 もちろん、容疑者の供述に基づいて行われた捜索で発見された被害者のご遺体も無いものとして扱われる。

 ちなみに、これを「毒樹の果実」理論(Fruit of the Poisonous Tree doctrine)という。毒の樹に生る果実はそれも毒だという趣旨だ。

 つまり、容疑者の弁護権の主張を無視して供述を引き出す行為は、もとより弁護権(第6修正)侵害であり同時に供述の自由(第5修正)の侵害であるから自白や「秘密の暴露」があってもそれは排除される。この自白や「秘密の暴露」が毒樹。

 そして、この自白や「秘密の暴露」を手掛かりに発見された被害者の遺体が「毒樹の果実」。したがって、これも排除される。

 重要な証拠がすべて排除されるのだから容疑者の有罪立証は絶望的である。

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 このあたりまで説明すると300人前後いる教室でも水を打ったようになる。

 「ご質問は?」と言ってもそのままであることが何度もあった。愉快だ。20年くらい前の話だ。懐かしい。

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 映画「ダーティーハリー」は単なるアクション映画や娯楽映画ではなく、この裁判実務を批判して制作されたものだと言ってよい。

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 他方、日本では当時もその後も警察の粗暴捜査は米国ほど顕著ではなく、そのこともあって純粋な形でこの排除法則が適用されたことは無い。

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 もっとも、排除法則は一部の学者や実務家によりドイツ型の証拠禁止法理(Beweisverbote)と混同され、ときには「違法収集証拠の排除」という文字列で甚だ不完全な形で動いている。深入りし過ぎた。これ以上はやめよう。

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 要は法運用とは法律を文字通りに当てはめれば解決できるというわけではないということだ。

 条文を知っていればそれでどうにかなるという代物ではまったくない。

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 法律の枠を出ない限度で最も妥当で合理的かつ論理的な解決策を見つけるのが真の法運用である。

 その訓練をするのが大学院のゼミである。したがって、何が合理的で何が論理的なのかという問を突き詰めて考えなければならない。

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 しかし、そればかりを追うと妥当性を欠く結果となるのでここらあたりを微調整する理屈も考える。これが中央法学が他大学と異なる点なのだと思う。

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 通常、法律家といえば実務法曹を指すが、実務法曹は当然のことながら司法試験に合格していなければならない。

 私はOs先生との約束でこの試験を受けなかった。

 だが、受験勉強をしている人はたくさん見て来た。

 また、なぜか、司法試験予備校が開催する受験セミナーで講師として刑法総論を講じた事もあった。

 また、判事、検事、弁護士が参加する研究会で遊んだこともある。

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 これらの経験から一つ気付いたことがある。

 それは、実務法曹、とりわけ弁護士は『法律』の適用を第一に考える傾向が強い。当然と言えば当然だが、異論もあろうが勘弁してほしい。

 「気付いたこと」でしかないのだから。

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 これに対して、法学者は事件や紛争の妥当な解決を模索し、それに適う法律を探すというやり方をする。

 この構図は前者がドイツ法型、後者が英米法型と言ってもよい。まぁ、法学者の中にもカリカリのドイツ法学者もいるから断定はできない。

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 一般論だが、ドイツ法学では、法発見という文字(Rechtsfindung)はあるが法発見という考え方は支配的ではないと言ってよい。近年、ドイツ法学者の中にも英米法に深い関心を寄せるものも多くなり教科書レベルではそれらしい記述も散見できるが国全体として眺めると英米法型とは言い難い。

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 これに対して、英米法学では法発見こそが法律家の使命だとされている。

 ちなみに、学生の頃、「ドイツには法社会学という独立した学問領域があるが米国には無い。」という某学者の発言を耳にしたことがある。

 まさかと思い種々調べるとこの発言に対し英米法のある学者がうまいことを言って反論していた。(つづく)

 

※「先生との出会い」はファンタジーです。実在する団体及び個人とは一切関係ありません。

 


先生との出会い(33)― 排除法則 ―(愚か者の回想四)

