九 学長との面談の後、しばらくして副学長から呼び出しがあった。その後も様々な文書を大学当局に送り、一段落したところであった。
副学長は、「お前も研究者としてこの世界で生きていきたいんだろ。家族も養わなきゃならん。だったらあまり騒ぐな。就職先は何とかするからおとなしくしろ。」
まるで脅しのようなことを言った。すでに発信すべきものはすべて発信した後のことだった。
ほどなくして再びあの副学長から呼び出しがあり、「お前、C-Choへ行かないか。」と言われた。
「『行かないか。』とは無礼な。」とは思いつつ、「C-Cho」と聞いて承諾した。敵は嫌がらせのつもりだったのだろう。自宅から160km以上離れているのだから。しかし、「C-Cho」と聞いた瞬間、「やったね!」と思った。詳しいことはまた後日。
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承諾すると、「じゃぁ今から会いに行く。」と言ってハイヤーを呼び都心へ向かった。何と言う公費の無駄遣いか。電車で行けば済むのに。
結局、この再任拒否事件は当局者にとっても青天の霹靂であったわけだ。
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以下合理的推論だ。
まず再任拒否の結果について最も深刻に驚嘆したのが執行部であった。何と言っても学内に二人しかいない法学専任教員が揃って拒否されたのだから。
一人は小物だが他の一人は学会の重鎮でもあり、万一訴訟でも起こされれば大学は絶対に負ける。
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しかも、拒否手続きについて学則が無い。手続きも明確になっていない。再任を拒否された者が不服を申し立てる仕組みも無い。告知聴聞を受ける権利の侵害と不当解雇は明らかだ。
この事実がマスコミに流れたら、今で言う説明責任をどれだけ果たしうるか極めて疑わしい。早期の解決が必至だったに違いない。
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ちなみに、それからずいぶん経った頃、この大学の節目の記念日があった。
なぜか私にも招待状が来たので出向いてみた。あのときの助教授さんたちのバツの悪そうな顔が愉快だった。そんな中、かの副学長と懇親会で遭遇した。声をかけようとしたが、彼は目をそらした。病気なのだろうか、顔が曲がって目が虚ろだった。
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退職してから数年後のことであった。
同じ専攻に属していた教員と新たな職場でたまたま会うことがあった。久しぶりなので近隣を案内した。海が見える場所へも連れて行った。
彼は雄大な景色を眺めながら、「Hさん、あのとき質問状(前掲1から6の文書のことらしい。)というか何かたくさん書いたでしょ。あれね、そのまま学則になりましたよ。」と。あまりにも意外な言葉に「えっ。」と聴き返すと、「学則になったんですよ。Hさんが作った文書がほぼそのまま。あの時は何も無かったんですよ。」と。
呆れてしまった。呆れると同時に「お人よしにもほどがあるね。」と自分に言いたくなった。あの時、不当な解雇だとして訴訟を起こし1から6の文書の提出を裁判で請求すれば被告である大学は出せなかったことになる。勝訴するのは私だった。
そもそも、1から6の文書があっても確実に勝訴する自信はあった。しかし、それすらなければ、そもそも応訴もできない。
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しかし、勝ってどうなる。
その程度でもある。
次に何が残る。
何も残らないだろう。
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同時に、妙な感じがした。
自分が作った文書が某大学の人事に関する学則になっているというのだ。
法学者としては愉快なことかもしれない。
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そんなことはどうでもいい。
それよりももっと愉快なことが有る。
こうして身近に雄大な海を眺め、若い人と科学を楽しみ、大好きな趣味に興じることができる。
この町は愉快だ。
この町には仲間がいる。一人や二人ではない。
街を歩けば、「よ~、センセ~!」と声をかけてくれる人がいる。
「ビ~」っと車の警音器がなるので音のする方を見ると窓から手を振りながら傍らを走り抜ける人がいた。
ラーメン屋に入れば「センセ~、元気かい。」と声をかけてくれる。
夜の街でさえ、「センセ~、この前、センセんとこの学生さんが『バイトしたい』って来たけど、ウチはあれじゃない、だから断っといたよ。」と分かるような分からないような分かる話をしてくれる。
また、帰途、高速バスに乗れば「お疲れさん。今日は遅いね。」と全く面識のなかった運転手さんが声をかけてくれた。
有り難い。
再任拒否がなかったらこの町に来ることはなかった。
幸せだった。
(終)