リカバリー志向でいこう !  

精神科医師のブログ。
弱さを絆に地域を紡ぎ、コンヴィヴィアルな社会をつくりましょう。

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iPadレビュー

2010年01月30日 | Weblog
アップルが「iPad」というタブレット型のビュアー?PC?を出すという。



みんながワクワクとテクノロジーの進歩の結晶である未来的な次の製品(むしろExperience)をまつという感覚は、なんとなく懐かしいような感じがする。
10年前ではいくらお金をつんでも手にする事は不可能な製品だっただろう。

早速、アップルのアイコンであるスティーブジョブスらのキーノート(1時間半程度)をみた。
さすがにプレゼンは上手で見入ってしまった。

Apple iPad

iPadはiPhoneとMacBookの間に位置する存在として開発された。
iPadは単にMacBookからキーボードを除いたもの、あるいはiPhoneを大きくしたもののように見える。
しかしiPadはPCや携帯電話の延長線ではなく、クラウドの彼方(インターネット上のサーバー群)にあるさまざまな情報を、気楽に寝転びながら得る事の出来る端末と考えればこれまでにない完成度のものになる。
ポケットには入らないが、かばんにらくらく入りどこにでも持ち運べる。

思えば私は4年ほど前に大体富士通のFMV Loox PというタブレットPCにPHSカードをさして寝転んでウェブを閲覧したり、これがそのまま電子カルテならと思いながら仕事中にずっと持ち歩いたりしていた。
PHSの通信速度は遅かったが、どこでも手軽にインターネットが使えるというのは快感であった。
いま考えるとネットブックとiPadを先取りしていたことになる。
Loox PはちょうどiPadくらいの大きさであるが重さは倍くらいの約1kgである。

リアルでなければならない食べ物や服などを除けばiPad(そしてiPhone)ひとつもって出かければ、自分のもつ書類から本から音楽からビデオから全て持っていくのと同じことになる。iPhoneでは小さくてみる気にならなかったものもiPadの大きさなら簡単に見ることも出来る。
直感的なタッチインターフェイスで新聞などもらくらく読めるらしい。

マイクロソフトに押される一方のPCのメーカーであったアップルは、ソフト、ハード、販売のシステムを全て自前でもつという他のメーカーには真似の出来ない立ち位置から魅力的な商品やサービスを提供し他分野のマーケットに食い入り見事に復活を遂げた。

もはやアップルはパーソナルコンピューターの基本ソフト(OS)のメーカーとしてマイクロソフトとたたかおうとはしていない。
ハードウェアのメーカーとしてソニーやIBMとたたかおうとはしていない。
日本のメーカー(例えばソニー)なら同様の製品、いやもっとすばらしく使いやすく洗練された商品を作る事はきっとできるかもしれない。
しかし販売戦略などを含めたシステムを今からつくり巻き返すのはもはや不可能に近い。
アップルはオンライン通販のアマゾンや、インターネットの検索を中心に足場を広げるGoogleともまた違う立ち居地にいる。

アマゾンはKindleという独自のブックリーダーを既に開発し販売しているが、iPadとiBookstoreの完成度、Appleの戦略の前にはあっという間に飲み込まれてしまいそうだ。

iPodとiTuneのインフラはすでに完成され、iPhoneで携帯電話・端末のマーケットに食い入り改良を重ねてきた。

ロックインされた我々がスイッチングコストを支払って乗り換えるほどの差のある魅力的な商品(システムも含めた)を創りだすのは相当大変だ。

他のプレイヤーはアップルのつくったインフラの中でソフトウェアメーカーとしてたたかうか、アップルとは正面からたたかわずニッチなところから、あらたなマーケットを見出していくしかない。

そしてiPadとオンラインのインフラを使って、出版業界、ゲーム、放送、映像や映画のレンタル、販売、教育、医療などのマーケットにぐいぐい進入する勢いは誰にもとめられない。
血みどろの海で弱肉強食の激しい生存競争をすることなく、敵のいない青い海(ブルーオーシャン)をゆうゆうと一人すすむアップルという構造が見える。

iPadは499ドルから(3G無しモデル。16GB)と決して高価ではない。
しかしそれを利用し、ある程度まとまった有益な情報や体験を得るにはお金がかかる。そういう意味では社会インフラといえる。

出版のコストが極限まで低下し、だれもがライターや編集出版、そして放送局になれる。
大きな企業にとっては脅威ではあるが、個人や小さな企業にとってはチャンスである。
コネやお金の有無にかかわらず、純粋に才能と実力で勝負できるという意味では喜ばしい時代かもしれない。