2021年02月16日 19時34分40秒 | 日記

 つまり、すでに1791年の時点で権利章典規定は成立しており、したがって、日本国憲法31条から39条の権利保障は修正規定として存在している。

 それなのに1865年まで奴隷制度が残っていたのは、奴隷州において奴隷は「citizens」ではなかったからだ。

 自州のcitizensとするかしないかは主権を持つ各州に委ねられていた。

 citizensでなければそのものに権利章典規定は及ばない。

 奴隷をcitizensではないと宣言すれば奴隷制度を維持できた。

 これが米国型連邦制なのである。

 日本人には不可解かもしれないが米国型連邦制ではこの結論は至極当前ということになる。

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 そこで、この不合理を打破するために、第14修正はpersonsという概念を使った。

 personsはcitizensを包摂する上位概念である。

 citizensはpersonsに付与される、いわば資格や身分を包含した概念なのでその元となるpersonsの文字を使えば人種でcitizensに保障される権利を制限することはできないことになる。まさに英知だ。

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 第14修正はこれに続き、「No State shall make or enforce any law which shall abridge the privileges or immunities of citizens of the United States; nor shall any State deprive any person of life, liberty, or property, without due process of law; nor deny to any person within its jurisdiction the equal protection of the laws.」(「いかなる州も、合衆国市民の特権または『法律上の免責事由』(immunities)を制限する法律を制定し、または実施してはならない。いかなる州も、『法の適正な手続』(due process of law)によらずして何人からもその生命、自由または財産を奪ってはならない。いかなる州も、その管轄内にある者に対し法の平等な保護を否定してはならない。」)と規定する。この部分は第5修正とほぼ同じ文言だ。

 法の適正手続(due process of law)の部分を単純に抜き出すとこの二つの修正規定は、

Amendment XIV:

No State shall deprive any person of life, liberty, or property, without due process of law.

「いかなる州も、法の適正な手続によらずに、何人からもその生命、自由または財産を奪ってはならない。」となり、

Amendment V:

No person shall be deprived of life, liberty, or property, without due process of law.

「何人も、法の適正な手続によらずに、生命、自由または財産を奪われることはない。」となる。

 一見、中学英語で登場する受動態と能動態の違いしかないように見える。

 これも建国史や憲法制定経緯を知らないと「なぜ同じ文言の修正規定があるのだろうか。」という疑問につながる。

 だが、この疑問はすでに眺めた米国型連邦制の仕組みを知れば氷解するであろう。第14修正はStateに対し強いメッセージを送っていると言ってよい。

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 ちなみに、これらの修正規定を「修正第〇条」と言ったり書いたりする人がいる。だが、それは間違いだ。

 元の文字列は、第4修正ならばthe Fourth Amendmentだ。これを第4条と訳すことはありえない。英語の試験ならば0点だ。ちなみに、Amendment4. と書くときや短縮してAm.4と書くときがある。これを「修正第4」と読むのは正しい。しかし、「条」を付けてはいけない。

 米合衆国憲法には正しく「条」と訳すべきArticleの文字が本文に並んでいる。

 「修正第4条」などと発言する人に、口頭で上記のように卑見を述べると、「細かすぎる。そんなことはどうでもいい。」と腹を立ててゴマカス人もいる。官僚上がりの横滑り教員に多い。

 違うものは違う。

 中には「『修正』という文字を付けているのだから間違いとは言えない。」と真顔でいう人がいる。

 だが、一回の議会承認で、順序がある複数の事項を一括して修正として制定したのであればそれも分かる。

 だが、米合衆国憲法の修正規定はそのような仕方では制定されてはいない。したがって、この解釈も違う。

 こだわり過ぎだという人がいるが私はそうは思わない。

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 ついでながら、日本法の「条」には論理的な順序がある。

 意外にも、若手研究者の中に気付いていない人が少なくないことに驚く。皆さまはご存じだろうか。

 たとえば、刑法の第三十六章には「窃盗及び強盗の罪」が規定され、第三十七章には「詐欺及び恐喝の罪」、第三十八章には「横領の罪」、第三十九章「盗品等に関する罪」、そして第四十章には「毀棄及び隠匿の罪」がそれぞれ条を分けて規定されている。

 日本の法典は、基本的には抽象的事項(総則)から具体的事項(各則)へ、基本形から変化形へ、重から軽へと条文が並ぶ。

 例えば、刑法典の「財産に対する罪」では、行為態様において基本的なもの(例:窃盗)から変化したもの(例:強盗や詐欺)へ、重いもの(例:強盗)から軽いもの(例:隠匿)へと並んでいる。

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 これは一つの条文の中でも当てはまる。

 「項」という文字は多くの人が知っているが、議会で法案が審議され可決し成立した法律に「項」を示す数字がないことはあまり知られてはいない。

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 一つの条文の中に複数の区切られた文がある場合、市販の法令集では見やすいように順番に番号が振られる。これが「項」だ。

