リカバリー志向でいこう !  

精神科医師のブログ。
弱さを絆に地域を紡ぎ、コンヴィヴィアルな社会をつくりましょう。

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Wounded healer ~recoveryへ

2009年09月01日 | Weblog
私が大学医学部を卒業したのは卒後臨床研修義務化の年の前年であった。
仲間と自習室にこもり国試の勉強にいそしむ日々。そこでは将来の進路や臨床研修先が話題となる。
私たちの期では大学病院に残らず市中の病院に行くのがブームであり、有名研修病院に決まったものは得意顔であり、なかなか進路が定まらぬものはあせった。
結局、過半数が医局や大学病院での研修を選ばずに全国の市中病院へ散らばった。

医師としての進路を決めていくきっかけは人それぞれであろうが、私の場合は学部6年生の時、地域医療インターンシップで北海道は当時の瀬棚町で村上智彦先生(現夕張希望の杜理事長)が中心の多職種でのチームが地域づくりにつながる医療実践をしている様子を目の当たりにして衝撃を受けたことが大きい。
地域医療はクリエティティブなベンチャーワークであると感じた。
自分も医師として農村や漁村でたくましく生きる人たちのそばに行きたいというロマンティシズムとセンチメンタルなヒューマニズムに駆られた。

いくつかの臨床研修先を検討し、縁があって長野県の佐久総合病院という病院で医師としてのスタートを切った。
「村で病気とたたかう」(岩波新書)で有名な若月俊一先生が育てた田舎の大病院である。
診療所をそのまま大きくしたような病院で「農民とともに」の精神で地域のニーズに応えるべく保健予防活動から在宅ターミナル、救命救急医療、高度医療まで全てを担っている。翌年からはじまる卒後臨床研修義務化に備えて例年より多めに採用された同期は19人もいた。

同じ臨床研修プログラムであってもそれぞれ感じるもの、身につけたものはまるで違うものらしい。
全国からあつまった同期には、疲れを知らぬマシーンのような人や、手技でも学会発表でも要領よくこなす人、目的意識がはっきりしており確実に夢に向かっていく人もいてあせった。

そんな研修の同期も多くが佐久病院を離れてそれぞれの道へ確実に歩んでいる。今でも年に一度は同期と集まるが、佐久総合病院育ちというのが自分たちのルーツだという思いでは共通している。

やがて初期臨床研修後の進路を考えなくてはならない時期がきた。
いくら医療が発展しようとも障がい者や高齢者は地域で生きていかなければならない。
彼らのいのちと生活を支える技術を身につけたいと思った。どんな障がいがあろうとも、その人の役割はたくさんあり、自分らしく生き抜くことができるはずだ。
地道な医療実践は地域づくりにもつながると考えリハビリテーション科を進路として選んだ。

障がいをもちながらもリカバリーを果たし支援を得ながら地域の中でたくましく生き輝いている人もいれば、投げやりになり引きこもっている人もいた。発狂した人もいれば、自殺企図をされたこともある。どうにもならないもどかしさを目の前に医師や病院に怒りとしてぶつけてくる人もいた。

医師になって4年目にそれまで療養型病床として使用されていた病棟を回復期リハビリテーション病棟へ転換する事業にかかわることになった。だれも他にやれる人がいなかったので訪問診療や診療所、精神科や内科でのローテート研修をあきらめ、専従医として手をあげた。地域の第一線での医療への未練もあったがチャンスだとも思い張り切っていた。振り返ると自分には、こういうパターンが多い。根がそそっかしいのである。

回復期リハビリテーション病棟の役割は院内あるいは他の急性期病院からリハビリが中心となる患者を集め、集中的なリハビリでADLを向上させ、可能な限り自宅へ復帰させることである。
かつて佐久総合病院にもいたことのある回復期リハビリテーション病棟の生みの親の石川誠の後をおい総合病院として理想の回復期を立ち上げるのはエキサイティングなチャレンジだったがさっそく様々な壁にぶち当たった。(参考)

しかしそれぞれでバラバラな病棟スタッフ、リハセラピスト、各科の医師などをまとめるのは駆け出しの後期研修医にはかなり荷が重い仕事であった。条件に当てはまらない患者さんを追い出したり、規定の時期をすぎた患者さんのリハビリを打ち切ったりといった仕事は心身に応えた。
また定型書類の作成など苦手な仕事が多く、自分の仕事をするために、最低限の仕事をそつなくこなしたり、上司や同僚に活躍してもらいその機能を活用するというスキルは当時の自分は持ち合わせていなかった。

仕事を奪われたように感じたためだろうか上司はいつの間にか手を引いた。はしごをはずされたような状態の中で一人空回りしていた。意地になって、他の回復期リハビリテーション病棟などへも見学にもき、院内で勉強会を開催したりした。また院内の情報共有をスムーズにしようとシステム科とともに手製の電子カルテもどきを作り導入した。
一方で同期に遅れをとりたくないと毎週の救急外来の当直も続けた。後輩研修医や他科の医師とともに仕事ができる貴重な機会であった。増え続ける救急患者への対応は後期研修医が中心で当直は忙しく眠れないのに翌日も休める体制はなかった。
当直で、入院させた患者を内科各科に頼んで回り、頼みきれない患者は自分で退院までみた。後期研修医は疲弊しており、これでは続かないと同期らと救急医療体制の整備をもとめて改善案を出し、院内や病院の幹部に訴えた。結局、当直回数が増える代わりに当直者数が増やし、きちんとした引継ぎの体制を整備するという見直しをされた。
病院の外へも窮状を訴えていくことになった。
不思議な高揚感があった。

