退屈男の愚痴三昧

愚考卑見をさらしてまいります。
ご笑覧あれば大変有り難く存じます。

先生との出会い(38)― law、laws、the law、the laws  ―(愚か者の回想四)

2021年03月21日 13時23分16秒 | 日記

 私が関心を持った故意の根拠条文は、日本の刑法典では第38条第1項である。

 「罪を犯す意思がない行為は、罰しない。ただし、法律に特別の規定がある場合は、この限りでない。」

 これが第38条第1項である。

 刑法学では、この「罪を犯す意思」を故意と呼ぶ。したがって、日本の刑法典の条文に「故意」という文字は無い。

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 と、昔、学生諸氏に年長者もいる大学で話したところ、突然手を挙げて発言した人がいた。

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 「あります。故意という文字があります。」と。

 私の「間違いを発見した」とばかりに意気揚々と発言した。

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 そこで、「どこにありますか。」と問うと、「刑法第38条に故意という文字があります。」とその年配の学生は元気に答えた。

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 少し意地悪だったかなぁ~、と今にして思うが、「38条の条文にありますか。」と問うてみた。

 「あります。」と、再び元気だ。

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 教室には100名を超える学生諸氏がいる。静まりかえり全員がこのやり取りに聞き耳を立てている。

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 その学生が発言すると100名を超えるその学生諸氏の目がそちらに向きその後直ちに私に向く。テニスの試合のようだ。

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 恥をかかせてもいけないと思い、「条文にですか。」と重ねて問うたのだが、「あります。」と元気に答えた。

 致し方なく、「故意という文字は条文ではなく条文の見出しにあるのではないですか。」と、注意を喚起した。

 「いえ、条文です。」と頑なだ。「条文ですか。」と言うと、静かだった教室内が一瞬ざわめいた。

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 「ご質問下さりありがとうございました。皆様も覚えておくとよいので少し説明しましょう。法律が議会に提出されるとき、この見出しはありません。①とか②という文字が使われる『項』を示す数字もありません。38条の見出しには故意という文字がありますが、この部分は条文ではありません。よく覚えておいてくださいね。」

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 一件落着。ただし、近時の国会提出法案には見出しがあるとか無いとか、耳にしたことがある。しかし、それでも見出しは条文ではない。

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 ちなみに、刑法典の条文には無い「故意」という文字だが民法の条文にはある。

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 本題に戻ろう。

 わずか40字(ただし、句読点を除く)、本文だけならたった16文字(前同)のこの条文からなんと多くの論点が吹き出し、なんと多くの論文が著されたことか。それは日独ともに同じである。

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 マックスウエーバーが「職業としての学問」(Wissenschaft als Beruf)の中で「学者の数だけ理論がある」という趣旨に読める記述をしているが、そうでなくてもこの領域の論文は多い。そして誤解も多い。

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 さて、では、第38条第1項本文は何を言っているのだろうか。詳細はもとより割愛するが、同語反復になるが同項本文は「故意がない行為は罰しない」と言い切っている。

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 講学上、これを「故意犯処罰の原則」と呼ぶ。これが原則ならばその原則について探求しましょう、ということで故意の部を読み込むことにした。

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 なお、同項ただし書には「法律に特別の規定がある場合は、この限りでない。」と規定されている。これが過失犯処罰の根拠規定である。

 法学では条文の「ただし書」は例外を示すものとなっている。例外を原則と同列に扱い体系的整合性を取ろうとする試みなぞ馬鹿げている。

 そんなわけで、エンギッシュが「犯罪論の歴史は過失を故意と同列に扱うという誤りでその体系の混乱をもたらした」云々と言い切ったのは非常によく分かる、気がした。

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 いやいや、しかし、故意に限定したとはいえこれが大変な作業となった。先生のご指導を仰げるゼミとは異なり自分の訳や理解が正しいのかどうか検証するすべがない。

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 当時、この古典の日本語版は無かった。仮にあったとしても役には立たなかっただろう。なぜならば、翻訳版は翻訳した人の原著の読み方であって原著そのものではないからである。

