退屈男の愚痴三昧

愚考卑見をさらしてまいります。
ご笑覧あれば大変有り難く存じます。

先生との出会い(3)ーとんでもない宿題ー(愚か者の回想四)

2020年09月29日 23時28分43秒 | 日記

先生との出会い(3)ーとんでもない宿題ー(愚か者の回想四)

「先生との出会い」はファンタジーです。実在する団体及び個人とは一切関係ありません。

 とんでもない宿題の正体。今でも忘れない。赤い表紙に「40日間ドリル」と書かれた分厚い問題集。

 算数、国語、理科、社会。去年までの夏休みの宿題帳とは全く違う。見た瞬間、やる気が失せた。夏休みが大嫌いになった。

 時間を持て余している夏休みなのだから、やればいいものを私はやらなかった。こうなると毎年長過ぎると感じていた夏休みもどんどん過ぎついに8月末日を迎えた。

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 「40日間ドリル」は失くしたことにした。両親にも見つからないよう問題集を押入れの奥深くしまい込んだ。昔、兄は夏休みの宿題を捨てた。しかし、捨てればすぐにばれる。だから隠した。

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 新学期が始まり、他の児童は全員このドリルを提出した。出さなかったのは私一人だった。

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 二学期の授業はこのドリルの問題の答え合わせで始まった。私は失くしたのだから持っていない。答え合わせは座席順に答えを言って行くやり方で進んだ。私の順番は何度も何度も回ってきた。その都度「失くしました。」と言った。

 その内、クラスの空気が変わってきたことに気付いた。答え合わせが進むのがやけに早い。一回の授業時間で何回私へ回すか。クラスの連中が楽しんでいた。担任のYN先生は私に順番が回って来る度に「何で失くすんだろうね。」と吐き捨てるように言い、そのたびにクラス全員が私に視線を向けるのが分かった。

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 誰かを恨む筋ではない。自分が選んだ結果だ。だから気にもならなかった。恥かしいとも思わなかった。それがどんな結果を生むかという事も全く考えてはいなかった。

 しかし、YN先生の私に対する態度がこのとき変わった。学年が上がると児童もなかなか手を挙げることはしなくなる。その為、手を挙げなくても先生が児童を指名することが多くなった。だが、幸か不幸か、卒業するまで私は指されることはなかった。

 私は学校が大嫌いになり心のシャッターを閉めた。授業中は通学路にある工場の煙突から出る黄色い煙をいつも眺めていた。その先にいつでも帰れるボロアパートがあったからだ。

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 二学期の父兄会の日、児童は午前中で帰され保護者が教室に集められた。母も、私と入れ替わりに学校へ行った。

 しばらくは帰ってこないかなとランドセルの中身の整理や翌日の時間割を揃えていると母が帰ってきた。

 何と言う早さだ。「どうしたの。」と尋ねると「終わったの。」とさばさばと言った。「早いね。」と言うと、「Yちゃん(私)、夏休みの宿題、失くしたの。」と訊かれた。まずい、叱られる、と思った。だが、ばれちゃぁ、しょうがない。「うん、失くした。あるけど。」と答えた。「あっ、そう。」母はそれ以上何も言わなかった。

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 しばらくしてこのときのことを訊いてみた。「H君だけですよ、宿題を失くしたのは。」と、それだけ言って母の面談は終わったそうだ。あっと言う間に帰って来たのはそのためだった。早く帰って来られてよかったとも言っていた。このときも、「何で『失くした』なんて言ったの。」と問い詰められることはなかった。

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 子の親となって久しいが、母の偉大さを感じる。なぜ私に問いたださなかったのか。理由が分からない。想像もつかない。自分で考えるよう誘ったのだろうか。あの宿題を馬鹿げたものだと考えていたのだろうか。今でもはっきりしたことは分からない。昨今の、子供を学校や保育園や学童保育に預けっぱなしの親は自分の子供が「宿題を捨てた。」と言ったらどうするだろうか。

