シャーマンの呼吸

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シャーマンの弟子

【観察について】その2

2024-03-03 00:00:00 | 備忘録

 

わたしにとって、遥かな救い

 

 

『観察』は

 

自分に対する『思考』ではない

 

『評価』でも『ジャッジ』でもない

 

観察は、ただ観察ということでしかありえない

 

このことは、わたしにとって、遥かな救いだ

 

 

 

それで、観察の視点には、何があるのか

 

静かな実感

 

身体にある事実

 

……なんとでも言えるが、なんとも言葉にならない

 

(今度一生懸命言葉にしてみるよ)

 

 

 

 

 

丁寧に、観察すること

 

観察の精度を、より細やかにすること

 

日々、誤魔化せない自分との、鍛錬のよう

 

……これを『修行』と呼ぶんだろうか?

 

 

 

 

観察は、日頃自分を貶める『思考』とは一線を画する

 

『評価』とも『ジャッジ』とも、似て非なるものだ

 

観察は、ただ観察ということでしかありえない

 

しかし、そこには、自分に対する『思いやり』のような時間が流れている

 

これらのことは、わたしにとって、遥かな救いだ

 

 

*追記

 

 

この地味で地道な探求は、ひとりではできない。

自分の身体に丁寧に触れることによって、『麻痺していた痛み』が蘇る瞬間が、幾度となく訪れる。

それは、とても孤独な体験である場合が多い。

 

けれども、わたしはこのような地道な稽古・修行を続けていこうと思えるようになった。

 

 

孤独な痛みの先に、「癒し」という言葉じゃ足りないくらいの平和があるのだと、身体がわかっている。

そして、このような体験を積み重ねてゆくことができる場を、つくり続けてくれている師匠が居る。

さらに、その場に集う仲間たちが居る。

 

ひとりじゃできない。

 

たった今この瞬間、『ひとりじゃできない』と書いた自分に感動している。

 

 

 



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