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 その一例を挙げてみよう。犯罪論の領域ではないが、ある有名な法哲学書の翻訳本を読んでいるとき、ある個所の「法」という訳に違和感が生じた。前後の脈絡から「法」という訳ではどうしても納まりが悪い。そこで、原典に当たってみた。すると「法」と訳されていた単語は「laws」であった。これは前後の脈絡から考えればどうしても「法律」と訳さなければならない。英米法の論文ではlaw、laws、the law、the lawsにはそれぞれ異なる内容が与えられている。これをすべて「法」や「法律」と訳したら内容が全く分からなくなる。

 しかし、法と法律を同じものだと考える研究者はこの違いに注意を払わない。

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 私が読むべき本はドイツ語で書かれている。だが、ドイツ語でも同じようなことが起きる。一例を挙げよう。EinheitとEinheitlichkeitだ。少しドイツ語を勉強した人なら先輩や先生から聞く話だが初学者には厄介な単語だ。Einheitの「heit」は名詞を抽象化する接尾語、Einheitlichkeitの「keit」も同じだ。そして、EinheitlichkeitはEinheitの形容詞形einheitlichに抽象名詞化接尾語のkeitが付けられたものだ。

 学生諸氏の中にはここまで話した時点で「ワケワカンナ~イ」という人がいる。

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 これを辞書で検索すると似たような訳語がぞろぞろ出て来る。こちらの方が「ワケワカンナ~イ」という気がする。だが、文の内容を考えるとEinheitもEinheitlichkeitも特定の意味に落ち着く。もっとも、ここまで来るにはずいぶん冷汗をかいたことを思い出す。

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 そんなこんなで、エンギッシュの大著の故意の部だけを読み終わるのにまるまる一年くらいかかった。

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 犯罪論における故意の位置付けや故意概念をめぐるおもしろい話はおいおい愚考卑見と恥をまじえて披瀝していきたい。

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 一年くらいかかった大著との格闘の間も、もちろん、Si先生、Ka先生、At先生のゼミには休まず出席し続けた。

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 しかし、その後、どうしても欠席しなければならないことになった。(つづく)

※「先生との出会い」はファンタジーです。実在する団体及び個人とは一切関係ありません。


先生との出会い(37)―さあ、修論だ!―(愚か者の回想四)

2021年03月10日 17時51分17秒 | 日記

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 前期課程の二年生は修士論文に着手する。

 修論は、修士課程の成果をまとめるものである。

 だが、後期課程に進むものにとって修論は後期の入学試験の一部となる。

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 「私は修論としてまとめられるものを何か持っているのか。」自問した。

 ゼミでは先生が準備してくれた教材に取り組んで来ただけだ。それを勉強というのだろうか。内容は難しく、量も多かった。だが、「先生が準備した教材に取り組む」という点では小学生の宿題と変わらない。

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 本当の勉強をするならば行かれるところまでは行かなければならないと考えた。

 ただそれだけの理由で後期課程に進むことにした。

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 その為には修論だ。テーマは降ってくるものではない。自分が探すのだ。

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 修士二年生のときに取り組んだものは到底修士論文と呼べるものではなかった。

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 指導教授のSi先生は、「しっかりとしたものを読め。」、「厚い本を読め。」、「枝葉末節の問題を扱うな。」と仰った。

 奇を衒って、刑法の些末に及ぶ論点や、ほとんどの研究者が目にも留めない論点を扱うのではなく、法学の基礎、刑事法学の基礎、刑法の基礎につながる大きなテーマを選べということだ。いわば正面突破だ。

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 前期課程には4年生までいられる。そこで、この時間をいっぱいに使い、現在の犯罪論の基礎を提供した古典を読むことにした。

 これとても、「自分からする勉強」ということにはほど遠かった。

 だが、他にやるべきものを見つけることができなかった。

 しかし、その後、時がたつに連れ分かってくるのだが、この選択は正しかった。

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 ドイツの高名な刑法学者エンギッシュ(Karl Engisch)の「刑法における故意及び過失の研究」(Untersuchungen über Vorsatz und Fahrlässigkeit im Strafrecht(1930))、という古典を選んだ。

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 500頁近くある大著だ。甚だ生意気な表現だが、一度全体を通読し、その後、そのうちの故意に関する部分を精読した。頁数は約半分。

 「故意だけでいいのか。」との疑問の声が聞こえてきそうだが故意だけでいい。なぜならば、著者のエンギッシュ自身がこの大著の第二部に当たる過失に関する記述の冒頭で、「犯罪論の歴史は過失を故意と同列に扱うという誤りでその体系の混乱をもたらした。」云々と言い切っていたからである。