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 もっとも、あの宿題は「お受験」志向の親がYN先生にせがんで出してもらったものだった。母はそれを知っていたのかもしれない。

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 ちなみに、YN先生はなぜ二学期の授業のとき、「失くした」と言ったH君に新たに「40日間ドリル」を渡し、やってくるよう指導しなかったのだろうか。

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 もう一つ。なぜか児童たちがこのドリルの答えを持っていたのだが、なぜこのことにYN先生は気付かなかったのだろうか。

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 私はYN先生に嫌われていたのかもしれない。他の児童からも嫌われていたのかもしれない。そう思わせる出来事がいくつかあった。

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 6年生の時だった。隣の席の例の優等生Uが私の消しゴムを当たり前のように使っていた。私が使ってUの手が届かないところに置くと「消しゴムとって。」と図々しく要求するのである。断ると、大きく腕を伸ばして私の消しゴムを取ろうとする。これを阻止すると、Uは何と手を挙げた。挙手と相前後してYN先生が、「そこ、何してんの。」と私を見た。Uではない。

 手を挙げたUには、「なに。」と優しい声をかけた。事もあろうに優等生Uは「H君が消しゴムを貸してくれないんです。」と言った。

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 「当たり前だろう。1年生の時、『鉛筆、消しゴム、下敷き、教科書、ノート。忘れ物をしないように。』と先生に言われただろう。4年になっても、5年生になっても、そして昨日だって忘れ物をしないよう言われたじゃないか。消しゴムを持っていないのはお前が忘れたからではないか。」と私は腹の中で怒鳴った。

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 「H君、意地悪しないで貸してあげなさい。」

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 えっ。

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 何と言うことだ。YN先生はUが消しゴムを持っていないことを注意するのではなく、私に「意地悪をするな」と言った。何がどうなっているのか全く分からなくなった。

 先生の指導に従って消しゴムを持って来ている自分が、消しゴムを忘れて来た優等生の身勝手なふるまいで意地悪者にされてしまった。学校が大嫌いになった。

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 この事件は法学の講義でjustice(≒正義)について説明するとき、例として長年用いて来た。

 Hは先生の指示に従って正直に消しゴムを持って来ている。これに対してUは、故意か過失かは分からないが、指示に反して消しゴムを持って来ていなかった。指導されるべきはUであってHではない。この状況でHに「意地悪しないで貸してあげなさい。」と指導するのは間違っている。今はもうこういう教員はいないと思うが、これが問題とならない、のどかな時代だったのだろう。なお、Uには、いわゆるfree rider(ただ乗り)の問題も生じているのである。

(つづく)

 


先生との出会い(2)(愚か者の回想四)

2020年09月29日 20時12分22秒 | 日記

先生との出会い(2)(愚か者の回想四)

「先生との出会い」はファンタジーです。実在する団体及び個人とは一切関係ありません。

 3年生まで毎年かわっていた担任が4年生でもかわった。だが、その担任は6年生までかわらなかった。

 相性というやつか。合わなかった。それでも学校生活は普通だった。急変したのは国語の授業の時だった。

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 いつものように漢字の意味を問われたので手を挙げた。「はい、H君(私)。」と指名された。立って答えた。正解であるはずなのに、「あてずっぽうで答えてもダメ。」と冷たく言われた。だが、その意味が分からなかった。

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 手を挙げていた別の子(U)が私と同じ答えをした。これが正解だとして授業は先に進んだ。Uは優等生。学級委員。児童の皆が知る先生のお気に入りだった。

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 Uはノートに何かたくさん書いてあった。私はと言えば、ノートなぞ開いてもいない。ノートは先生が黒板に書いたことを書き写すものだとばかり思っていた。黒板に何も書いていないときはノートも開いてはいなかった。

 このとき「何かが変わったな」と感じた。しかし、その何かが何か分からなかった。

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 そのまま普通の日が流れ夏休みが近づいてきた。私は夏休みが嫌いだった。

