【丹田に愛を】
原キョウコさんのエナジーエナジーダンス合宿の際に、たどり着いた感覚。
これから記すのは、「丹田にイチゴ牛乳」と思うまでの経過である。
(一応、笑うところである)
もとは「中心に愛を」という言葉だった。
もしも不安や恐怖があるのなら、「中心を愛にすり替えてしまう」と。
このとき、最初に感じたのは、わたしにとって恐ろしく馴染んだ『解離』の感覚だった。
本心を無視する感じ、本音を見て見ぬふりする感じ、心の内にシャッターを下ろす感じ、麻痺させる感じ、無理に取り繕う感じ……。
どうしよう、「思考の中心を愛にする」こと……、それとも、「心の中心を愛にする」こと……。
はて、中心とは一体どこなのだ。
解離し始める自分を見捨てぬよう、違和感に寄り添い続けていた。
そこで改めて考える。
「わたしは、合宿に何をしに行くのだ?」
……身体だ。
身体のことをしに行くのだ。
となれば、中心とは、『身体の中心』のことだ。
身体の中心とは、丹田である。
(ほかにも様々な捉え方があるが、割愛する。またいずれ書く)
【丹田に愛を】
そう想うと、解離はフッと落ち着いた。
わたしは、この実感を得ることができたとき、確かな成長の手ごたえを感じた。
「合宿の成果はもうこれだけでいい」と思えるほどに。
この体験をして以来、ときどき思い出すと【丹田に愛を】という呪文を唱える。
散歩してて、前から人が来たとき。
職場に向かうとき。
他人のことを考えすぎてしまうとき。
眠るとき。
しかし、これらは、自分のエネルギーを保てる余裕があるときに限られていた。
端的に言えば、近くに人が居ないとき。ひとりのときだ。
ひとり、丹田に愛を。
でも、つい最近、それが変化したのだ。
職場で「丹田に愛を」という呪文が浮かんできた。
こんなこと、今までは、なかったのに。
たくさんの人が居る場所は、数年前に比べれば穏やかにいられるようになったものの、すごく疲れてしまう。
わたしにとっては、まだまだ人のエネルギーに翻弄される場という認識だ。
だから、家でひとりでならできる呪文も、職場ではなかなか発動できないのだった。
子細に語ればこうだ。
・母もしくは他人の視線を内在化した「自分を監視する自分の視線」に怯える
・諸悪の根源はわたしの存在であるという壮大な思い違い
・自分は攻撃される対象だ、と思い込む
・自分の立ち位置を被害者に位置付ける
まだまだ、こうした感覚に陥る瞬間がある。
しかしだ。
どうしたことか、職場でおもむろに「丹田に愛を」が発動したのだった。
そうすると、いつもそうなるように、肚の部分がじんわりとぬくもりを蓄えた。
とても穏やかな振動が、肚を中心に全身へ広がってゆく。
だが、同時に、背中が痛んだ。
コレはアレだ、『恐れ』のサインだ。
つまり、わたしは、大勢の中で「丹田に愛を」という呪文を発動させることに、「恐れ」を抱いた状態になったのだ。
でも、この恐れへの対処は心得ている。
「恐れ」と認知してやるだけでいい。
わたしは恐れている。
大勢の中で「丹田に愛を」という呪文を発動させることに、「恐れ」を抱いている。
だって、ずっと身体を固めてきたから。
鎧で身を守ってきたから。
いつでも逃げられるように臨戦態勢でいることが癖になっていたから。
心を開かないように、シャッターを下ろしてきたから。
だから、じんわり広がろうとする愛という自分が怖いのだ。
職場で「丹田に愛を」ができたらどんなだろう。
きっと……。もっと楽で、ありのままでいられるようになって、不要な防御の嘘なんてつかなくなって……。
だから、唱え続けたよ。
作業をしながら、「丹田に愛を」って。
このプロセスは、また気が向いたら書くかも。
……。あ、オチ?
えっとねぇ~。
呪文を繰り返し過ぎて、何十回かに一回「丹田にイチゴ牛乳」ってなっちゃうバグが発生したんよ。
アイツならイチゴ牛乳かなって、たぶん一瞬だけ思っちゃったんだよね。
まぁ、ゲシュタルト崩壊とかヒューマンエラーとか、そんなんだろうよ。
なんか知らねぇが、すげえ面白かった。
「丹田にイチゴ牛乳!」
面白かったぜ☆