■某月某日「不幸中の幸い」
3月に巣ごもり生活に入った時、個人的にあまり不満を感じずに過ごせた。
その理由の一つに、2月のまだ動けるうちに会いたい人にだいたい会っておけた事がある。
当時はまだ、ダイヤモンド・プリンセス号での感染事例が報じられ始めた頃で、その後の社会の変容を想像した人は少なかった。
コロナによって巣ごもり生活を強いられる近未来を自分だけ予見できていた、という訳では勿論ない。
小生は昨年から会社の組織を動かすプロジェクトに取り組んでいて、社内の多くの関係者に助けてもらっていた。
そのお世話になった皆さんにどうしてもお礼を伝えたかったので、プロジェクトが一段落した2月初旬にまとめて懇親会をセットしていたのだった。
3月に入ると海外や地方都市への転勤など、春の異動の情報がなんとなく見えてきて、お礼を言えないまま、その後の会社生活で二度と会えないなんていう事もまま有る。(バッタリ会えたとしても10年後とか)
異動が決まると、その人たちのスケジュールはあっという間に送別会で埋まってしまう。
だから、早めに懇親会を設定して、会うべき人たちに早めに会って謝意を伝えておいたのだった。
案の定、その人たちの多くはその後3月になると異動の辞令を受けていた。
こうして幸いにも「お世話になった人たちにお礼を言わずにサヨナラ」コースを免れたことは、巣ごもり生活の幕開けにおいて、わずかながら慰め(モヤモヤ感の緩和)になったように思う。
■某月某日「ホレンディッシェ・カカオシュトゥーベ」
頂きものの洋菓子を摘まむ午後。
店名は舌噛みそうですが、これは楽しい詰め合わせ。
オランダの店と思わせておいて本店はドイツのハノーファーにあるんだよね。
んーむ、美味しいなぁ。
■某月某日「欧州 旅するフットボール」
去年出た豊福晋さんの本を読んだ。
現在バルセロナ在住で、5ヵ国語を操るというサッカー・ジャーナリスト豊福さんによるフットボール紀行。
我が永遠のアイドル、ポルトガルのルイ・コスタにインタビューした章が特に好きだ。
現役を退き、現在はベンフィカ・リスボンでスポーツディレクターを務める彼が10番について語る。
現代の好みのプレイヤーのタイプで最初に名前が挙がるのは、やはりと言うべきか、イニエスタだ。
そして、アーセナルのエジル、レアルのイスコにも触れた後、ルイ・コスタのこんな言葉が気になった。
「今のサッカーではミッドフィルダーには得点力が求められている。カカやトッティはそうだったが、私にはそれがなかった。1点も取れないシーズンもあったくらいだ」
ルイ・コスタがフィオレンティーナで10番をつけてバティとエジムンドの強力2トップを操っていた頃、折に触れて自身も美しいシュートも放ってた印象あったけどね。
確かにACミランに移ってから完全にコンダクターに徹したな、と当時思った。
点が取れてないって意識を持ちながらやってたんだね。(そりゃそうか)
この章は、インタビューを終えて別れた後、豊福さんにルイ・コスタから電話がかかってくるシーンで終わる。
曰く、先ほどのインタビューで言い洩らした事があると言う。
素晴らしくも呆れるようなルイ・コスタからの電話の中身については、実際に本書を手に取ってお確かめください。
ルイ・コスタ、選手を引退してますます素敵。
■某月某日「赤門を通ると」
この日は重要な要件でどうしても東大付近に行く必要があり、外出。
と言っても、3月頭の事なのでまだ社会は普通に動いていた。
この時点で、半月後にはオフィスに全く行かなくなってると言われても信じられなかっただろう。
赤門は元は加賀藩上屋敷の表御門で、文政10年に加賀藩主前田斉泰が徳川家第21女の溶姫を迎える際に建てられた。
姫を迎えるのに門を建てちゃう当時の風習もスゴいが、将軍家とは言え第21女ってのもこれまたスゴい。
ところで、この門を通りかかるとYさんの事を思い出す。
あれは何年くらい前だろうか、ずっとお世話になった技術者のYさんの引退が近づいていた。
とある研究室を二人で訪れた後、もう陽も暮れていて、じゃあちょっと飲んでいきましょうかという事になった。
