初めて夏休みの宿題として読書感想文を書きました!(^^)
しかも、8月中に完成するなぞ奇跡的です。
しかし、やや愚痴化した文章になってしまいました。
時間泥棒になりますが、ご迷惑でなければご笑覧いただければ大変有り難く存じます。
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読書感想文にはおきまりの著書の概要紹介は割愛します。概要だけならいくらでもネット上で読めるので。
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数日前に一読完了しました。
一文一文、「その通り、その通り」と共感し、我が意を得た思いで読み進みました。しかし、第8章に入り途中から「木に竹」という印象を受けました。奥付で既発の論考を集めた御著書だと知り納得しました。国語力に論理的思考力が含まれるという記述を見て安心しました。
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読後、やはり国語力を奪った犯人は政府だと再度確信しました!(笑)。
生育環境が最も大きな原因だという印象を多くの読者は受けると思います。しかし、そうした生育環境を放置しているのが政府なのだと考える必要はないのでしょうか。
「女性(または男性)を家に縛り付ける最悪思想」だと批判されそうですが、両親が子供を家に残して外に出れば子供は孤立します。これは是非云々以前に絶対的真実です。しばしば、「子育てと仕事は両立可能だ」と言う人がいますが人は同じ時間に異なる場所に存在することは絶対にできないのですから両立は不可能です(異論もありそうですが。)。
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しかし、政府は「子育ての場」である家庭の代替物として保育環境を提供し「働く親を支援します。」と支持を取り付けています。
しかし、他人による保育環境は親と同じ程度に国語力を育むとは考えにくいと感じています。著者は「読み聞かせ」を例に上げていますが、それだけではないでしょう。ある時、突然生じる疑問を子供は近くにいる人に尋ねます。それに誰がどう答えるかという問は非常に重要です。複数の他人の子供を保育している現場では子供の問が生じた状況を遡って細かく確認することは容易ではないでしょう。しかし、子供にとって的確な答えはその問が生じた状況に沿ったものでなければ得られません。
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他方、本書では言及されていませんでしたが、本書が示す4つの能力を総合した国語力を養うためには行儀作法の躾が非常に重要になって来ると思います。人の行動は言葉に劣らないほど大きなメッセージを他者に発しますから。
しかし、行儀作法の核となる「我慢と辛抱」の習慣は、外部から理屈抜きで強制されないと身につきません。什の掟にある「ならぬことはならぬものです。」というのが躾の原点なのだと思います。しかし、保育の現場ではこれは非常に難しいと思います。他人ですから。
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かつて、ある調査で、「いわれのない我慢を強いられたことがありますか。」という問に、「ある」と答えた人は東京では下町に多く、強いた相手は母親だったというのがほとんどでした。他方、「ない」と答えた人は東京では山の手や、いわゆる「いいとこのお坊ちゃん(またはお嬢ちゃん)」に多かったそうです。
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これは象徴的なものだとは思いますが、絶対的な躾は人格の成長に不可欠だと愚考しております。これを他人が代行することは難しいと思います。ちなみに、近時、躾と称する虐待が耳目をひきますが、これは躾けられた経験の無い人による行為であることが多いようです。躾に暴力は不要です。
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このように家庭に常時、親の内の一人がいないと、少なくとも国語力は育たないと言ってよいでしょう。しかしそれでは「シングルファミリーでは国語力は育たないのか。」という異論が出て来るでしょう。
シングルファミリー(以下単に「シングル」。)はいま始まったことではなく愚輩が生まれる前の大昔からあった社会問題です。しかし、私が知る古い時代にはシングルを取り巻く環境が今とは違っていたと記憶しています。社会問題であるだけに解答も社会にあったようです。祖父母が代行したり、共同体が親代わりをしたりするなど非公式の仕組みが動いていたと認識しています。地方の小規模共同体にはこの仕組みが今でも残っています。
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しかし、昨今の都市部ではこの仕組みが動かずシングル父母自身が孤立する傾向が進んでいるようです。その理由を辿ると、再び政府の経済政策にたどり着いてしまいます。
