退屈男の愚痴三昧

愚考卑見をさらしてまいります。
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先生との出会い(25)―嬉しい出来事、悲しい出来事―(愚か者の回想四)

2020年12月06日 18時17分41秒 | 日記

 1885(明治18)年、東京神田に英吉利法律学校として創設された中央大学は1978年3月、この地を去ることとなった。奇しくも私達は駿河台の最後の卒業生となった。

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 移転先は八王子市東中野、いわゆる多摩校地。当時、多くの大学が区部を離れ東京近県へ移転していた。

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 多摩校舎はきれいだった。広大な敷地に理工学部を除く4学部がそれらを象徴する建物と共に配置されていた。

 正門から眺めると白鳥が翼を広げたような建物配置になっていた。

 中央には図書館と厚生棟がそびえ立つ。そこへ至る道は幅の広い上り坂になっている。その後、定年坂と呼ばれるようになった。この坂を上れなくなったら定年だという意味。それほどの高低差だった。

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 駿河台とは異なり当時の多摩校舎周辺には飲食店がほとんど無かった。そのため厚生棟には多彩な食堂が入っていた。夕方の指定時刻を過ぎると酒類の販売もあった。

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 私は聴講生という身分を得て1科目だけ登録し大学へ通った。身分が無いと図書館やその他の大学施設が使えないからだ。とはいえ、その講義の日とKa先生のゼミの日以外は自宅で勉強していた。私達は大学の移転に伴い、一足早く町田にアパートを借りて生活を始めていた。

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 自家用車はあるが大学構内へ乗り入れることはできない。

 車で行ったときは周辺の農家が庭を解放した駐車場にあずけることになった。

 多摩校舎は動物園や遊園地のすぐ近くにあった。農家の駐車場は行楽客が土日や休日に利用していたものらしい。大学が来て特需を得ていた。

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 この頃は夜を日に継いで一所懸命勉強した。

 二回目の試験に落ちたときSi先生から「刑訴が0点だ。At君の所へ行って勉強しなさい。」と指示された。

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 そうなのだ。このときになって夜間部であったことが負の要因となっていた。

 ちなみに、「At君」とは、知る人ぞ知るあの伝説のAt教授である。

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 刑事訴訟法という科目は3年生に配当されていた。しかし、この時、私は「不可」だった。勉強不足が原因だったが、教員の話している内容が全く聴き取れなかった。

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 その教員は現職の裁判官だった。4年生になり再度履修した。今度はDo大学のMa教授だった。

 多くの学生は裁判官の先生の講義で「優」を取り、Ma教授を苦手としていた。私はMa教授の講義で「良」をいただいた。

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 だが、その程度では大学院の入試には到底歯が立たなかった。そもそも、歯が立たない理由も分からなかった。試験問題を見ても、何をどう答えればよいのか全く分からなかった。何を問われているのかも分からなかった。

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 しかし、その原因はすぐに明らかとなった。当時、大学院の入試問題を出していたのはAt教授だった。しかし、At教授は夜間部の講義を担当してはいなかった。そして、このAt教授こそこの大学で最も単位が取れない科目の担当教員だった。

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 その先生の講義を聴いている昼間部の優秀な学生でも単位を取れない科目である。講義を聴いていない夜間部の凡庸な学生である私が、しかも大学院の入試問題で合格点を採れるはずがない。

 普通の勉強をしていたのでは未来永劫、この大学院には入れないと悟った。

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 しかし、この先生の教科書が無かった。長く品切れだった。

 「どうして俺は教科書に恵まれないのか。」と高校時代を思い出した。

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 しかし、救世主はいるものだ。

 はじめは私をOさんのオッカケだと思っていたらしいHa先生が助けてくれた。

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 At先生は通信教育部で教科書を書いていた。しかし、これは非売品なので通信教育部の学生以外手に入れることができない。

 ところが、私がこの教科書が欲しいとOさんに言うと、その話がHa先生に伝わりHa先生が手に入れてくれた。

 自分のまわりがどんどん変化して行く。そんな感じがした。

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 多摩移転は私に大きな幸運をもたらした。

 駿河台では受講できなかったAt教授の刑事訴訟法の講義が毎週2回開講されていた。本来は毎週1回なのだが移転に伴う留年生向けの救済措置で2回になっていた。これは非常に有り難いことだった。

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 刑事訴訟法の講義は毎週火曜日と木曜日だった。大学院に入学してからも出席し続けた。いつからだったか記憶が無いが、毎週二回ではなく毎週一回になっていたが出席し続け2005年に先生がご定年でご退職されるまで20余年間聴き続けた。

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 ご退職後も先生はそれまで主宰されてきた研究会でご指導を続けられ私も引き続きお邪魔に上がっていた。

 先生が発起人の一人となっている某学会の研究会にもお邪魔に上がっていた。

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 先生は退職される前に新たな学部を創られた。そこでは、刑事訴訟法ではなく「法の原理」という科目で先生がお得意とされる領域についてご講義された。学部の二年次か三年次に配当された科目だったと記憶している。現役の学生諸氏には難しかったのかもしれない。

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 その後、同学会が提供する「社会安全政策論」というオムニバス講義で総論をご担当された。

 先生の法の哲学がビンビン伝わってくる熱のこもった講義であった。

 ちなみに、このときは当時まだ警察庁の現役官僚であった男Tと机を並べて受講した。「わかるかい?」と問いたくなったが控えた。たぶん分かってはいなかったと思う、推測だが。

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 例の某学会は設立から15年が経っていた。複数の部会が置かれ、それはAt先生が部会長をされている部会の研究会の日の事だった。

 当然、私もお邪魔に上がった。

 開始時間まで少し間があった。

 私が入室したときはすでに数名の会員が着席していた。

 先生はまだお見えではなかった。

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 いつもならば研究会が始まるまでの時間、参加者がそれぞれ談笑するのが常であった。

 皆、元警察官僚である。現役の頃の話や天下国家についてにぎやかに話していた。

 だが、この日は静かだった。

 その静けさに押されて私も静かに席に座り開始の時刻を待った。

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 向かい側に座っていた元警察庁長官が沈痛な面持ちで隣に座っている元某県警察本部長に小声で何かささやいた。

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 「いやあ、残念だねえ。」かすかな声だが私にはそう聞こえた。元本部長は「ええ。」とだけ声にならないような声で小さく頷いた。

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 過去に経験の無い胸騒ぎがした。心臓がバクバクして来た。

 2014年1月31日の出来事だった。(つづく)

※「先生との出会い」はファンタジーです。実在する団体及び個人とは一切関係ありません。



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