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 日本刑法のほとんどの研究者が傾倒するドイツ刑法にあって、その重鎮がこう言うのであるから、駆け出しの凡庸な若輩研究者が混乱の原因となる過失に首を突っ込む必要はあるまい。

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 しかし、過失を度外視したのにはもっと積極的な理由があった。(つづく)

 

※「先生との出会い」はファンタジーです。実在する団体及び個人とは一切関係ありません。


先生との出会い(36)―自己満足の勉強なぞ何の役にも立たない。 ―(愚か者の回想四)

2021年03月08日 17時33分44秒 | 日記

 わが国の政府が、万一、違憲な閣議決定をしてもその決定をただす方法はない。

 もちろん裁判で争うことも当然できない。やろうとした人もいたが法令上も法理論上も無理だ。

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 そもそも、違憲な閣議決定がされることを日本国憲法は予定していないのである。

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 それは当然だろう。議会も政府も日本国憲法の下で国民により構成され、国民から権限を付与されるのである。

 そういう性格を持つ政府がその憲法に違反する決定をすれば自己否定につながるからである。

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 しかし、目先の関心に走り、あるいは外国勢力の圧力や利益誘導があると為政者は間違った判断をするときがある。これは運命であり宿命なのだろう。所詮、為政者は人であるから。

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 日本国憲法の改正論議がにぎやかだが日本国憲法に欠陥があるとすればこれこそが最大の欠陥である。

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 しかし、このあたりも法や憲法(日本国憲法ではない。)に関する基本的な認識が無いと批判なぞ到底できないだろう。

 これが日本の学校教育で憲法や日本国憲法の授業がおろそかにされている理由だと言ってよい。

 ほとんどの国民は日本国憲法を知らないのである。

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 どこかの政党が日本国憲法の改正云々の発言をし、「最後は国民の皆様にご判断いただきたい。」などと言っているが、国民に法や法律、そして憲法や日本国憲法に関する知識を提供していないのに「ご判断いただきたい。」と言ってもどう判断すればよいのか途方に暮れる。unfairだ。

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 再び横道にそれた。「妥当性、合理性、論理性」の話に戻ろう。

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 当然のことながら次に問題となるのがこの妥当性、合理性、論理性という概念の中身ということになる。

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 ところが、その中身は何かという議論になるとたちまち世界観や価値観が対立してくるのが日本の文化なのである。

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 世界観や価値観の領域に問題を持ち込めば収拾がつかなくなるのは当たり前だ。

 その結果、当該法律が妥当性、合理性、論理性を満たしているという保証など全くないのに、「法律に従えばいいのだ。」という安易な方向に堕すのである。

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 妥当性、合理性、論理性という文字を眺めるとすぐに気付くことがある。それは、合理性と論理性にはある程度の客観性が認められるが、妥当性となると客観性は相対的になりがちである。

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 この相対性、つまり極力排除しようとしてもどうしても忍び込んでくる主観的な世界観や価値観を排除するために英米法系の研究者はjustice conceptを用いる。

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 justiceは通常わが国では正義と訳される。正義と訳されることでその本質が曖昧にされて来た。

 しかし、英米法という領域ではjusticeはjustice conceptとしてしっかり内容が吟味され確定された概念として扱われている。

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 では、「法治国家(思想)」という概念はどうだろうか。

 今の小中高生の教科書は見ていないので知らないが、私が知る40年ほど前の社会科(系)の教科書には法治国家(思想)はrule of lawの言い替えだと説明されていた。

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 国会議員の中にも「わが国は法治国家なのだから(云々)」と演説する者がいる。

 日本国憲法の下ではわが国は法治国家ではなくrule of lawの国である。このことを知らない人は非常に多いと思う。

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 為政者にとっては国民が法治国家(思想)とrule of lawの違いが分からない方が都合がよいのだろう。

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 法治国家(思想)とはドイツ語のRechtsstaatの日本語訳でありその内容もドイツ法に根がある。

 しかし、日本国憲法が採用する統治の仕組はrule of lawである。

 rule of lawを日本語に訳せば「法による支配」だが法治国家(思想)との違いを知る人も多くはない。その違いはまた別の機会に深堀してみたい。

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 あまりにも横道にそれた。ゼミの話に戻ろう。

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 ゼミでは、こうした背景をすべて調べ上げたうえで、原著者が一つの単語に込めた思いをつかんで日本語にしなければならない。