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近年、政府は国民のご機嫌取りばかりで国民に我慢と辛抱を求める政策を採っていません。現在のコロナ政策をみれば一目瞭然です。
人が欲求に従って行動すれば衝突が起き軋轢が生じます。他方、互いに少しの我慢と少しの辛抱をすれば衝突を未然に防ぐことができます。この、「少しの我慢と少しの辛抱」を国民に求めることができるのは政府だけです。
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本書には共感できる指摘が随所にありますが、その不都合な原因を徹底的に考究して欲しかったと愚考しております。政府批判になりますので無理だとは思いますが。
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もっとも、虐待被害や少年の再社会化に言及があったことは嬉しいです。愚輩が属している複数の学会ではこの種の事案紹介が嫌というほど行われ、ときには涙し、ときには怒り、ときには気分が悪くなることさえありました。虐待の凄惨さは筆舌に尽くし難く社会が知るには重すぎる現実です。
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この問題に法律や犯罪対策や被害者支援の専門家でない人が言及してくださったことは大変有り難く感謝しています。ただ、少年院や少年刑務所を「負の行き場」と認識されているような表現があったことに些か違和感があります。少年院や少年刑務所は「負の行き場」ではございません。両者とも偶々間が悪く法律に触れる行為をしてしまった人が人生をリセットする場所です。昔、川越少年刑務所を参観したことがあったのですが、処遇域にある工場の様子は私が卒業した工業高校とそっくりでした。また、都内の某少年院を参観したときはドラマに出てくるようなハイソな名門中・高学校を想起させるような雰囲気でした。少年たちはノビノビと生活していました。もっとも、私達がみているときだけかもしれませんが。しかし、問題を起こす少年もいますが総じて落ち着いて生活ができているようです。なぜならば、いわれのない攻撃を受けないからです。もっとも、最近の事情はわかりませんが。
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ちなみに、皮肉なエピソードを一つ。私が都内の某少年院に参観に行ったとき職員が話してくれたものです。
某暴力団組長の息子(非組員)(以下「息子」)が少年院に来ました。職員ばかりでなく他の在院者もそれと知ってずいぶん緊張し警戒したそうです。しかし、暴力を振るう素振りは全く無く、粗野または乱暴な言動もなく、それどころかハキハキ、テキパキ日々の課業をこなし、ときには他の少年の手助けをしたり、揉め事があれば仲裁に入ったりと模範的行動を維持しました。先生の指示には絶対服従、他の少年を「○○君」と呼び、「僕は・・・」という具合に言葉も丁寧で大変立派な生活をつづけ、ついに模範生になりました。
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少年院にも刑務所と同じように処遇段階があり、改善がみられると上の段階(級)に上がります。この級が最高位に達し生活習慣の良好性が維持されていれば仮退院、つまり刑務所でいう仮釈放が認められます。
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この息子は、最短で少年院を駆け抜けたそうです。退院後、組員となり父親である組長の後継者となったそうです。彼らにとって少年院は長居するところではないのです。早く出られるためならば何でもするというスタンスだったのだろうとこの職員は話してくれました。これとは逆に、心に傷を負った純朴な少年は、心を閉ざしているので事ある毎に反発するので級が上がるのが遅く、仮退院も遅くなります。
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なお、本書に「女子少年院では少女のことも「少年」と呼ぶ)」という文字列がありましたが、少年法では規定上、少年について男女の区別を設けてはいません。男女とも「二十歳に満たない者」は少年です。社会では、「少年=男」、「少女=女」ですが、「少年」という文字自体から「男」を認識することはできません。したがって、男女を区別して表現するときは、「男子少年」、「女子少年」という表現をします。「少年=男」という認識は差別的ですね。少年法は男女平等です!(笑)「少女のことも「少年」と呼ぶ」のは女子少年院に限ったことではございません。念のため。
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さて、ゲーム依存についても政府の責任を痛感します。業界を規制できるのは政府だけですが巨大市場だけに、いわゆる「好循環」を維持するために規制する気が無いのでしょう。IRなんかもその延長線上に位置しますね。