お酒を飲まない若者たち

2010年01月26日 | Weblog
最近の若者はあまりお酒を飲まないようだ。


私が学生だった頃、部やサークルでは飲み会と言えば大騒ぎし一気飲みなどをする文化があった。
新入生の勧誘の時期にサークルなど組織ごとで飲み会の文化が違うのを面白く観察したものだ。
そして明るくなるまで飲み屋をハシゴしながら語り合う空気もあった。
そのころ新入生への一気のみの強要で急性アルコール中毒での死者が相変わらずでており問題となっていた。
飲酒の講習会への出席を義務づけられたりしていた。
そこではアルコールパッチテストをやったりしていた。
それでも吐いたりしながら、飲み方を覚え、それぞれの適正酒量というものを覚えた。

私はお酒を飲むとわずかに脱抑制し、さらに飲むと鎮静がかかって眠くなって寝てしまう。
だから最初のビール中ジョッキ1~2杯で十分である。(でもこれは飲みたい。)
飲酒すると少量でも翌日には肌が荒れたり頭痛がしたり引きずる。
アルコールは多少分解できてもアセトアルデヒトの分解は遅い体質のようである
であるから飲み会では自分はなるべく飲まないようにチビチビやるようにしている。

最近は飲酒運転に対する厳罰化もあり、とくに地方ではお酒を飲む機会自体が減ってきているようだ。
飲み会でお酒を薦められても断ることもおかしなことではない雰囲気となった。
交通事故死が減っているのも飲酒運転の厳罰化による効果もあるだろう。
アルコール依存症の患者さんを診療している立場からはお酒を飲まなくなること自体は悪いことではないと感じる。
酒害に対するプロモーションも盛んだ(下の写真参照)。



こうした取り組みが功を奏したのか酒害に対する認識は広まり、若者世代はあまりお酒を飲まなくなっているようだ。

一方でコミュニケーションのスタイルも変化し、お酒をツールとして用いつつ職場外で気軽にまじめな話をしたり、愚痴を言い合ったりする場が減り職場のメンタルヘルス体制は後退しているかもしれない。



しかしスーパーでは未だに大きなペットボトルに入った安い高濃度アルコールの焼酎が並んで売られているところをみると、大量にアルコールを摂取する人は多いのだろう。
こういった酒を求める人は、酒というよりエタノールと言う物質を求めている可能性が高く依存症となっている可能性が高い。
常習飲酒家は日本酒に換算して 1 日 3 合以上を 5 年以上飲酒する者、大酒家は日本酒に換算して 1 日 5 合以上、10年以上の飲酒家を指す。
大酒家は高率に肝硬変を発症するし、断酒で離脱症状がでる可能性も高い。
適正な飲酒習慣とは言えない。

お酒をコントロールして飲むことが出来なくなり、生活や身体に支障がでてくるようになるともうアルコール依存症である。
そうなってしまうとノーマルタイヤでブレーキの利かない車で冬道を走るようなものだ。
あまり良い死に方はしない。

呼吸器内科医はタバコよりもお酒がましだと考えるかもしれないが精神科医はタバコより酒の方がずっと怖いと考える。
タバコで肺がんや肺気腫、咽頭喉頭がんなどのリスクは増えるが、少なくとも人間関係や立場、家族まで失うことはない。
依存症になる前段階、プレアルコホリックの時点での介入がプライマリケアでの一大テーマである。

アルコール依存症かどうかはCAGEという質問でスクリーニングをおこなう。

 C:飲酒量を減らさなければならないと感じたことがありますか。(Cut down)
 A:他人があなたの飲酒を非難するので気にさわったことがありますか。(Annoyed by criticism)
 G:自分の飲酒について悪いとか申し訳ないと感じたことがありますか。(Guilty feeling)
 E:神経を落ち着かせたり、二日酔いを治すために、「迎え酒」をしたことがありますか。(Eye-opener)

2項目以上あてはまる人はアルコール依存症の可能性が高い。
生活や身体に悪影響が出るまえに、お酒の飲み方について専門家に相談すべきであろう。

もっともお酒の文化の変化によって酒どころである当地では酒造が倒産したり農村部の冬の仕事である杜氏の仕事が減ったりと影響は大きい。
日本酒の出荷量もピーク時の三分の一にまで落ち込んでいる。
全国に点在している零細な造り酒屋は、大きな販売店が値段を決める大手の安売りの酒との価格競争に勝てず廃業も相次いでいると言う。
日本酒を楽しみながら飲むという文化が失われるというのも悲しい話ではある。

日本国憲法入門

2010年01月24日 | Weblog
最近、また憲法というものに興味をもっている。
中学、高校の公民の授業、そして大学の時に教養で「憲法学」という授業を一応受けたはずだがその時は全く覚えていない。
しかし憲法の意味は、立憲君主制をとる国家に生きる市民として知っておくべきものであろう。