 休み明け、友達の多くは日焼けした肌の色を競っていた。田舎に遊びに行った話もしていた。

 私は海には行っていない。日焼けもしてはいなかった。休み中、外で遊ぶことはあったが日焼けした肌を競うほど黒くはなっていなかった。

 田舎にも行かなかった。そもそも、皆が言う田舎が無かった。両親はいずれも東京の生まれなのだ。「田舎を買ってほしい」と母に言ったらしい。皆が言う田舎にはおじいちゃんやおばあちゃんがいる。それを言うと、歩いて30分ほどの母の実家に連れていかれた。「みんな田舎に泊まるらしいよ。」と言うと「じゃあ、今日はおばあちゃん家(ち)に泊まってく。」と母。「やっぱり帰る。」ということになる。

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 子供の頃、家族旅行というものをしたことが無かった。遊園地へも行ったことが無い。

 「遊園地へ行きたい。」と言うと母はデパートへ連れて行ってくれた。屋上にそれらしい遊具があった。

 「みんなで海へ行きたいな。」と言うと、「お父さんは自衛隊だからダメ。」と言われた。今にして思えばダメの理由が理由になっていないが私はそれ以上海へ行きたいとは言えなかった。

 少し大きくなってから再度、「みんなで海へ行きたいな。」と言うと、再度「お父さんは自衛隊だからダメ。」と言われた。

 今度は少し食い下がってみた。「何で自衛隊だと海へ行かれないの。」と訊いた。話そうとする母をさえぎって父が言った。「24時間勤務だからダメだ。俺が働いているからお前らは飯が食えるんだ。我慢しろ。」と。反論できなかった。

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 当時、父は陸上自衛隊の一曹であった。高い地位ではない。学歴の無い父は退職間近までこの階級にあった。しかし、私は父を偉い人だと思っていた。

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 「コンバット」というテレビ番組があった。海外の戦争映画である。主役はサンダース軍曹。冷静で厳しく、戦闘でも動じない。上官と意見が対立してもサンダース軍曹が押し切る。結果として味方が勝利する。かっこよかった。軍曹というのは自衛隊の階級に置き換えると一曹である。父は偉いと思っていた。

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 いわゆるレンジャー部隊にもいたらしい。北富士演習場というところで訓練をしていた。軍人上がりの父は上官よりも部下の信任が厚く、演習から帰ってくると普段は無口な父があれこれ自慢げに話してくれた。真偽のほどは分からないが蛇を食ったとも言っていた。「若い連中は食えないんだなぁ~。戦地ではよく食ったものだ。」というのだ。写真付きで食い方を披露されると信じざるを得なかった。口癖のように「まだまだ。若い奴らには負けない。」と言っていた。

 実際、あの頃の父に若い自衛官は勝てなかったと思う。戦闘機乗りとして死線をさまよい、一度は死を覚悟した父は自衛官ではなく軍人だった。

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 台風が来ると父は決まって家にいなかった。災害派遣である。そして、父が帰ってくると台風は収まって来る。今思えば台風の危険が小さくなったので待機命令が解除され帰宅を許されただけのハズだが、私は父が帰宅すれば台風が去ると信じていた。それだけ父は大きな存在だった。ちなみに、衛生隊にいた父は1964年(昭和39年)の新潟地震で災害派遣に加わり感染症の発生を防いだとして表彰された。

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 こんなこともあったので家族旅行には行かれないのだと納得していた。しかし、何もやることが無い夏休みは辛かった。もちろん宿題はやった。宿題と言っても「夏休みの日記帳」という数科目が一冊になっている絵本のようなものなので、一日分は30分もあれば終わってしまった。

 「夏休みこども映画劇場」というテレビ番組をみる毎日であった。怪獣マリンコングや少年忍者風のふじ丸、とか言う番組をやっていた。少年ジェットやナショナルキッド、8823海底人、白馬童子、七色仮面もこの時期だったと思う。少し記憶が混乱している。

 「つまんないなぁ~。」がこの頃の私の口癖だった。

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 ところが、4年生の夏休み、とんでもない宿題が出た。

(つづく)


