先生との出会い(31)―教材は映画「ダーティーハリー」(1971)―(愚か者の回想四)
さて、このように、一見単純そうで実は非常に複雑で知的好奇心を刺激する法律適用だが、有罪となるかもしれない被告人はありとあらゆる(悪)知恵を絞って無罪となりそうな根拠を探し(屁)理屈を展開する。
裁判所は、その根拠や(屁)理屈を真正面から受けとめ被告人が反論できないところまで論破して有罪判決を下す。
そしてその被告人の反論を論破する理屈も合理的かつ論理則に適っていなければならない。
さらに、同時に、過去の事例との整合性も維持されていなければならない。これが、いわゆる歴史的平等の確保である。
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先にあげた例は刑法、すなわち刑事実体法の例だが、刑事訴訟法、すなわち刑事手続法においても同じように厳格かつ合理的で論理的な法運用がされなければならない。
加えて手続法では憲法遵守という要請が強く働く。なぜならば、どちらかと言えば裁判の場で論理的対立が顕在化する刑法と異なり、職務質問や逮捕、勾留、捜索、押収といった刑事手続は突如として人の日常に入り込み、人を法領域へ取り込む刑事訴訟法では憲法、とりわけ基本権規定との関係が常に重視されなければならない。
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一例をあげよう。私が講義の際に必ずあげる例が映画「ダーティーハリー」(1971)だ。
M29というカーストッピングパワーを持つマグナムハンドガンでご存じの人も多いだろう。ただし、20歳前後の人の中には知る人が少ない。
あらすじはWikipediaで読んでもらえば良いが、ただ、私が例としてあげたい肝心な部分が欠落している。Wikipediaでは「ミランダ警告を無視した逮捕と自白強要が違法とされ、決定的証拠もなく結局犯人は放免される。」(「放免」ではなく「釈放」)という説明があるがそうではない。
主役のキャラハン刑事が容疑者から被害者の居場所を聴き出すまでの過程に米合衆国憲法が保障する基本権の侵害があり、かりに起訴しても犯人を有罪にはできないのである。少し深入りしよう。
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キャラハン刑事は、容疑者を救急診療した医師から容疑者の居場所を聞き出しその場所へ行った。
ここからがこの映画の一つの見せ場だろう。
容疑者は球場でプログラムを売っている男だと医師はキャラハン刑事に告げていた。
球場へゆくと門は閉じられている。キャラハン刑事はこの門をよじ登り球場内に入り、容疑者が寝泊まりしているという小屋に向かう。
M29を取り出し、用心しながらドアに近づきドアを蹴破って中に入る。この種の映画では当たり前のシーンだ。
だが、容疑者はいない。
しかし、キャラハン刑事はベッドのぬくもりから直前までこのベッドに人がいたことを察知する。
その直後、物音がする。
球場の照明をつける。
容疑者が球場を横切って逃げる。
M29の出番だ。
キャラハン刑事は容疑者の足を撃つ。
動けなくなった容疑者から被害者の居場所を聴き出そうとする。
容疑者は「俺には弁護人を依頼する権利がある。」と絶叫する。
だが、キャラハン刑事は撃たれて傷ついた足を踏みつけ被害者の居場所を聴き出す。
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容疑者の供述に従い捜索した結果、被害者は遺体で発見される。
球場で容疑者から聴き出した内容は「犯人でなければ知り得ない事実の暴露」、いわゆる「秘密の暴露」だ。この容疑者が犯人であることに間違いはない。
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しかし、その後、キャラハン刑事は検事と判事に呼び出され犯人を釈放したと聞かされる。
「なぜだ」と迫るキャラハン刑事に「証拠が無い」と判事らは答える。
球場の小屋で発見した狙撃用ライフル銃や遺体が証拠となると主張するキャラハン刑事に、「あれは証拠としては使えない。君がしたことは米合衆国憲法第4、第5、第6修正違反だ。被疑者の権利を忘れたのか。」と判事は憤る。
「少女の権利は誰が守るんだ。」と言い捨ててキャラハン刑事は部屋を出て行く。
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この映画の核心部分はまさにこのやり取りである。M29の派手さで日本に上陸した映画なので、キャラハン刑事の名台詞やM29のパワーが人目を引くが作者の狙いはこのやり取りにあったと私は見ている。☆
(つづく)
※「先生との出会い」はファンタジーです。実在する団体及び個人とは一切関係ありません。
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