 だが、元は一つなので番号が振られた第二文(第二項)や第三文(第三項)から条文を考えることは論理的に出来ない。

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 たとえば、多くの人が正当防衛という言葉を耳にしたことがあるだろう。過剰防衛という言葉も同じくらい有名だ。

 しかし、過剰防衛は正当防衛を規定する刑法第36条の第二文、つまり第二項に置かれている。

 したがって、第一項の正当防衛事情が無ければ過剰防衛を論じる余地はない。

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 また、正当防衛を規定する第一項の文字列にも論理的な順序がある。同項には「急迫不正の侵害に対して、自己又は他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為は、罰しない。」との文字が並ぶ。

 正当防衛が認められるためには「急迫不正の侵害」があることが大前提となる。そして、その「侵害」は「急迫」でなければならない。

 「急迫」ではない「不正の侵害」には正当防衛はできない。日本の刑法学者が大好きなドイツ刑法では正当防衛ではなく「緊急防衛」と訳すべき文字(Notwehr)が使われている。

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 さて、では、ここでいう「急迫」とはどの程度の接近性を言うのだろうか。当然のことながら、明らかな過去や未来は排除される。

 しかし、判例によれば「不正の侵害」が『現在』することまでは求められてはいない。

 抽象的過ぎて分かり難い。多謝。

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 たとえば、悪い例だがケンカを例にしてみよう。

 しばしば「一発殴られてからならいくら反撃しても正当防衛になる」と主張する人がいる。だが、それは違う。

 軽微な先制攻撃に対して重大な反撃をすれば過剰防衛ではなく普通に暴行罪や傷害罪が成立する。

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 他方、判例は侵害が目前に迫っているときは「急迫」に当たるとの判断を示している。

 「目前」とは、相手が攻撃態勢に入りこちらに殴り掛かって来たときをいう。

 このときは「急迫」要件を満たすので反撃ができる。

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 それた道からさらに道がそれた。「ダーティーハリー」(☆)に帰ろう。

 米合衆国憲法第4修正は日本国憲法第33条及び第35条、第5修正は同じく第29条、第31条、第32条、第38条、第39条、第6修正は同じく第34条、第37条の内容を含んでいる。

 したがって、「米合衆国憲法第4、第5、第6修正違反だ。」と言われたことは、捜査活動で遵守すべきすべての憲法上の義務に違反したということになる。

 personの側から見れば権利章典規定に掲げられたすべての権利を侵害されたことになる。

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 この頃、米国では警察による市民の権利侵害が大きな問題となっていた。

 そして、これを止める対策として米合衆国最高裁判所は、後に一部の学者や警察実務から「劇薬」だと激しく批判される『排除法則』(the Exclusionary Rule)と呼ばれる強烈な準則を宣言したのである。(つづく)

 

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先生との出会い(32)― 米合衆国の成立と米合衆国憲法 ―(愚か者の回想四)

2021年02月15日 23時39分56秒 | 日記

 米合衆国憲法第4、第5、第6修正とは米合衆国憲法が成立した後に付け加えられた権利章典規定である。日本国憲法の第31条から第39条に相当する。

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 「そんなに重要な規定がなぜ本文に入っていないのですか。『後から付け加えられた』って、軽くないですか。」という至極自然だが研究者の度肝を抜くような質問を以前の職場で受けたことがある。

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 学生だけでなく教員の一人からも同じような質問をされたことがある。20年くらい前のことだ。

 学生ならまだしも大学の教員の中にも知らない人がいる。日本の教育の根本部分にボタンの掛け違いがあると感じた。

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 結局、そのときの講義では修正規定の説明をする前に米国の建国の歴史を紹介し、米国型連邦制について説明しなければならなかった。修正規定に関する説明は結局できなかった。

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 そんなことがあったので、その後は修正条項について話すときは、あらかじめ時間配分を考え米国型連邦制から話すようにしている。

  ちなみに、定年で退職した大学では「日本国憲法」という科目も担当したがこの科目では米国型連邦制と米合衆国憲法、及び修正規定についてずいぶん時間をかけてじっくり説明した。

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 米合衆国は、ご存じの通り連邦制国家である。日本語の文字は同じ『連邦』だが旧ソ連のそれとは全く違う。

 また連邦を構成するStateは文字通り国であり「州」という漢字には違和感がある。もちろん、日本の地方自治体とは全く異なる。かつての同僚教員が「県みたいなもんでしょ。」と発言したときは返す言葉に苦慮した。

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 米国を旅した人ならば誰でも気付くはずだが各州は今でもまさに国家である。United States of Americaという文字の意味もなるほどと感じるところである。アメリカという結合された国家なのだ。

