『優雅で感傷的な日本野球』
高橋源一郎(日:1951-)
1988年・河出書房新社
2006年・河出文庫(新装新版)
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ぼくは伯父が『偉大な選手通り(グレートプレイヤーズストリート)』と名付けたアスファルトの路を歩いて北に向かった。
途中で、塾へ通う小学生の一団とすれちがった。
「やあ」とぼくは言った。
その一団の中に、たぶん一人ぐらいは知り合いがいるだろうと思ったからだ。
「やあ」「やあ」「やあ」「やあ」「やあ」「やあ」「やあ」
小学生たちは一人残らず、ぼくに挨拶をすると、そのまま去っていった。
知り合いなど一人もいなかった。
礼儀正しい小学生たちなのだ。
しばらく歩くと、「故障中」と書いたビラが貼ってある自動販売機と長い間駐車しっ放しのシビックと家の前の落ち葉を掃いている中年の婦人が見えた。
ぼくの生涯最初の記憶はその「故障中」の自動販売機と埃のたまったシビックと落ち葉を掃いている中年の婦人で、いつそこを通ってもかれらは仲良く並んでいた。
かれらは永久に「故障中」の自動販売機と永久に駐車したままのシビックと永久に落ち葉を掃きつづける中年の婦人だった。
ぼくの心臓ははやがねのように打ち始めた。
倒れるかもしれない、とぼくは思った。
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マスターピース。
高橋源一郎の脳内世界を旅する294ページ。
野球というテーマは一見関係あるようで、ないようで・・・、やっぱり一応関係あるか。
でも、本作における「野球」という言葉は、全部何か違う言葉、「うどん」とか「ひまわりの種」とか「松本亨の株式必勝学」とか・・・そういうものに置き換えて読んでも、きっと何の問題もないだろう。
同じく作者の脳内世界を旅する感じで言うと、イタリアの巨匠イタロ・カルヴィーノの『見えない都市』とかあると思うんだけど、個人的には本書のほうが10倍くらい好きですね。
『見えない都市』はマルコ・ポーロの東方見聞録のパロディで、
「マルコ・ポーロが、主君であるフビライ・ハンに対して、自分が旅した架空の都市の話を延々語る」
という設定なのだが、奇しくも本作でも物語の最後の最後に東方見聞録(カルヴィーノ同様、こちらも内容は嘘っぱち!)が引用されていて、その奇妙な符合には驚かされる。
本書は、独立しているようで緩やかに繋がる7つの章で構成されていて、章ごとに文体もテイストも異なる。
Ⅳ章の『日本野球創世綺譚』のバカバカしさたるや悪魔的なのだが、ここでは、Ⅲ章「センチメンタル・ベースボール・ジャーニー」について語りたい。
本章は「野球」にとり憑かれた少年の冒険譚。
冒頭の抜粋(↑)でも分かるとおり、なんか、ロール・プレイング・ゲーム(RPG)みたいなんだよね、文章が。
何だか、後ろからどんどん急かされる感じ。
俺はこういうのを勝手な命名で「熱病系小説」と呼んでいる。
熱病系のいいヤツは何年かに一度しか出てこない。
だいたい熱病系小説は、作者も熱におかされたような状態で書いているから、作者が熱病から醒めてどーでも良くなった瞬間、物語は急激に失速する。
だから、いい加減なエンディングが、取って付けたように唐突に訪れるのだが、俺に言わせるとそんなとこも含め、熱病系の魅力なわけです。
まあ、ほとんどの人の趣味には合わないと思うけど。
いいんだよ、俺が好きならそれで。
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優雅で感傷的な日本野球 〔新装新版〕 (河出文庫) | |
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