今からみれば、完全な軽躁状態であった。

回復期リハ病棟には在院日数の制限があり、リハビリのゴールを達成し期間がすぎた患者さんや家族へも退院を迫らなければならない。
自宅復帰の条件がととのわず、なかなか退院できない患者さんもいる。
そんな時に院内ではあまり見かけず何しているかもよくわからない上司?が「何をやっているんだ、おれならもっと早く退院させられているぞ。」という言葉をあびせかけてくる。
そして私がいかに仕事ができていないか、人間としてダメであるかを文章や電話で繰り返し言われた。
怖れ怯えて相談もできなくなり、ますます仕事がうまくいかなくなった。患者さんの家族と感情的にこじれたケースで矢面に立たされても、見て見ぬふりをされた。
私が根を上げ、燃え尽きるのを待っているように見えた。

いまおもえばいい経験をさせてもらったのだと思えるが、当時は大変だった。
しだいに消耗し、疲れているのに眠れなくなり、めまいや吐き気、ものすごい肩の張りなど症状におそわれるようになった。
自分のために患者に不利益を与えてはいけないと、なんとか病院に行っても半日かけてやっと病棟へたどり着き、そそくさと回診し、患者の前からも逃げるように立ち去る毎日であり、発作的に何かしでかしてしまいそうな衝動に繰り返し襲われた。
院内PHSがなるたびにビクビクしていた。
自分にまとわりつくすべてのものがうっとうしく、世の不幸はすべて自分が原因であるのではないかと思った。
コンビニでは商品の発する、「買え、消費しろ、繋がるな。」というメッセージで頭がクラクラした。
私がいまあるいは過去に所有したものがすべて自分に襲いかかってくるような気がした。申し訳なさで一杯であった。
何から手を付けて良いかわからず優先順位は狂い、多様な選択肢も見えなくなり、死を思うようになった。コミュニケーションを拒絶する上司を呪った。うかつに動けば危ないと毎日ぐったりとしていた。

今からみれば、完全なうつ状態であった。

なんとか生き延びることができたのは、同期や同僚、先輩があたたかく見守ってくれたおかげである。
ソファーでぐったりしていると「何かしそうになったらいつでも必ず俺に連絡をしろ。」と言ってくれた先輩もいて涙が出た。
うつを経験した小説家兼呼吸器内科医の先生のお話もありがたかった。食事に誘ってくれた大先輩もいた。
救急外来から入院させた患者さんも同期がかわりにみてくれたこともあった。(最後まで自分が診ると抵抗したが、「そんな状態で診られる訳ないじゃないの。」と厳しくいわれた。危なっかしくてみていられなかったのだろう。)
「先生は面談にでてくれるだけでいいから」、とケースワーカーも退院調整などで動いてくれた。
患者さんや障害をもちながら地域で暮らす人たちにも元気をもらった。

同期の後期研修医がリハビリ科にローテートしてくるのを待ち、地域ケア科(在宅医療福祉部門)に移らせてもらった。
重い体を引きずりながら病院に向かい、負荷を減らし訪問診療中心の業務に関わらせてもらうなかで、たくましく地域で生き、そして旅立っていく患者さんに癒されていった。
少しずつ周りのものを整理して、自分のできないこと、苦手なことは他人に任せられるようになった。そうして徐々に立ち直っていった。

その後も相変わらずアイドリングは不調で、どうにも無理のきかない身体になってしまったが、こうした経験を通じて物事がよく見えるようになった。
医師をやめることもかんがえたが、結局、佐久病院を離れ他の総合病院の精神科に移った。
精神科医療には自分が学ぶべきものがたくさんある気がした。
セルフケア、患者との距離のとりかた。依存させないパートナーシップ型の医療。自分のコントロール願望の扱い。精神障がいという見えない障がいや、家族を含めその人を取り巻く環境、生活史のアセスメント。多職種でのチームアプローチ。医療の枠組みに収まらない患者さんとのかかわり。どうにもならないことにも逃げない不逃力、そして自分の内外の差別や偏見との戦っていくこと、などなど。

よろず相談所的な精神科医療はあまり切れ味のいい武器もない中で「あらゆる問題について使えるものは何でも使って何とか解決を付けようと考える、そして解決できないものでも中腰で耐えながらかかわり続ける。」というスタンスにおいて医療の原点ともいえる。そしてその現場では社会の抱える問題点などがよく見える。人の弱さと向き合う診療ではつねに自分の弱さを自覚させられる。

グローバル資本主義経済はメディアを通じて「あきらめるな」と言うメッセージを絶え間なく発し、進歩はあるが調和のない科学技術とあいまって人と人とのつながりをバラバラに断ち切ってきた。マイカー、コンビニ、ショッピングセンター、携帯、インターネットなどでバラバラにされた個人は消費者と名付けられそれぞれにモノを買わされ、連帯して文句を言うこともない。一方で老いや死、障がいなどは忌むべきものとしていつも人々の見えないところに隠されひっそりと処理されてきた。

しかしいろんな弱さをもった障がい者が地域で堂々と生きていくということには、弱さを絆として人々を結びつけ、バラバラになった地域社会を紡いでいく力がある。
社会を「みんなちがってみんないい」、どんな障害があっても安心して生きていけるユニバーサル社会へと変えていく力がある。老いや死、障害とともにある生活を医療の側から支える。
病院で見える地域社会のニーズをそのままにせず運動にまで高め実践する。

それが私のたどり着いた医療実践である。にぶくなることなく、めげずに続けていきたい。