憲法が、あまたある法律の親玉であるという見解は半分はただしいが半分はただしくない。

憲法が何のためにあり、誰のどのような行為を制限しているのだろうか?
条文をみてもらえば分かるが憲法は国民を縛るルールではない。
憲法は為政者が勝手なことをして暴走しないように縛るためにうまれたものなのである。
立法、行政、司法に関わる人。具体的には公務員を縛っている。
すべての法律や命令は憲法に乗っ取っていなければならないし、公務員は憲法に則って働かなくてはならない。
大事なものであるから憲法を改訂するのは普通の法律より改定は厳しい。国民の総意が必要である。

憲法違反が疑われる(たとえば生存権の侵害)なら裁判で申し立てる違憲立法審査権というのがある。
憲法は国民を守るものであるが、国民の不断の努力で維持につとめなければ憲法は守れない。

会社組織でいえば「理念」が憲法にあたるだろう。
組織というのは理念を共有する人の集まりであるから理念は簡単に変えることはできないだろう。
トップが変わって、会社の方針が代わり、おかしな方向に走り出した時に理念が明確になっていればおかしいと言える。
あなたは自分の組織の明文化された「理念」を知っているだろうか?

日本国憲法は当時の憲法学の最新の知見を盛り込まれているだけあってじつによく出来ている。

しかしその憲法に血は通っているだろうか。
憲法というルールをめぐり為政者と市民が緊張感をもち対峙するなかでこそ憲法は活きるのである。
市民は為政者、公務員の違憲行為にもっと敏感でなくてはならない。

それでは実際の憲法をみてみよう。

第97条 
この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである

第99条 
天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

  ・・・憲法が為政者(立法、司法、行政)を縛るものであることが分かる。国民、市民については述べられていない。

第98条
[1] この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
[2] 日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。
 
 ・・・憲法に反した法律や命令は無効である。


第96条 
[1] この憲法の改正は、各議院の総議員の3分の2以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。
[2] 憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。

・・・改正には厳しい条件がつけられている。国民投票が必要である。

第25条(生存権)
[1] すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
[2] 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

  ・・・憲法でおそらく一番重要な条項。生存権といわれるものである。
     健康で文化的な最低限度の生活とはどのようなものだろうか。
     医、職、食、住、遊、友があり、医療、教育が保証された状態。
     生活費としては生活保護の受給額が具体的な数字になると思われる。


第27条
[1] すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。
[2] 賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める。
[3] 児童は、これを酷使してはならない。

  ・・・勤労の権利を有する。ワークシェアリングが推奨されねばならない。

第12条 
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

  ・・・この部分が国民(市民)に関わる部分。
     いくらよい憲法でも使われなければ意味は失われてしまう。
     声をあげていかねばならない。
     

フィットネスの意味

2010年01月17日 | Weblog
ラーラ松本(ごみ焼却場の廃熱利用施設)のプールに行って泳いできた。

温水プールといっても水に慣れるまでは冷たいと感じることが多い。
しかしラーラのプールはかなり温かく最初から冷たさは感じなかった。
さすが廃熱利用施設である。


私はダラダラとのんびり泳ぐのが好きだ。
何も考えずに泳いでいると頭がリフレッシュされる。
体のためと言うよりは頭のために泳ぐ。
ゆったりと泳いでいるとバラバラになった頭と体が統合される。
他にも何人かゆったり泳いでいる人がいた。

実は私は大学に入ったばかりのころ何か運動の習慣をつけようとおもって学部の水泳部に所属していた。
別に深い意味はない。数ある部のなかで一番ぬるそうで健康スイミングサークルというノリだったからだ。
プールにつかり、くっちゃべりながらダラダラ泳いでメシ食って帰るという雰囲気で兼部(天文同好会と)していてもOKということも気にいっていた。

しかし、一つ下の学年の後輩(国体選手)が体育会系モードに変えてしまった。
そして、メニューをしっかり作ってビシビシ泳ぐというノリにかわってしまってから部内でマイノリティとなり行きづらくなったのだが・・。

しかし、泳ぐ楽しさというのを知ることができたのはよかったとおもう。
マスターズスイミングってのもあるしね(出たことは無いけど。)

都会のヤングエグゼグティブ(ヤンエグ)は朝からフィットネスジムに通ったり泳いだりするものらしい。
そういえば都会やベッドタウンの駅前にたいていフィットネスジムがあるようだ。
また、夜も遅くまでジムやプールが開いていたりする。

フィットネスは頭と体をフィットさすこと。
頭脳労働や感情労働でオーバーヒートした頭を自然の一部である体にあわせる。
そしてやりたいことをやりつづけるために体を動かし健康を維持、増進する。

当地はプールまで30~40分は車で移動しなければたどり着けない。
そして夜遅くまではやっていない。
なかなか行くのは大変だが、今年は週1回くらいはなんとか運動をつづけたいものだ。