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国語力の養成について、超優秀校の例が出たのには驚きました。しかし、そこで展開されている具体策は確かに効果的だと私も感じます。その内いくつかは愚輩も現役のとき大学生を相手にやっていましたから。
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しかし、愚輩は学生諸氏に種々の説明をする前に、最も重要なこととして、国語力、就中、文字表現力が弱いのは自己責任ではないという自覚を持っていただくことにしています。そして、文字表現力が弱い原因の一つとしてマークシート方式の試験を挙げてきました。この方式は採点の手間を省くものですから。割を食っているのは学生の方だということになります。もちろんこれだけが原因ではありませんが。
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愚輩は教壇に立ってから定年で退職するまで、講義では毎回レポートを提出していただいてきました。大学生とはいえご推察の通り文字表現力は高くはありません。かなり「大きな伸び代」があります。しかし、この大きな伸び代、言い換えれば弱さを「評価」するのではなく、その「原因を認識」してもらうことに注力しました。
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ところで、私達は文字表現方法を学校で習いましたでしょうか。愚輩には習った記憶が無いのです。もちろん、国語の時間に作文は書かされました。しかし、「書き方」は習いませんでした。
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小4の時、「どうやって書くんですか。」と質問したら「知らないんですか。自分で考えなさい。4年生にもなって作文の書き方も知らないなんて。思ったことや感じたことをそのまま自由に書けばいいのです。」と冷たく言われた記憶だけが残っています。思ったことや感じたことをそのまま自由に書ければ小説家だらけになってしまうでしょうね。(笑)
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脱線しました。
愚輩は大学生に「文章の書き方を習って来てはいないはずだ。」と言い、その書き方から説明していきました。これは単純な「技術」なのです。どんなに感性豊かな人でも感じたことを表現する「技術」が無ければ表現することはできません。
また、真っ白な状態から言葉を探して文章を作るなんてことは普通の人には到底できないことだと思います。いわんや、大学の科目レポートとなれば、いわゆる書式や様式に近いものがなければ無理です。もっと言えば、小中高生に作文を書いてもらうときは大学の科目レポート以上の難しさがあると思います。
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愚輩は法律の領域しか知りませんが、他の領域でも事情は同じではないかと考えています。そこで、始めは真似をすることから始めてもらいました。お稽古も真似することから始めて生涯、真似の連続ですよね!(笑)
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本書の著者が読書の重要性を強調していましたが、読書は「真似学習」の原点だと私は考えています。
超高級な私立学校へ行かなくても、超優秀な教員がいなくても、この真似学習ができれば文字表現力は養われます。愚輩が小学生の頃、大嫌いだったのが「全文書き取り」でした。いまは「書写」などというそうですね。先生にもご経験があるかと思います。教科書の一つの単元を全部ノートに書き写すのですね。当時は何のためにこんなことするんだろう、と不快の塊でした。
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しかし、長じて自分が原稿を書かなければならない事態に追い込まれたとき、「なるほどそうだったのか!」と驚嘆しました。そして、私が師と仰ぐ先生の論文を正確に書き写し、言葉の使い方やつながり、文章の立て方、全体の構成を徹底的に研究し、真似しました。
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ひとつの論文は一回の講義に相当する文字の量になっています。したがって、大学の講義時間に置き換えれば90分です。平均的な話し方の文字数は200字だということなので90分ならば18,000字です。この18,000の文字枠で一つの論点について論理的に文をつなぎ全体を構造物のように構築していくのですね。これに気付いたときは本当に感動しました。
