「思考」は「行為」ではない。
けれども、わたしの自己破壊的な思考パターンは、自傷行為にとても近い。
もはや「自傷思考」と呼んで差し支えない。
さらに、それが「自動思考的」になっているのだ。
身体とともに在ること。
現実を俯瞰して観察すること。
気分や意識を切り替えること。
身体をケアすること。
様々な技を身に付けてきて、今気づくことがある。
わたしの「思考」は、まだ絶望しているのだ、と。
あらゆる物事の最悪のパターンを、豊か過ぎる想像力でありありとイメージし続けてしまう。
これは、ある面から見れば「予習」なのだ。
(もしもこんな最悪のパターンになってしまったら……)というシミュレーションの役割を持つ。
ただし、幼少の頃より磨きに磨きをかけてきた《最悪のパターンの妄想力》は、どんどんスケールが大きくなり、今ではほとんど現実離れしたものになっている。
ついには「自傷思考」と呼べるほどに、その「想像ストーリー」は「被害的で自己破壊的なビジョン」が多くを占めているのだ。
自身の内側に向いている自傷思考は、臨界点を迎えてしまうとき、外側に向かって「すべて滅べばいい」というような殺戮的思考にも変化するだろう。
今までも、自分の自傷思考について、立ち止まって見つめることはあった。
けれども、そんなときは、必ず退行していたように思う。
非力な子どもの意識に戻ることで、「わたしには耐えられない」という逃げ道が生まれる。
あるいは、「こんなことわからない」「自分に責任を持てない」など、放棄する感覚だ。
『自分がどれほど自傷的な思考を続けているか』という現実から目を背けるために、退行という自己防衛が働いたのではないだろうか。
「自傷思考してんなぁ」と気づくたび、そんな自分に腐りそうになる。
でも、耐えてみようと思うよ。