わたしにとって、遥かな救い
『観察』は
自分に対する『思考』ではない
『評価』でも『ジャッジ』でもない
観察は、ただ観察ということでしかありえない
このことは、わたしにとって、遥かな救いだ
それで、観察の視点には、何があるのか
静かな実感
身体にある事実
……なんとでも言えるが、なんとも言葉にならない
(今度一生懸命言葉にしてみるよ)
丁寧に、観察すること
観察の精度を、より細やかにすること
日々、誤魔化せない自分との、鍛錬のよう
……これを『修行』と呼ぶんだろうか?
観察は、日頃自分を貶める『思考』とは一線を画する
『評価』とも『ジャッジ』とも、似て非なるものだ
観察は、ただ観察ということでしかありえない
しかし、そこには、自分に対する『思いやり』のような時間が流れている
これらのことは、わたしにとって、遥かな救いだ
*追記
この地味で地道な探求は、ひとりではできない。
自分の身体に丁寧に触れることによって、『麻痺していた痛み』が蘇る瞬間が、幾度となく訪れる。
それは、とても孤独な体験である場合が多い。
けれども、わたしはこのような地道な稽古・修行を続けていこうと思えるようになった。
孤独な痛みの先に、「癒し」という言葉じゃ足りないくらいの平和があるのだと、身体がわかっている。
そして、このような体験を積み重ねてゆくことができる場を、つくり続けてくれている師匠が居る。
さらに、その場に集う仲間たちが居る。
ひとりじゃできない。
たった今この瞬間、『ひとりじゃできない』と書いた自分に感動している。