まずネガティブなことを考えてしまう。
ときに重箱の隅をつつくように、わざわざネガティブな部分をクローズアップさせてしまう。
そうして、結局なにもすることができない。
楽しむ余裕がないなんて、悲劇だよな。
こないだ、『自傷思考』というテーマの文章を書いた。
それ以来、自分の在り方が変わってきた。
甘いものを食べる。
甘いものを食べに出かけてみる。
こうしたことを、今まで全くしたことがなかったワケじゃない。
でも、質が、なんというか、すごくシリアスだった。
理屈を持ち出して言い訳をしなければ、ただ遊ぶことさえできず。
何か正当な理由をつけなければ、ただくつろぐことさえできず。
計算して合理的としなければ、ただ美味しいものを食べることさえできず。
そういうときのわたしは、罪悪感が服を着て歩いてるようなものだった。
『何もしないでいること』と同じくらい、『遊び楽しむこと』ができなかった。
そんな自分に、気づくことさえ、なかったなんて、悲劇だよな。
少しだけ掘り下げる。
例えば、食事中。
隙を作ることが、できない。
常に神経を張り巡らせる癖が抜けない。
他人の気を損ねないように、と。
そういう『他人の視線』が内在化していて、『自分を監視する自分の視線』ができてしまっていた。
だから、ひとりでいるときでさえ、常に気を張ることになってしまったんだ。
悲劇だよな。
それならば、意図的に、隙を作ればいい。
隙をなくしているのは、自分なのだから。
自分で、隙を作れるはずなのだ。
それは、「余白」や「遊び(カラの部分・余裕を含ませる)」に繋がる。
悲劇だったよな。
ちいさな気づきの積み重ねによって、大きな変化を感じるこの頃だ。
朝起きただけでいちいちシリアスになってる自分、隙あらば勝手に悪い想像をしている自分、……それら「自動思考」を「自傷思考」と名付けた甲斐あってか、「あ、自傷思考だ」と気づくのが速くなった。ポイっと捨てることもできるようになった。
悲劇の舞台から、降りることができる。
やってみたいことを、やってみる。
人の評価を気にする前に、純粋な好奇心で探求の領域へ。