『羅針盤』という居酒屋の前でYさんが「よし、ここにしよう」と言い、二人で地下の店に入った。
Yさんには崩壊寸前のプロジェクトを、途中から参画して立て直してもらった大恩があった。
冷静かつ温厚な技術者であるYさんが、時には怒鳴り声をあげてチームを引っ張ってくれた事を覚えている。
そんな事を思い出しながら、二人で静かに飲んだ。
帰り際、椅子から立ち上がろうとした時、Yさんが後ろに大きくよろけてしまった。
Yさんは「年をとっていかん」と照れ臭そうに呟いて起き直った。
引退直前とはいえ、Yさんは足取りもしっかりした人だったので、小生はかなり驚いた。
同時に、Yさんの体を右手で支えながら
「人は誰しも、いつか衰え、去っていく」
という当たり前の事を、稲妻にうたれたようにハッキリと理解した瞬間でもあった。
あの時、たまたま我々の後ろの席で飲んでいて、咄嗟の判断でYさんを転倒寸前で支え、体を起こすのに手を貸してくれた2人の若いサラリーマンに感謝した事を覚えている。
彼らも今頃はもう中堅社員だろうか。
■某月某日「ハリー・ポッター アートの世界」
昨年から今年前半にかけてウチの子らの間でハリー・ポッターのスーパーブームが訪れていたのだが、この「アートの世界」は極めつけと言える。
まずは手にとった時の書籍としての単純な版のデカさ、340ページのボリューム、9,000円超という価格設定に圧倒されるが、真の驚きは美術監督であるスチュアート・クレイグと彼のチームが手掛けた作品世界のスケッチや絵画、つまり中身にあります。
やっぱりここまでしないと、あれだけの映画は完成しないのね。
映画に登場する本の表紙や新聞の紙面も細かく作りこまれていて、大人でも楽しめる一冊。
■某月某日「Yahoo!トピックス」
Yahoo!トピックスをスマホのSafariのブックマークから外した。
Yahoo!ニュースのアプリも消した。
別にヤフーに恨みがあるわけじゃなくて、基本的にニュースはなるべく一次情報に当たった方が良いのと、自分には余計な、必要のないトピックスが多すぎるなぁと。
あるとつい見ちゃうしね。
あんまり良い時間の使い方じゃない。
という事でYahoo!を外してみた結果、なんかすごくイイ感じですワ。
<おまけ>
ちなみに↑の見慣れないロゴは米ヤフーのものです。
1994年にスタンフォード大のジェリー・ヤンとデビッド・ファイロがウェブ・ディレクトリとしてスタートした時は画期的だったサービスだったんですが、モンスター検索エンジンであるgoogleとの戦いに敗れ、2017年、ついにベライゾンに事業売却されました。
(ちなみに、2000年の時点でYahoo!の検索エンジンの中身はGoogleになった。検索エンジンとしての勝負は初期段階で着いたんですね)
1997年頃、日本版WIREDで「知を体系化したい」って趣旨のYahoo!の特集記事を読んだ気がする。
あれには興奮した。
すげえ!この人たち知を体系化しようとして活動してるんだ、って。
今や完全に別会社となってる日本のヤフーですが、ポータルサイトとしてヤフーがこんなに力を持ってるのは世界で日本だけなので、それはそれで立派かも。
検索するときはググるけど、ニュースを見る時はヤフーを見るという日本のこの独自文化。
(現在はニュースのコメント欄が抑圧された不満の悪い意味での捌け口になってるところが残念。2010年代に入って本格的なスマホ時代の到来と共に悪化したように思う。運営側にとっては、内容がどうあれ、アクセス数・イズ・マネーだからね。この辺、真の企業リテラシーが試されつつある)
しかし、1990年代終盤の、ネットで何をするにもまずはヤフーっていう時代は凄かったなぁ。
今でもナイツの塙がたまに「インターネットのヤホーで調べてきました」って言ってくれるの、あの時代を知る者としてなんか嬉しいもんね。
<以下、禍中日記 その3につづく>
・禍中日記 その1
・禍中日記 その2
・禍中日記 その3
・禍中日記 その4
・禍中日記 その5
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