先生との出会い(1)(愚か者の回想四)

2020年09月22日 22時57分16秒 | 日記

先生との出会い(1)(愚か者の回想四)

「先生との出会い」はファンタジーです。実在する団体及び個人とは一切関係ありません。

 「再任拒否」、「辞表を持って来い」、「すまなかった」これらのファンタジーは全てパワハラと呼ばれる状態だった。結局はイジメである。

 思い起こせばいじめられるのは小学生の頃、中学生の頃、そして高校生の頃も同じだった。

 それにもかかわらず、悲劇的な事態にも至らず十人並みに人生を送ってこられたのは家庭、とりわけ母の存在と良き先生との出会いがあったからだと思う。

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 大正元年生まれの母は震災と戦災を生き抜いた強い人だった。戦時中は代用教員として疎開先の学童達の指導にもあたっていたという。

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 子供の頃、母の話を聴くのが好きだった。武勇伝なぞは無い。だが大正から昭和にかけて時代が大きく動く中、逞しく生きた人の話には重みがあった。もっとたくさん聴いておけばよかったと後悔している。

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 祖父(「おじいちゃん」)の話をよくしてくれた。長野県に生まれ40歳まで無職であったがその後40歳で東京に出て乾海苔を商い成功し財を築いた。切れ者だったそうだ。昭和16年、開戦の時、「この戦争はしてはいけない。負ける。これからは苦労するぞ。」と家族に告げていたという。

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 おじいちゃんは大器であった。戦災の時、空襲警報が鳴り避難命令が出ると多くの商店が店を閉め施錠して非難するのに、おじいちゃんは店を開けたまま非難したそうだ。

 警報が収まり避難命令が解除されて店に戻ると土間一面に紙幣やら小銭が散乱していたという。

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 皆、着の身着のまま非難する。しかし、食い物は無い。「〇〇乾海苔商店」の看板があれば人は海苔でもいいから口に入るものを求める。店にはもちろん人はいない。こころある人は金を代金として投げ入れていった。

 もちろん、無くなった品物と金の額が合うはずはない。しかし、店を閉じて逃げた食料品店は戸が壊され物が無くなっていたという。

 「こういう非常時に儲けようとしてはダメだ。」これがおじいちゃんの心構えだった。

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 おじいちゃんは「三番」と呼ばれていた。この当時も商人同士は互いを屋号で呼んでいた。しかし、「三番」という屋号は腑に落ちない。

 あのような商売をするだけあって、おじいちゃんは乾海苔商組合でも人望が厚く長いあいだ副会長をしていたという。組合にはお頭(つむ)の薄い重鎮がいた。最も薄いのが会長。おじいちゃんは三番の薄さだったそうだ。

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 乾海苔を商っている関係で寿司屋とのつながりもあった。毎年、新年会では必ず寿司折りを土産に持って帰ってきた。幼い母はこれがいつも楽しみだった。「寿司は『すしA』だ。あそこ以外はダメだ。」とつながりのある寿司屋の名をあげ自慢したという。

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 我が家は貧乏であった。自衛官の父の給料は安い。それでも幼い私は寿司を食いたいと母にせがむことがあった。その都度母は、「このあたりのお寿司屋さんのお寿司はダメ。若いうちは本物の味を知らなければダメ。いつか必ず『すしA』のお寿司を食べさせてあげるから我慢しなさい。」と言っていた。「若いうち」もへったくれも無い、私はまだガキだ。

 寿司を食えるだけの金が無いだけなのだが、母はこのように言って私を納得させていた。ちなみに、このときの記憶が大人になって思いがけない縁を結ぶのだがそれはまた別の機会にお話ししたい。 

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 正月になると毎年新品の服を着た。新年には新調した服を着るのが母方の習わしだった。そのこともあり私は子供の頃、我が家が貧乏だとは全く思わなかった。四畳半一間のアパートに四人が暮らす家族が裕福なはずはないのだが。