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他方、学生諸氏や新卒採用公務員のレポートを読んでいるとその内容に論理性が無いものに行き当たります。また一文の中でも主語(部)と述語(部)に齟齬があるものがあります。そこで、大学では本人に対面で確認しました。すると結局、問題の所在も結論に至る思考過程も分かっていないことが分かります。これは非常に重要なことなのですね。「本人が分かっていないことが分かるということ」、これです。本人が、分かっていないことが分からないと、分かっているつもりで話し、分かっているつもりで文字化します。しかし、その内容は全くトンチンカンというか、何が言いたいか読み手には全く伝わらない場合がほとんどです。この点には自戒も込めています。(笑)
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「分かっていないことが分からない状態」に気付いてもらうためには指導者が適切かつ的確な言葉で導かなければなりません。そうでないと本人は反発します。分かっていると確信しているのですから。
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しかし、分かっていると確信していることについて、分かっていないことに気付いた学生は強いです。はじめのうち困惑し、私が質問しても異口同音に「何を言っていいか分からない。」と言います。これは非常に大きな成長なのですね。自分が発言しようとした言葉や文字が私の質問にあっていないことに薄々気づいているから何も言えない状態になります。
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そこで、私は「『○○○』と言いたいんだろ。」と言って上げると、「そうそう、そうなんですよ。」と学生は嬉しそうに答えます。
これが重要なのですネ!頭の中に浮かんだ考えを的確に表現する語彙が見つからないとき、間髪入れずその語彙を示してやる。そうするとハテナの穴にポコッとその適語がハマり忘れなくなる。これが非常に重要なのですね。幼少時の問答と全く同じです。
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この指導は難しいことではありません。多少なりとも専門領域について先行している人であれば誰でもできます。いわば「救援教育」です。これは小学校の教諭でもできることだと私は考えています。作文の時間に、「思ったことや感じたことをそのまま自由に書けばいいのです。」と冷たく言うのではなく、児童や生徒が何を感じ、何を考えているか、その頭の中を想像して的確に表現できる語彙を提供する。そうすれば必ず文字表現力は向上します。
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文字表現力が向上すれば論理的思考力も必ず向上します。人は文字で思考し、かつ文字が無ければ思考できません。したがって、論理的思考ができているか否かは表現された文字列で評価する以外に方法が無いと愚考しております。
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このようにして論理的思考や情景描写に優れた作者の論文や作品を通して訓練さえすれば文字表現力を通して国語力は確実に向上します。
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なお、この方法は私の創意工夫ではございません。仏教界や法の世界における「人の育成」で普通に行われているものです。極意は反復練習です。お寺で朝夕行われる勤行はその典型だと思います。合気道も同じですね。ところが、多くの人がこの反復練習を嫌うのですね。そこで、求められるのが反復練習を促し継続させる契機なのだと思います。私はこの契機は指導者の熱意だと考えています。指導者が児童や生徒及び学生に伝える内容について強い興味と感心があれば自ずと伝え方にも熱意がこもるはずです。
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しかし、ここに大きな問題があります。それはこういう熱意ある人材が教員集団の全員ではないということです。
著者が紹介している優秀校にはこうした人材が集まっているのだと思います。しかし、普通の学校ではそうは行かないのでしょう。しかし、どうでしょうか。愚輩はよく冗談半分で発言しますが、「小学校の先生の給料をいまの二倍にすれば小学校は変わる。」と。実際、小中高の児童生徒のほとんどは塾か予備校に通っています。そして、この塾や予備校の指導者はそれなりに高い給料で働いています。指導方法や指導体制も熟慮されています。その為、子供たちの学習の軸足が学校から塾や予備校に移ってしまい学校が形骸化してしまうのだと思います。そうなれば教員の熱意も冷めてしまうのでしょう。悪循環です。ここでも政府の不作為責任が問われなければならないと愚考しております。負の影響が出ていますから。
