私が関心を持った故意の根拠条文は、日本の刑法典では第38条第1項である。
「罪を犯す意思がない行為は、罰しない。ただし、法律に特別の規定がある場合は、この限りでない。」
これが第38条第1項である。
刑法学では、この「罪を犯す意思」を故意と呼ぶ。したがって、日本の刑法典の条文に「故意」という文字は無い。
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と、昔、学生諸氏に年長者もいる大学で話したところ、突然手を挙げて発言した人がいた。
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「あります。故意という文字があります。」と。
私の「間違いを発見した」とばかりに意気揚々と発言した。
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そこで、「どこにありますか。」と問うと、「刑法第38条に故意という文字があります。」とその年配の学生は元気に答えた。
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少し意地悪だったかなぁ~、と今にして思うが、「38条の条文にありますか。」と問うてみた。
「あります。」と、再び元気だ。
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教室には100名を超える学生諸氏がいる。静まりかえり全員がこのやり取りに聞き耳を立てている。
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その学生が発言すると100名を超えるその学生諸氏の目がそちらに向きその後直ちに私に向く。テニスの試合のようだ。
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恥をかかせてもいけないと思い、「条文にですか。」と重ねて問うたのだが、「あります。」と元気に答えた。
致し方なく、「故意という文字は条文ではなく条文の見出しにあるのではないですか。」と、注意を喚起した。
「いえ、条文です。」と頑なだ。「条文ですか。」と言うと、静かだった教室内が一瞬ざわめいた。
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「ご質問下さりありがとうございました。皆様も覚えておくとよいので少し説明しましょう。法律が議会に提出されるとき、この見出しはありません。①とか②という文字が使われる『項』を示す数字もありません。38条の見出しには故意という文字がありますが、この部分は条文ではありません。よく覚えておいてくださいね。」
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一件落着。ただし、近時の国会提出法案には見出しがあるとか無いとか、耳にしたことがある。しかし、それでも見出しは条文ではない。
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ちなみに、刑法典の条文には無い「故意」という文字だが民法の条文にはある。
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本題に戻ろう。
わずか40字(ただし、句読点を除く)、本文だけならたった16文字(前同)のこの条文からなんと多くの論点が吹き出し、なんと多くの論文が著されたことか。それは日独ともに同じである。
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マックスウエーバーが「職業としての学問」(Wissenschaft als Beruf)の中で「学者の数だけ理論がある」という趣旨に読める記述をしているが、そうでなくてもこの領域の論文は多い。そして誤解も多い。
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さて、では、第38条第1項本文は何を言っているのだろうか。詳細はもとより割愛するが、同語反復になるが同項本文は「故意がない行為は罰しない」と言い切っている。
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講学上、これを「故意犯処罰の原則」と呼ぶ。これが原則ならばその原則について探求しましょう、ということで故意の部を読み込むことにした。
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なお、同項ただし書には「法律に特別の規定がある場合は、この限りでない。」と規定されている。これが過失犯処罰の根拠規定である。
法学では条文の「ただし書」は例外を示すものとなっている。例外を原則と同列に扱い体系的整合性を取ろうとする試みなぞ馬鹿げている。
そんなわけで、エンギッシュが「犯罪論の歴史は過失を故意と同列に扱うという誤りでその体系の混乱をもたらした」云々と言い切ったのは非常によく分かる、気がした。
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いやいや、しかし、故意に限定したとはいえこれが大変な作業となった。先生のご指導を仰げるゼミとは異なり自分の訳や理解が正しいのかどうか検証するすべがない。
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当時、この古典の日本語版は無かった。仮にあったとしても役には立たなかっただろう。なぜならば、翻訳版は翻訳した人の原著の読み方であって原著そのものではないからである。
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その一例を挙げてみよう。犯罪論の領域ではないが、ある有名な法哲学書の翻訳本を読んでいるとき、ある個所の「法」という訳に違和感が生じた。前後の脈絡から「法」という訳ではどうしても納まりが悪い。そこで、原典に当たってみた。すると「法」と訳されていた単語は「laws」であった。これは前後の脈絡から考えればどうしても「法律」と訳さなければならない。英米法の論文ではlaw、laws、the law、the lawsにはそれぞれ異なる内容が与えられている。これをすべて「法」や「法律」と訳したら内容が全く分からなくなる。
しかし、法と法律を同じものだと考える研究者はこの違いに注意を払わない。
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私が読むべき本はドイツ語で書かれている。だが、ドイツ語でも同じようなことが起きる。一例を挙げよう。EinheitとEinheitlichkeitだ。少しドイツ語を勉強した人なら先輩や先生から聞く話だが初学者には厄介な単語だ。Einheitの「heit」は名詞を抽象化する接尾語、Einheitlichkeitの「keit」も同じだ。そして、EinheitlichkeitはEinheitの形容詞形einheitlichに抽象名詞化接尾語のkeitが付けられたものだ。
学生諸氏の中にはここまで話した時点で「ワケワカンナ~イ」という人がいる。
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これを辞書で検索すると似たような訳語がぞろぞろ出て来る。こちらの方が「ワケワカンナ~イ」という気がする。だが、文の内容を考えるとEinheitもEinheitlichkeitも特定の意味に落ち着く。もっとも、ここまで来るにはずいぶん冷汗をかいたことを思い出す。
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そんなこんなで、エンギッシュの大著の故意の部だけを読み終わるのにまるまる一年くらいかかった。
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犯罪論における故意の位置付けや故意概念をめぐるおもしろい話はおいおい愚考卑見と恥をまじえて披瀝していきたい。
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一年くらいかかった大著との格闘の間も、もちろん、Si先生、Ka先生、At先生のゼミには休まず出席し続けた。
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しかし、その後、どうしても欠席しなければならないことになった。(つづく)
※「先生との出会い」はファンタジーです。実在する団体及び個人とは一切関係ありません。
なお、内容に鑑み、適宜このブログ内で愚考卑見を曝してまいりたく存じます。