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 母はいつも家にいた。私が身体の具合が悪く急に早退したときも母は必ず家にいた。今どきのように学校から自宅に連絡ができる環境は無かった。電話も共用電話が一本アパートの廊下に置いてあったが我が家は参加していなかったので外から連絡を取ることはできなかった。だから突然帰ることが何度もあった。しかし、いなかったことは一度もなかった。

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 私は身体が弱かった。よく風邪をひいた。物心つく頃には自分が小児ぜんそくという病気であることを知った。当時、ぜんそくという言葉は多くの人が知るものではなかった。

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 風邪をひくと学校を休んだ。布団の中で縮こまりながら母の話を聴いた。大震災の時は、屋根の瓦が全部落ちたがケガ人は無くおじいちゃんと長男(母の兄)が商店街の復興に大活躍した話。東京大空襲の時、長女(母の姉)が一面火の海の中、小学校の屋上に上がり子供三人全員を守ったこと。そして、それまで不仲だった長女をこのとき初めておじいちゃんが「金鵄勲章(キンシクンショウ)ものだ。」と褒めたこと。ゼイゼイしながらも母の話をゆっくり聴いていられるのが嬉しかった。

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 父は軍人だった。特攻隊の生き残りだと言っていた。終戦の年、大陸で撃墜され九死に一生を得た。ジャングルを彷徨ったとも言っていた。

 ケガが全治したとき「一度死んだ身だ」と特攻隊に志願した。

 戦況は悪化していた。内地に戻り、知覧へ配属となった。戦友を送る日が続いたという。明日が自分の出撃の日だと聞かされた日の朝、正午に重大発表があると上官に言われ営舎に集合した。外地には終戦を知らずに命を落とした兵隊もいた。だが、父は命を拾った。一日違いで私はこの世にはいなかったことになる。

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 開戦当時、志願兵だった父は大活躍したらしい。10人兄弟の末っ子として生まれたこともあり親との縁は薄かった。

 16歳になるとすぐ志願し航空隊に入った。母には「10数機を撃墜したことがある。」と自慢話をしていたらしい。

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 生まれは東京だが知縁をたどって知覧から鎌倉に戻った。詳しいことは話さなかったが鎌倉では木材の切り出し現場で監督をしていたらしい。母と知り合ったのも鎌倉だったという。気性の荒い人で短気を起こすと七輪の鍋を蹴とばした。夕飯の粥が消えた。

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 短気が元で仕事場でも揉めることが多かった。そんなとき警察予備隊が創設され隊員募集の広告が新聞に載った。これを見つけた母は迷わず父に勧めた。これしかないと思ったそうだ。父にとっても天職だったに違いない。

 しかし、戦時下の軍隊とは異なり、学歴が無かった父にとって楽な職場ではなかったようだ。何度もやめようとしたらしい。だが母が引き留めた。一回り年上の母を自分の母親に重ねたのかもしれない。母には逆らわなかった。

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 昭和24年1月、長男が誕生した。第一子が生後間もなく他界したので長男はことのほか大切に育てられた。大切に育てられると同時に、男子であることから父が厳しくしつけた。今どきであれば虐待だとして通報されそうなこともあった。

 短気な父は、とりわけ兄の態度に異常に反応し手を上げた。しかし、長じて知ることとなるが、父は母から「私に手を上げたらすぐに離婚します。」と結婚するときに宣言されていた。その為、母の身代わりに兄が殴られたときもあったらしい。

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 昭和28年10月、私が誕生した。誕生したその日に「この子は私が育てます。」と母は父に宣言した。4才になっていた兄にはすでに少し変化が起きていた。暴力は人を育てなかった。

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 昭和35年4月、私は小学校に入学した。母は勉強しろとは言わなかった。しかし、宿題が出れば全部やった。成績は5段階評価で常にオール3だった。母は「3は普通だから十分だ。あなたは優秀だ。」と褒めてくれた。普通で優秀というのも今考えれば変な話だが、当時は「優秀」というところだけが頭に残り、自分は優秀なんだと勘違いして生きていた。

