一級河川 鈴鹿川 この川へ出かけて、デジカメを楽しむ。
・今日もまた、高岡城跡に登る。
高台にあるこの場所は景色がとっても良い場所です。
<高岡城跡>
高岡城は標高50m、南に鈴鹿川と、北に深い谷がある自然の要塞地に築かれた山城であった。西の空掘附近は馬場の跡と伝えられている。城主は神戸友盛の家老知友兼備の名将山路弾正であった。永禄十年(1567)初秋、織田信長の大軍が高岡城を攻めてきたが、これを防いだ後翌年二月、再度攻めてきたが、山路弾正は屈しなかった。そこで信長は三男・信孝の養子を条件に和睦を策した。元亀二年(1571)正月、信長は友盛に隠居を命じた。主君友盛の不遇に義憤を覚えた弾正は諜版を企てたため不意を襲われて自害に追い込まれた。その後、信孝血縁の小島兵部が高岡城主となった。
平成四年九月吉日 市制五十周年記念建立
・景色が素晴らしい~。
・今日もまた、高岡城跡に登る。
高台にあるこの場所は景色がとっても良い場所です。
<高岡城跡>
高岡城は標高50m、南に鈴鹿川と、北に深い谷がある自然の要塞地に築かれた山城であった。西の空掘附近は馬場の跡と伝えられている。城主は神戸友盛の家老知友兼備の名将山路弾正であった。永禄十年(1567)初秋、織田信長の大軍が高岡城を攻めてきたが、これを防いだ後翌年二月、再度攻めてきたが、山路弾正は屈しなかった。そこで信長は三男・信孝の養子を条件に和睦を策した。元亀二年(1571)正月、信長は友盛に隠居を命じた。主君友盛の不遇に義憤を覚えた弾正は諜版を企てたため不意を襲われて自害に追い込まれた。その後、信孝血縁の小島兵部が高岡城主となった。
平成四年九月吉日 市制五十周年記念建立
・景色が素晴らしい~。