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前期課程の二年生は修士論文に着手する。
修論は、修士課程の成果をまとめるものである。
だが、後期課程に進むものにとって修論は後期の入学試験の一部となる。
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「私は修論としてまとめられるものを何か持っているのか。」自問した。
ゼミでは先生が準備してくれた教材に取り組んで来ただけだ。それを勉強というのだろうか。内容は難しく、量も多かった。だが、「先生が準備した教材に取り組む」という点では小学生の宿題と変わらない。
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本当の勉強をするならば行かれるところまでは行かなければならないと考えた。
ただそれだけの理由で後期課程に進むことにした。
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その為には修論だ。テーマは降ってくるものではない。自分が探すのだ。
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修士二年生のときに取り組んだものは到底修士論文と呼べるものではなかった。
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指導教授のSi先生は、「しっかりとしたものを読め。」、「厚い本を読め。」、「枝葉末節の問題を扱うな。」と仰った。
奇を衒って、刑法の些末に及ぶ論点や、ほとんどの研究者が目にも留めない論点を扱うのではなく、法学の基礎、刑事法学の基礎、刑法の基礎につながる大きなテーマを選べということだ。いわば正面突破だ。
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前期課程には4年生までいられる。そこで、この時間をいっぱいに使い、現在の犯罪論の基礎を提供した古典を読むことにした。
これとても、「自分からする勉強」ということにはほど遠かった。
だが、他にやるべきものを見つけることができなかった。
しかし、その後、時がたつに連れ分かってくるのだが、この選択は正しかった。
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ドイツの高名な刑法学者エンギッシュ(Karl Engisch)の「刑法における故意及び過失の研究」(Untersuchungen über Vorsatz und Fahrlässigkeit im Strafrecht(1930))、という古典を選んだ。
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500頁近くある大著だ。甚だ生意気な表現だが、一度全体を通読し、その後、そのうちの故意に関する部分を精読した。頁数は約半分。
「故意だけでいいのか。」との疑問の声が聞こえてきそうだが故意だけでいい。なぜならば、著者のエンギッシュ自身がこの大著の第二部に当たる過失に関する記述の冒頭で、「犯罪論の歴史は過失を故意と同列に扱うという誤りでその体系の混乱をもたらした。」云々と言い切っていたからである。
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日本刑法のほとんどの研究者が傾倒するドイツ刑法にあって、その重鎮がこう言うのであるから、駆け出しの凡庸な若輩研究者が混乱の原因となる過失に首を突っ込む必要はあるまい。
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しかし、過失を度外視したのにはもっと積極的な理由があった。(つづく)
※「先生との出会い」はファンタジーです。実在する団体及び個人とは一切関係ありません。
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