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 しかし、建国当時、その「結合の仕方」で大激論があった。

 英国から大陸に渡った人々はそれぞれ大西洋側の土地に『自分たちの国家』を創設した。ある種、勝手に。したがって、実態は単なる『侵略』なのだが。

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 いわゆる東部13州(thirteen colonies)である。

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 イギリス本国から加えられる種々の圧力をはね返すには13州は結束する必要があった。

 だが、単一国家となることは「絶対イヤ!」という点では13の州の意見は一致していた。

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 しかし、条約結合では緩やか過ぎてイギリス本国と対抗できない。そこで連邦制という画期的な国家形態を発明した。

 今でこそ普通に米国の連邦制を、日本を含め世界各国が認識しているが当時はさぞ奇異であっただろう。なんせ主権がたくさんあるのだから。対外的には単一国家だが対内的には13の独立国家が存在するというのである。

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 米国型連邦制は、連邦構成国が自国の主権の一部を連邦に割譲して連邦政府を作り、各州に共通、共有すべき事項に関してだけ連邦に権限を与えるという仕組みである。

 共有すべき事項とは、大掴みに言えば、第一に、もちろん軍事。以下、度量衡、通貨、郵便、鉄道他(順不同)である。

たしかに、日本などとは全く異なる国家形態だ。

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 米国を旅した経験のある人は気付いていると思うが、DC以外の各州では今でも統治に関する建物は連邦のものより州のものの方が概して大きく立派である。

 この傾向は西へ行くにつれ大きいと言われている。それだけ州権主義が連邦権主義を凌駕している証だと言った人がいる。

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 そんなわけで米合衆国憲法も、13の国から割譲された主権の位置付けを明記することが優先されかつそれに留まった。

 ご承知の通り、米合衆国憲法の本文、いわゆるArticleで示される部分には、議会すなわち立法府、政府すなわち行政府、裁判所すなわち司法部、その他連邦予算や連邦と州及び州と州との関係他を規定する条文が並び、いわゆる日本国憲法にある「国民の権利及び義務」に相当する規定は無い。建国の過程を考えれば至極当然のことであろう。したがって、これまた至極当然のことながら、各州に住む個人の利益に関する権利事項は連邦憲法が関知することでは全くなかった。

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 その為、米連邦憲法(米合衆国憲法)が制定された後も当然に奴隷州と非奴隷州が存在し、今でも、死刑廃止州と死刑存置州があるのである。

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 米合衆国憲法が発効したのは1789年だがその翌々年の1791年には日本国憲法の31条から39条に相当する基本権規定(権利章典)が修正(Amendments)として成立している。ところが、そこに規定された多くの基本権が全米で等しく保障されるまでにはさらに半世紀以上の年月を要すのである。

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 南北戦争で南部が敗れ、ようやく1868年、米国憲法史上最大の修正となる第14修正が成立する。

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 このあたりの経緯をOs先生は熱く語った。

 演出ではない。

 米合衆国憲法を研究するものが米国の建国史を眺め、The Federalist Papers(1788)を読み、米合衆国憲法の制定及び発効に至る過程をつぶさに研究すれば熱く語るのもわかる。

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 だが、「修正第14」(Os先生はこう呼んだ。)の文言は驚くほど単純にして簡潔だ。

 「All persons born or naturalized in the United States, and subject to the jurisdiction thereof, are citizens of the United States and of the State wherein they reside.」(「合衆国内で生まれ、または合衆国に帰化し、かつ合衆国の管轄に服するすべての者は、合衆国の市民であり、かつその居住する州の市民である。」)という文字列で始まっている。

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 今でもこの一文を読むとシビレルというかゾクゾクするというか感動する。

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 教壇に立っていた頃、この一文を紹介した直後、受講者のほぼ全員がポカンとした顔をするのが愉快だった。

 それもそうだろう。

 「南北戦争が生んだ偉大な遺産」、「法による支配を不動の統治原理にした規定」、「法の適正手続を全米に広げた英知」とまで評される第14修正の冒頭がこれだからである。

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 「当たり前のことが書いてある。」というのがほぼ全員の印象なのである。そうなのである。この当たり前のことを憲法に書き、当たり前のことを憲法に書かなければならなかった米国の混沌とした当時の状況が興味を引く。また、同時に、法の世界の巧みさを感じるのではないだろうか。(つづく)

※「先生との出会い」はファンタジーです。実在する団体及び個人とは一切関係ありません。