先生との出会い(20)―荒れる大学、そして「はじめの一歩」―(愚か者の回想四)
「先生との出会い」はファンタジーです。実在する団体及び個人とは一切関係ありません。
2号館のまわりにはすでに機動隊員が待機していた。もちろん、機動隊員が学内に入ることは無い。だが、2号館と5号館の間の道路は公道なので青と白の機動隊の車両が数台停まっていた。正門前の本郷通りにも数台停まっていた。
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一部の建物にはシャッターが下りていた。私は大勢の学生に押されてシャッターに押し付けられた。外が見えるパイプ状のシャッターだ。息はできる。このシャッターを挟んで機動隊員がこちらを眺めていた。
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「入るなよ!」と凄いどなり声が聞こえた。それらしいヘルメット学生はいない。何と、かたわらにいた普通の学生が機動隊員に罵声を浴びせかけたのである。
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機動隊員の一人が中の様子を窺うかのようにシャッターに近づいたときその機動隊員の安全靴の爪先がわずかに大学の敷地に入ったのである。「凄い大学だな。」と驚いた。
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「守りやすくて責め難い」と言われた2号館の中庭では相変わらずデモやアジ演説が続いていた。
それより少し前、アジ演説を続ける学生に應援團の学生が切り込んだことがあり警察沙汰になったという話を聞いた。1970年代の大学も荒れていた。
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私はある科目の試験を受けるため試験会場となる教室に入った。縦に長い教室だった。私は前から5列目あたりにいた。
担当の先生が入って来た。いつヘルメット学生が攻めてくるか分からない。他の講義では試験がつぶされたものもある。
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試験期間前のことだが、別の科目の講義に出席していたとき突如ヘルメット学生が乱入し教員が連れ去られた事があった。
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「(試験を)やろう!」と担当のOs先生が勢いよく言った。学生から大きな拍手が沸き上がった。試験を実施することがヘルメット学生との戦いに勝利することになる。理由の如何にかかわらず試験をつぶすことは許されない。
教室後方の扉は職員が警備していた。開始からほどなくしてヘルメット学生が前方の扉に押しかけた。
試験を受けている学生は落ち着かない。前方の扉の外でOs先生がヘルメット学生の一部と話し始めた。話して分かる相手ではないにもかかわらず話しをするところがOs先生の偉大なところだ。
話し合いの際中にも廊下側の窓から侵入をこころみるヘルメット学生がいた。緊迫した状況が続いた。
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二年生の時、プールが一時閉鎖された。水を温める重油が無いというのである。世情に疎かった私だがプールが閉鎖されたら1200SRのローンが返済できなくなる。そうでなくてもアルバイト代だけでは間に合わず、何度か母に立て替えてもらっていた。後にオイルショックと呼ばれる事態だった。
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先輩やOB、そして職員もあれこれアルバイト先を探してくれた。私は他の仲間と交代で神田の喫茶店で働くことになった。ビルの屋上にある喫茶店である。
しばらく「お運び」をやっていると、「カウンターやってみるか。」と本職の社員に言われた。コーヒーの淹れ方、出し方、ココアの作り方を習った。
しかし、書き入れ時の夜間に店に出られないので収入は少なかった。
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当時、プールに出ているときは、冬場はトレーナーにジーンズ、夏場はTシャツにバミューダという格好だった。だが、喫茶店に出ていた頃はワイシャツにスラックスだった。群れからは「どうしたの。」と訊かれた。
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ステーキ屋でアルバイトをしたこともあった。そこは元国体選手のWの紹介だった。食事付ということなので美味いものが食えるかと期待したがボンカレーだった。
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オイルショックが一息ついた頃、ライフガード達はプールに呼び戻された。しかし、私の居場所はなくなっていた。
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引退後、後輩の誘いで某区のプールでライフガードとして働くことになった。
自宅の最寄り駅が自宅から遠いこともあり新たな職場にもSRで通った。しかし、複数の幹線道路を通ることになるので遅刻することが多かった。遅刻しても業務には全く影響は無かった。だが、遅刻が一時間に満たなくても一時間分の給料が減らされた。
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仲間の一人が、「空いている部屋がある。」というのでそのつてを頼ってアパートを借りることにした。四畳一間に半畳の台所が付いて9,000円はわるくなかった。その建物にはこうした狭い部屋がいくつかあった。二部屋借りている人もいた。夜、隣人が電話で誰かと大声でしゃべっていた。
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無料の駐車場があるということで借りたのだがそれらしいところは無かった。やむを得ず開拓した。すぐ近くを東海道新幹線とローカル線が上下になって走っていた。3分程歩くと国道1号線に出た。電車が通ると揺れた。ここが私達の出発点となった。
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引越は簡素だった。プールの後輩の親父が鉄工所をやっておりその会社のホロ無しの二トン車を借りた。運んだのはベッド、ちゃぶ台、木製本箱、鍋、炊飯器、やかん、フライパン。それだけだった。
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その頃はまだ両親に妻のことは話してはいなかった。しかし、頻繁に電話でやり取りをしていたので「そういう人」がいることは分かっていたらしく、後日、その話をしようとしたら「ゴールイン?」と先手を取られた。
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トラックを貸してくれる後輩の家にSRで行き車を入れ替えそのトラックで埼玉県の実家へ向かう。
そこで、ベッドその他を積み込み出発した。両親と一緒に暮らしたのはこの日が最後となった。
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実家は6畳と4畳半の和室に3畳程度の台所が付いた平屋だった。風呂もあった。当時、はやりの一戸建住宅だ。私が中学2年生の秋頃、両親が頑張って購入した。庭なぞは無い。家の周りに人がかろうじて歩ける程度の土地はあった。
しかし、薄給自衛官が現職中に購入する家としては立派だったと思う。もっとも、私が家を出る頃には4畳半の床が一部落ち、外の土が見えた。私が家を出て数年後、別の場所に家を建てた。今度は4LDKの二階建てだった。立派だと思う。
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最初の一戸建から中学校に通い、K工業高校へ通った。米国へもこの家から行った。プールへも中央大学へもこの家から通った。
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一歩前に出るには懐かしい過去から離れなければならない。その覚悟はできていたはずだった。だが、やはり寂しかった。母は、私が大学やプールへ行くときと同じように「行ってらっしゃい。気を付けて。」と言って送り出してくれた。
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このとき母は、助手席に隠れるように座っていた妻に気付いていたのだろうか。何も言わなかった。すでに日は暮れ薄暗かった。
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実家は袋小路の突き当りにあった。路地を出て右折、「もういいよ。」と声を掛けると妻が起き上がった。登り坂を上がると両側は畑だ。妻と私の長い、長い、珍道中がこのとき始まった。私22歳、妻21歳の秋のことだった。(つづく)
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