 したがって、下級生の報告に意見を述べるにはそれなりの準備が無ければ難しい。1年生の時の方がよっぽど楽だったとあとになってわかった。

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 ときには一個の単語の意味を確定するために数日間、図書館に潜り古典と言われる論文集や大辞典を渉猟したことも一度や二度ではなかった。

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 ちなみに、ここでいう大辞典には「ドゥーデン大ドイツ語辞典」(Duden Großwörterbuch)や「グリム大ドイツ語辞典」だ。後者はグリム童話の作者であるグリムが編纂した辞典だ。

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 古典と言われる論文集にはHoldsworth(ホーズワース)のA History of English Law(イギリス法の歴史)という書物が含まれる。

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 グリムの大ドイツ語辞典は全巻が5~6段の書架二つくらいに分かれて収められている。

 グリムやドゥーデンを引くときは、もはや「辞書を引く」という表現で人が想像する状態とは違っている感じがした。「木村・相良」や「シンチンゲル」といった普通の独和辞典を使いながらグリムやドゥーデンの記述を読んだ。

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 辞書ではないが、HoldsworthのA History of English Lawは同様の書架3~4個かそれ以上に収められていた。St先生はこれを読破されたという。伝説ではなかったようだ。

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 At先生のゼミではブラックの法学辞典(Black’s Law Dictionary)、Ka先生のゼミではクライフェルズの法学辞典(Creifelds Rechtswörterbuch)は必携であった。

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 しかし、これはまだまだ序の口であった。勉強の奥深さを知るにはまだまだ時間がかかった。一例を上げてみたい。

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 At先生のゼミの教科書は米国の連邦最高裁判所の判例を要約して編集されたケイスブックだった。その記述にはしばしばcommon lawという文字が出てきた。これはもはや英和辞典でも、英英辞典でも、法学辞典でも内容を正確に掴むことはできなかった。

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 common lawの内容を正確に掴もうとするならば専攻を変え専門の研究をするか、HoldsworthのA History of English Lawを精読するしかなかった。

 とりあえず、common lawという文字が引用された事件の争点に関係する限度で掘り下げ内容を確定し、At先生のご説明を待つ。「なるほどそういうことか。」と新たなことを知るのが何よりも楽しかった。

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 何よりも楽しかったのは事実だが、勉強するために進学した大学院とはいえ、ここまで勉強することになるとは想像もしていなかった。

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 また、この頃になると、やたら「業績」という言葉が耳に入ってきた。

 ある先輩は、「私らは『業績』を作らなければならないので優先的に報告判例を選ばせてもらう。」などと発言していた。

 はじめのうち何の話か分からなかったが、研究会で報告した人はそれを大学内の研究所の機関紙に投稿できる仕組みがあることを後になって知った。

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 活字になるということには大きな意味がある。しかし、自分には関係のないことだと聞き流していた。

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 そんなことよりも、自分には乗り越えなければならない大きな山があった。それは修士論文である。

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 凡庸な私には、もうこのときすでに勉強のキャパは一杯いっぱいだった。鍛えてくれた先生方には大変申し訳ないが、私の勉強は能力以上のことをしようとした不完全で不十分な勉強でしかなかった。自己満足の勉強なぞ何の役にも立たない。何も残ってはいなかった。(つづく)

 

※「先生との出会い」はファンタジーです。実在する団体及び個人とは一切関係ありません。


先生との出会い(35)― 法と法律は違う ―(愚か者の回想四)

2021年03月07日 18時09分22秒 | 日記

 米国には法社会学という独立した学問領域が無いという批判に対しある英米法の研究者は次のように答えた。

 「確かに米国には法社会学という独立した学問領域は無い。米国の法学はそれ自体が社会学的考察を含んでいるからだ。」

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 さて、日本ではどうだろうか。

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 これまでに弁護士に仕事を依頼したことが何度かある。

 どの弁護士も二言目には「〇〇法では・・・となっているから~~~だ。」という表現をする。

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 「それが当然だろう。」と考える人がほとんどだと思う。もちろん当然である。