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 この調子で3年間が過ぎた。学校で習うことはすべて知っていた。とりわけ国語と社会の授業では「分かる人」という先生の声にいつも真っ先に手を挙げて答えていた。

 国語では教科書に出て来る漢字や表現の意味を先生が問いかけるが、誰も手を挙げないときも手をあげ答えていた。社会では当時の首相及び閣僚の名前をすべて覚えていて教室で諳んじて見せたこともあった。

 父兄会で「何か特別な学習をしていますか。」と担任から母が尋ねられたこともあったそうだ。いろいろなことを知っていた理由には思い当たるところが無い。だが、ひょっとするといつも楽しく聴いていた母の話から知識を得ていたのかもしれない。

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 事態が急変したのは4年生になってからだった。

(つづく)


消費税の税率引き上げですか?!

2020年09月12日 13時26分37秒 | 日記

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200911/k10012612091000.html?fbclid=IwAR2ktSLiR6QvDaRshzeHjDqYdq1616WvnEFhwa46C5f3bst7WnlnmZSqnBw

NHK「菅官房長官 “消費税率 将来的には引き上げざるをえない”」(2020年9月11日 1時21分)

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 一般論だが、消費税は政府にとって依存性の強い薬物に似ている。一度これに頼ると抜けられなくなる。

 なぜならば、新たな税を創設するとなると野党との論戦や駆け引きを避けて通ることができないが、消費税の場合、税率の引き上げなのでもっともらしい理由さえ見つかれば引き上げは容易だ。

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 消費税の税率引き上げが視野に入っているということは有効な経済政策が無いということだ。

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 しかし、消費税の税率引き上げをやると実質的に可処分所得が減り、とりわけ150兆円とも言われた高齢者のタンス貯金が消費に回る機会がますます失われることになる。

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 一時期、被害額が一日1億円にまで達した特殊詐欺だが、見方を変えればあれだけの現金を動かせる階層がいるということだ。国家予算に比すれば額は極めて小さいが一日1億円の消費があれば潤う人もいる。

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 消費を促す政策を打たなければ経済は回復しない。

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 もっとも、間接税たる消費税には「金を使える人から税を取る」という意味で一定の合理性はある。

 しかし、直接税たる所得税の税率が高いままで消費税の税率が上がれば消費は冷える。

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 そうではなく、富裕層の可処分財産を放出させる昔の物品税を復活させるべきだ。

 もう十分物品税を廃止した効果、というか「甘い汁」は一部業界が吸い尽くしたのではないか。

 ラーメン一杯と高級車一台の税率が同じということ自体合理性に欠ける。そもそも担税力が違う人を同じに扱うのはjusticeに反する。そろそろ元に戻しませんか。

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郵便受けにシールが貼られていた・・・。

2020年09月12日 13時18分35秒 | 日記
 
 郵便受けにシールが貼られていたりマークが付けられていたという情報がこの時期特に多く耳に入ってきます。とりわけ、一戸建て住宅街では被害に遭う前に数回は「下見」があるので見かけない車両には注意が必要ですね。自転車も!
 こうしたマークは外壁他に付けられる場合もあります。これらは組織的な侵入盗犯の徘徊が疑われます。
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 愚輩も地元の防犯パトロールにお邪魔していますが、一目で「この家は危ないな」と感じるものがあります。とりわけ、隣同士に高い塀があったり、植栽が越境しないように極端に「きれいに」(?)刈り込まれているところは危ないですね。となり同士の交流が薄いことが強く推測されるからです。
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 また、夜間、道路に面した窓が開いていたり、窓に施錠をしていない家では他の窓も空いていると思われますので狙われやすと愚考しております。道路に面した窓は閉めた方が良いですね。
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 防犯は町ぐるみで取り組まないと難しいです。一軒でも弱いところがあるとそこが被害に遭い、そして「次に弱い家」が狙われる危険がありますからね。怖い!
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 皆さま、ご注意くださいねぇ~!