(「払田念仏谷地」から「千屋本堂町」方面を望む)
●歩いた日:2019年1月12日(土)
●歩いた所
・土崎(千屋):関根、厨川、上厨川、三井寺、田中、下川原
・払田(高梨):高柳、牛嶋、念仏谷地
●歩いたログ(足跡)(道のり4.8km)
(以上の地図:国土地理院)
(📷008地点から)目前にある車の方に少し進むと、骨組みのハウスで遮られていた北東方向の視界が開ける。
(「念仏谷地」から「千屋本堂町」方面を望む)
低い位置から斜めに射しこむ太陽光によって、青白く輝くような山肌の陰影が実に美しい。厚い雲がかかっている辺りが「和賀岳」である。
「大台スキー場」のゲレンデの下から右手にわたって木立の連なる大きな集落が、この時最初に目指した「本堂町」である。「本堂城」の城下町として造られた(「本堂氏」は「関ヶ原の戦い」の後、「常陸(茨城)新治」に国替えになったので、それ以前のまちづくり)というだけあって、この辺りでは見られない大きな集落である。遠くから眺めても何となく歴史を感じるような気がする、のは気のせいだろうか。
「大仙市」と「美郷町」の境を越えて車に戻る。 最後にまた航空写真をご覧いただく。この時歩いたところもH28年の写真があるのでそれから。
(H28年)
7月に写したと思われるが、稲の緑が一番濃い時期で何度見てもきれいな写真である。黄色の線がこの時歩いた道筋。
写真中央辺りは典型的な散居形態で、一軒一軒の家の屋敷が広くゆったりしている。とりわけ、県道から南に進んで引き返した屋敷は木立が密集する大きな屋敷であることがわかる。
左下に写るのが「高柳」の集落で、堤防に接するように担い手センターが建ち、その右手の大きな木立の脇から神社の屋根がのぞく。そこから右上に少し離れたところにある、これまた広い屋敷の中に、拡大してみると茅葺らしい大きな屋根を写っている。
車を止めた場所(「P」)のすぐ左手に、📷008に写っていた狭い橋と松の木らしい木立が見える。
この写真で気付いたことだが、写真の左側と右側で田んぼの長方形の区画の方向に微妙なズレがあることがわかる(紫色を引いた長辺の方向のずれ)。そのズレは「旧仙北町」と「旧千畑町」の境を挟んで生じているようで、非常に面白い。
次にS51年の写真。
(S51年)
田んぼの区画の大きさが異なるがH28年とほとんど同じ姿である。ただ、当時は「埋蔵文化財センター」が建っておらず、県道を挟んだその北側一帯も史跡としての整備はまだ行われていない。ここも周辺と同じく一面の田んぼで、紫色で囲んだ民家も何軒か(H28年の写真を見ても分かるようにこれらの民家は現在無くなっている)建っている。
また、引き返した大きな屋敷の北側と南側に当時は道がなく、この家は水路沿いの道を通っていたようだ。南側と北側の道は田んぼの区画整理に伴って新設されたと思われる。
左下隅の「丸子川」辺りに注目いただきたい。「丸子川」は橋のすぐ下流(左手)まで改修工事が進んでいるが、その上流はまだ未改修である。そして、橋の位置(方向?)と橋から「高柳」集落の十字路に向かう道筋が現在と異なっている。現在の道筋を黄色線で書き入れてみた。架け替え前の橋のたもと(三叉路のところ)に大きな木立が写るが、ここに神社があったのだろうか。だとすれば神社はほんの少しだけ川上に移動し、それまで神社があった場所に担い手センターが建ったことになる。
田んぼの区画の方向のズレはH28年と同じである。方向がズレた田んぼが接するところ(ピンクの線でなぞった水路)が旧町(現在の市と町)の境になるようだ。
最後にS23年の写真。
(S23年)
S51年と全くと言っていいほど同じ姿である。早くに(戦前?)に田んぼの区画整理が行われた地域であることがわかる。
以前のブログに書いたことだが、車を置いた辺りの道が左右に緩くカーブしている。これをまっすぐに付け替えたため、当時の道の一部が残って待避所のようなスペースができたようだ。
写真上部には現在の県道が、下部にはこの時歩いた道がそれぞれ東西に走るが、両方の道に引いた橙色、黄色の線は田んぼの区画からみてそれぞれ並行になっている。しかし、田んぼの区画の方向が旧町の間でわずかにズレているため、その分両方の道も境付近でわずかに方向を変えている。
ところで、写真中央やや右寄りにひと際広い屋敷のような区画が写る。周りには木立が生えているようだが、中は白っぽくなっていて空地にも見える。この区画はS51年には無くなっている(道角の田んぼの一角に痕跡のような木が写る)が、かつての地主の屋敷か、あるいは寺でもあったところだろうか(地元の人に訊けばわかることだが)。
寺と言えば、「美郷町の歴史(通史)」(美郷町教育委員会編)を読むと、「旧六郷町」に、「関ヶ原」以前の「六郷氏」も「関ヶ原」以降の「佐竹氏」もまちづくりの一環として周辺の村々から寺を集めたことが書かれているが、「六郷氏」が呼び寄せた「高柳真乗寺」は「払田高柳」にあった寺と記されている。前述の無くなった広い屋敷は「土崎関根」であるが、「高柳」のどこにあった寺だろうか。なお、その「高柳真乗寺」が戦国時代に「陸奥国」(「岩手県」)から「奥羽山脈」を越えて来たことも記されている。
(終わり)
●ブログに掲載したログの累計(累計の道のり:407.7km)
「大曲の花火」(8月31日)も終わり、日中もだいぶ過ごしやすくなりました。連日続いていた暑さがやや和らいだ去る8月21日に久しぶりに「仙北平野」に出かけてきました。歩いたところは「旧六郷町」の街から「奥羽山脈」の麓、「六郷東根」に至る道筋です。次回からはその記事を掲載する予定です。
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