『夜間飛行』

また靴を履いて出かけるのは何故だろう
未開の地なんて、もう何処にもないのに

『新訳 君主論』 マキアヴェリ

2012-03-03 | Books(本):愛すべき活字

『新訳 君主論』
マキアヴェリ(伊:1469-1527)
"Il Principe" by Niccolò Machiavelli(1514)※1532年刊
1995年・中公文庫
2002年・改版

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さて、こういう実例は、昔から歴史上、枚挙にいとまがないが、教皇ユリウス二世の最新の実例だけは、わたしはなんとしても見逃すわけにはいかない。

彼がフェラーラ征服を望んで、そのために、全面的に自分を外国人の掌中にゆだねた、そのときのやり方である。

これほど軽率きわまりないことはなかった。


だが、彼のばあいは、間違った決断の、果実を摘まれないですむ、意外な幸運がころがりこみ、第三の事態を生じさせた。

というのは、支援軍がラヴェンナでたたき潰されたとき、とつぜんスイス傭兵が立ちあがって、彼や他のすべての人の予想をまったくくつがえして、勝ち誇る敵軍を駆逐してしまったのである。


で、教皇は、すでに敵軍が敗走して、敵の捕虜にもならず、しかも支援軍とは関係のない兵力で勝利してしまったので、支援軍の捕虜にもならずにすんだ。

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心の奥底に

「何をやったって、人生は結局一緒なんだ・・・」

的な、ある種の無常観が巣食い出したのは、たぶん、かなり早い段階、俺の場合、具体的には小学校4年生くらいだったと思う。


でも、なんてったって当時はまだ若いし(若干10歳!)、クラスメートの女の子たちは可愛いし、休み時間のドッチボールは法外に楽しいし、北斗の拳は毎週面白いし、塾は嫌だったけど、そのあと家に帰って「俺達ひょうきん族」を見れるし・・・ってな事で騙しだまし来た。


全共闘後の脱力感とか言ったって、当時、日本の社会はまだまだ良くなると多くの人が信じてた。

アイススケート場の売店のめちゃくちゃ太ったバイトは、壁にすえつけられたTVが「夕焼けニャンニャン」を映し出した途端、おニャン子クラブの面々をそれこそ舐め回すように凝視しており、売店にアイスを買いにきた少年、つまり俺は、TVでなくそのバイトの兄ちゃんのニヤケ顔を凝視していた訳だが、その兄ちゃんの眼光からは、ある意味一片の迷いさえ見出せなかったわけ。

でも、西暦1500年頃のイタリアが諸外国(隣国フランス、新興の最強国スペイン、これらほど脅威ではないが、忘れた頃にチョロチョロと南下の兆候を見せる神聖ローマ帝国)に好き放題蹂躙されていた時、その中にあって弱小公国の君主たちの気持ちたるやいかなるものだったろう。


それこそ、君主になったって、先に挙げた国外の列強やら、チェーザレ・ボルジアみたいな残虐極まりないハネッ返りやら、その父で前代未聞の策略家である教皇アレクサンデル6世やらが、手ぐすね引いて我が領土と民衆を狙ってくる。


巨大な敵を眼前にして、これら弱小公国はどっかの大勢力に助けを求めるしかないんだけど、助けを求めた途端、今度はその勢力が領国内に居座って逆に脅しをかけてくるという、まさに八方塞り。

もう、なんなのコレ。

ああ、じゃあ死ぬよ、もう殺してくれよ!

そう言いたくなるようなやけっぱちな状況下でも、実は皆、領国を侵されると、命からがら闘争・・・ならぬ逃走をして、そんでほとぼりの覚めた頃にひょっこり現れて、君主への返り咲きを目論んだりすんだよよねぇ。

要するに、ハートが強かったんだ。


無常観に打ちひしがれてもいいようなろくでもない世の中なのに、実際は誰も、本当に打ちひしがれている暇はなかった。

どうして、こんなに強く生きれたのか?


マキアヴェリの簡潔ながら的を射た論旨にも、もちろん唸らされるわけだが、なんか、むしろそれよりも、この君主たちの生き様にすんげー惹きつけられるわけ。

狭いイタリアで、あの血も通わぬ若者、チェーザレ・ボルジアが暴れ始めた時なんて、みんな、どうやって心の健康を保ってたの?

もし俺がこれら弱小国の領主だったら、完全にブルって、書類を整理するとき誤ってホチキスで自分の手を綴じ込んじゃうんですけど。


要するに、おそらくチェーザレ・ボルジアみたいな身の毛もよだつ脅威があったからこそ、みんな逆に生き生きしてたんかも?

それはそれで、アリエールなお話ですよね。

強く生きたんじゃなくて、強くないと生きられなかった。


その辺の真理に触れたくて、何度も『君主論』を読み、その後、もう何度目か分からない塩野七生の『チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷』(1970)を読み、その後『ルネサンスの女たち』(1969)にいって、また『君主論』に戻る。

そんな無限ループを、個人的に何度も繰り返しているわけです。

『優雅なる冷酷』は、マキアヴェリの『君主論』の、言わば450年越しのスピンオフだからね。


本書、『新訳 君主論』に関しては、それこそ500年も前の本を、こんなに分かりやすい訳で届けてくれて、さらに単純に読み物としてめちゃくちゃ面白い解説を書いてくれて、訳者の池田康さんにお礼を言いたい。

500年前、実際にチェーザレやらフランチェスコ・スフォルツァと同時代を生きた賢人の文書をこんな風に手軽に味わえるなんて、なんか信じられないよね。


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新訳 君主論 (中公文庫BIBLIO)
Machiavelli,池田 廉
中央公論新社

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