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 だが、法学者は事件を法律から眺めるのではなく事件それ自体から眺める。

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 「法律を見ないでどうする。」との批判的な声が聞こえそうだが、逆に「事実を見ないでどうする。」との批判も他方から出てくる。

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 法学者は実務法曹とは異なり、法律つまり議会制定法を金科玉条のごとく捉えることはしない。

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 では事件を解決するとき何を指針にするのだろうか。

 それは「妥当性」、「合理性」、「論理性」という種々の法概念である。

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 実際、英米法では法律(statutes)を法(law)と区別して扱う。

 ときにstatutesはman-made-lawと表記されlawより下位に位置付けられる。

 日本の英米法系の学者の中にはstatutesをわざわざ「制定法」とか「議会制定法」と訳す人もいる。もちろん、私もそう訳すよう指導を受けた。

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 しかし、何でもかんでも国会で法律を通せばそれが正しいと考える人には到底理解できないかもしれない。また、理解しようともしないだろう。

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 日本国憲法は英米法系の憲法である。それなのにドイツ流に解釈運用されている。これをAt先生は「ウルトラポジティヴィズム」と皮肉って呼んでいた。つまり、ここで言う「ポジティヴィズム」とはlegal positivismだが、元来これは検証可能性が無いか極めて低い形而上学的法学を排す趣旨で提唱された「法実証主義」を指し、主に英米法で主流となる考え方だが、我が国では、就中、政府による法運用では、極端な実証性が進み、文字化された法文のみに拘泥する傾向が定着してしまった。いわば英米型法のドイツ流解釈及び運用である。そこでAt先生は「超」や「極端な」を表すラテン語系のultraを冠してultra legal positivism(超法律実証主義)と呼ばれた。実によく分かった。

 これを象徴する刑事事件が水道法の領域で発生しAt先生は意見書を書かれていたが、詳細は別の機会に眺めたい。

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 日本政府は、とにかく法律をつくるのが好きなようだ。その法律がまともか否かはほとんど検証もされない。野党も多くの場合、政争の具として法案を扱う傾向が強いので本質論の攻防が無いまま法案が通過してしまうことが多い。

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 時には、法律事項なのに閣議決定で済ましてしまうことまである。明らかに違憲なのだがその違憲をただす仕組みが無い。

 日本国憲法には第98条に「この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。」と規定されてはいるが、違憲な閣議決定について「その効力を有しない。」ことを宣言する仕組みが無い。その為、政府が違憲な活動をしてもこれを是正したり、違憲だと宣言することができないのである。

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 ちなみに、「違憲法令審査の制度があるだろう。」という意見が聞こえてきそうだが、これを定めた日本国憲法第81条には「最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。」と規定されており、違憲法令審査の主体は裁判所だとされている。主体が裁判所だということは争訟が存在しなければならないということを意味する。

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 日本国憲法の母法である米合衆国憲法には違憲法令審査権を明確に規定した条文は無い。しかし、米合衆国最高裁判所は米合衆国憲法第3章(ARTICLE III)が絡む事件で違憲法令審査権を確立した。

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 ただし、それには、いわゆる「事件性の要件」がある。「事件性の要件」とは馴れ合い訴訟の禁止だ。

 違憲法令審査権は強大な権限である。議会が時間をかけ議論を尽くして可決し成立させた法律を無効だと宣言することができる。

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 そこで、僅差で可決した法案について、これに反対する側が「馴れ合い訴訟」を起こしできたばかりの法律を無効にしようと企てるのである。いわば議会で負けた側が裁判所で復活を目指すという構図である。

 しかし、これを許せば議会制民主主義政治は事実上崩壊する。

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 また、米合衆国内における全ての争訟について最終判断を下す米合衆国最高裁判所の判事には定年が無い。選挙で選ばれるわけでもない。したがって、民主的統制が及んでいないのである。

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 不完全ながらも国民の代表によって構成される議会が制定した法律を民主的コントロールが及んでいない裁判所が自由に無効を宣言できることになれば統治の基本が崩れる。

 そこで、米合衆国最高裁判所は自ら宣言した違憲法令審査権についてみずから制限を課し濫用に歯止めをかけた。

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 さて、わが国の閣議決定についてはどうだろうか。(つづく)

 

※「先生との出会い」はファンタジーです。実在する団体及び個人とは一切関係ありません。