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今の普通の学校の教育が子供たちの国語力の向上に役立っていない原因がもう一つあるような気がします。それは学校教育の狙いというか目標というか、現状それ自体ですね。いかがでしょうか、愚輩は本書に出て来る課題集中校に近い工業高校にいたのでよく分かる気がするのですが、普通科高校のほとんどが官僚養成大学を頂点とするピラミッドを構成する予備学校のように見えて仕方がありません。そして政府は「有能な官僚」を探し出すために今の教育の仕組を構築しているようにしか見えません。
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頂点にある大学に入るために子供たちは競争を強いられているように見えます。もちろん、この競争に参加しないのも自由です。しかし、競争離脱は別の負の評価で終わりを告げられると言ってよいでしょう。いわゆる「負け組」なんですね。「負け」の程度には差がありますから、小さい負けならばそれなりの「勝ち組」でいられるのでしょうが、大きな負けならば人生が決まってしまいます。
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「日本は自由な国だ」と為政者や多くの国民が言いますが現実はどうなのでしょうか。愚輩には到底「自由な国」には見えません。生き方に選択の余地が少ない気がします。その一方で今のコロナ感染に象徴されるように他人の迷惑を真剣に考えずに「自由」に行動する人が激増するときがあるのですね。これは「裸の自由」であって歴史的に見れば本来の自由ではありません。
自由の模範国のような米国でも「裸の自由」は否定され、「秩序付けられた自由」(ordered liberty)という考え方が採られています。「秩序付けられた自由」が類型化されたものが権利ですが、権利についてはすでに米国の一部の高校の社会科の授業で教えられていると聞いています。ちなみに、同じく「自由」と訳されるfreeやfreedomはlibertyと異なり「生の自由」、つまり社会や国会を前提としない概念ですね。大学では、freedomとlibertyの関係をhumanとthe peopleの関係に置き換えて説明して来ました。この方が分かりやすいと思います。
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再び脱線しました。戻ります。
もちろん官僚養成大学をゴールとする競争から自分の意志で離脱し、自分の意志で進路を決める人もたくさんいます。しかし、この選択時に参照できる情報が少な過ぎるのが現状でしょう。「自分が何をやりたいか。」なんて、そうそう簡単には決められるものではないと思います。結局、限られた時間と条件の中で行われる進路相談で不整合が確認されないまま進路が決められてしまうのが現状ですね。残念です。
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この状況を打開するためには学校の歪んでしまった現状自体を元に戻すように仕向けなければならないのだと思います。そしてそれができるのは、やはり政府なのだと思います。
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人の論理的思考力と「人格自体を支える国語力」は工夫次第でいつでも体得できると私は確信しています。我田引水ですが、必ずしも優秀な大学とは言えないかつての私の職場で私の講義に出席してくれた学生諸氏は15回の講義を通じて文字表現力を鍛え大きく成長し、卒後、警視庁や陸自、空自の幹部候補生となり、あるいは宮城県警、長野県警、茨木県警に弊学卒第一期生として就職しました。
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このうち一人は、就職部が主催する在学生向けの就職説明会に卒業生として招かれ、なんと私の講義を推奨してくれたそうです。嬉しかったですねぇ~。でも、私の受講生はその後も増えることなく定年で退職しました。
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人は易きに流れるものです。しかも、私の講義の受講経験の無い先輩や教員までもがご丁寧に、「(私の講義は)きびしくて単位が取れないからやめた方が良い。」と新入生ガイダンスのときに紹介してくれるのでよほどのもの好きでない限り愚輩の講義は履修しません。
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しかし、その一方で、いわゆるマイナーな学生が履修してくれる傾向がありました。他の学生諸氏とのかかわりが煩わしいとか、「浮いている」学生が来てくれました。ほぼ1対1か1対2~3の講義でした。しかし、おかげでじっくり勉強できました。提出されたレポートにもしっかり朱を入れてすべて返却できました。
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いわゆる「暗い子」もいましたが待っていると回が進むにつれ自分から話をしてくれることもありました。そんなとき「なぜ私の講義を履修してくれたのですか。評判悪いでしょ。」と尋ねると、「他の授業はうるさくて落ち着かない。先生の声も聞こえないくらいうるさい。この科目は落ち着いて受けられる。」と感想を述べてくれました。
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「そういうことか。やはり私の講義の魅力ではないよなぁ~。」と少しがっかりしました。しかし、いずれにせよ、受講してくれるのは嬉しい限りでした。この学生も卒後、公務員になったと風の便りに聞きました。
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他方、私は開学後まもなく専門学部の学生を対象に「報告文作成」という、科目名からは中身が分からない科目を持つことになりました。しかし、期待されたのは論理的思考とその表現能力の向上でした。準必修扱いの科目でしたが、受講学生の士気は上がらず毎年ほぼ半分が不合格となりました。士気が上がらない理由は「なぜ理系学部で文系科目が準必修なのか。」という理由にならない理由でした。
愚輩がどれほど論理的思考とその表現能力の重要性を説いても聞く耳を持たない「優秀な学生」がたくさんいました。その多くは予想通り不可となりました。こうした学生諸氏は数式や化学式で全てが処理できると考えているようでした。
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ところが、笑えないエピソードが起きました。
模擬試験の後、学生と専門教員の会話を耳にする機会があったのですが、教員が「難しかったか。」と尋ねると、「○○番が全然わからなかった。」とその学生が答えました。教員がその問題の内容をその学生に説明すると、「なんだ、そんな問題だったのか。それなら簡単じゃん。」と残念がっていました。
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つまり、問題の指示文が読み切れていなかったのです。同学部は国試の合格率が上がらないことに苦慮していましたが、私が眺めるところやはり論理的思考力と、今度は文章読解力が弱いのだと感じました。
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愚輩が担当していた、「報告文作成」という科目は合格者が低迷していたので「報告文作成1」と「報告文作成2」という二つの科目に分けられ別の社会科学系の教員が後者を担当し、愚輩は前者を担当しました。予想通り前者の受講者は少数でした。しかし、おかげで充実した学習ができほぼ全員が現役で国試に合格し卒業して行きました。しかし、その後、「報告文作成1」は科目から消えました。
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長くなりました。申し訳ございません。
生まれて初めて夏休みの宿題の読書感想文を書きました。
結局、いつもの愚痴に近くなってしまいました。申し訳ございません。
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人は必ず、いつでも成長します。
上でご紹介した某大学の学生もほぼ全員第一回の講義レポートは惨憺たるものでした。しかし、書き方、つまり技術さえ伝えれば、そしてコツさえつかめれば立派なレポートをかけるようになります。愚輩の科目だけでなく他の科目のレポートでもその力を発揮していました。しかし、「報告文作成」で不可となった学生のように自分の弱点が分からないまま根拠の無い自信を持っていると結局夢を実現できないことになってしまうのですね。
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大学生になってからこれをするには相当強い覚悟と努力が要ります。だから幼少期から相応に小さな負担をかけながら鍛えて上げると国語力は成長するはずです。早い時期の文字学習が必須である所以だと思います。そのためには学校を学校に戻し、教員の職場環境を良好にしないと難しいのだと思います。
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長時間お付き合いくださりありがとうございました。
申し訳ございません、時間泥棒でした。
このあたりでやめておきます。
「おまえもこの本を読み切れていないじゃないか。分らないことが分かっていない。」と批判されそうなので二読目に入っています。相当大部なものでない限り通常3回は読むことにしています。
しかし、ほとんどの場合、一回目に受けた印象が正解のようです。
ありがとうございました。
どうかご無事にお過ごしくださいませ。
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(蛇足)
言葉には抽象性がつきものです。最近よく耳にする「関係性」という文字を著者は数か所で使っていますね。「関係性」は「関係」という概念を一段階、抽象化したものだと言ってよいと思いますが、著者が使っている脈絡には合わないような気がしました。いずれの箇所でも事実概念に近い「関係」の方が合っていると愚考しております。(了)