「アバター」まぢヤバイっす。

2010年01月15日 | Weblog
新作映画「アバター」みてきました。
これはまぢヤバいっす。っていうかスゴすぎ。



「米CNNが12日に報じたところによると、その美しい世界から離れることの不安感からファンサイトで「うつ状態」を告白するアメリカ人もいる。これには1000件超ものコメントが付いているという。さらに、「自殺を考えた」というファンも出ているという。」
という話をきいて、猛烈に見たくてたまらなくなり、ちょうど現実逃避をしたかったので松本シネマライツまで(片道40分)レイトショーで見に行ってきました。

残念ながら3D上映ではなかったのですが・・・。

いやーため息が出るほど実にすばらしい映画でした。
タイタニックのジェームズキャメロン監督自体が、「CG技術が追いつくまで待った」というもので実に構想14 年&製作4年を費やした入魂作だそうです。

CGを感じさせないリアリティで圧倒的に作りこまれた映像のディテール。
美しくも迫力のある映像がまったく出し惜しみされることなく全編にわたり次々と繰り出されます。
違和感の無い美しい自然の描写、クリーチャーとの合成や激しいアクションシーンなど一体どうやって作っているの?という感じ。

舞台となる惑星パンドラは大自然には未知の動植物が生息し、 息を飲む幻想美と生命力に満ちあふれていました。
そしてそこの自然と共生する原住民ナヴィの人たちの文化や暮らしは、地球各地の先住民族や私たちの祖先へのオマージュです。
イマジネーションにあふれている一方で不思議なリアリティがあり、当初感じていたナヴィの人たちへの違和感は徐々に薄れ、ストーリーがすすむにつれ彼らに感情移入していきます。

惑星パンドラ見物に行くつもりでみるだけでも十分に楽しめます。
(キャメロン監督も語るように、風の谷のナウシカやもののけ姫など宮崎駿監督のアニメを彷彿させるシーンや展開もあり・・・。)



ストーリーは詳しくはあかせませんが、ひとりの若者がひとつの星の〈希望〉を担う存在にまで成長を遂げる物語です。
これまた、ディテールにいたるまでしっかりとつくりこまれています。
一大スペクタクルを描ききった古代神話のようでもあり、ファンタジーでもあり、ラブストーリーでもあります。
強欲な人類と純粋なナヴィの人たちを対称性は、われわれの現代文明(特にアメリカ)のあり方に警鐘を鳴らすリアルで強烈なメッセージ性もあります。
主人公が対麻痺で車いすの海兵隊あがりの青年であるところなどの細かな設定が実に憎いです。
物語自体はシンプルで分かりやすく映画の世界観に没頭できます。
これなら、たとえアラビア語の吹き替え版で字幕がなかったとしても十分楽しめるでしょう。

スターウォーズ、ダンスウィズウルブズ、風の谷のナウシカ、もののけ姫、天空の城ラピュタ、平成狸合戦ポンポコ、プラトーン地獄の黙示録、エイリアン、ジュラシックパーク、タイタニック、マトリックス、7月4日に生まれて、ピノッキオ、ドラえもんのび太の宇宙開拓史、などを合わせたような感じかな。
なんのこっちゃ。

とにかくこれまでの映画とはいろんな意味で次元が違います。
既存の映画の枠を超えているというか・・。

この映画は絶対に映画館でみるべきですしょう。
何も考えずにその世界に没頭して体験してください。

これは本当にアバター後遺症が心配。
今度は是非3Dでも見てみたいものです。どうなっちゃうんだろう。

キャメロン監督の中では、本作の2作目、3作目の構想がすでにあるということでこちらも楽しみです。

それでは皆さん。さよなら、さよなら、さよなら。

アバターオフィシャルサイト

移動式、石焼きイモ屋さん

2010年01月12日 | Weblog
焼きイモ屋はもっとも簡単にはじめられる小規模ビジネスの一つである聞いたことがある。

焼きイモ屋を始めるにあたって用意するものはそれほど多くは無い。
焼きイモをつくるストーブ(釜)があればよい。
プロパンガス式のものもあるが、薪を使うものであれば釜はドラム缶などを改造してもつくれそうだ。
焼く設備といいサツマイモさえ仕入れることが出来ればおいしい焼き芋を作るのは容易である。
しっかり熱を通すものだから新鮮なイモさえあれば衛生面でも心配ない。
開業するのに特別な許可も不要で包むものも新聞紙で十分である。

 →やきいも工房HP

冬の間、病院の前の駐車場の脇に移動焼きイモ屋が来ている。
そういえば前の病院のときにも駐車場脇に焼きイモ屋さんがいた。

ずっと気になっていたのだが、初めて買ってみた。
軽トラックの荷台に鉄板を溶接して組み合わせてつくったストーブが乗せてありホロがかぶせてある。
ストーブは下部に薪をくべるスペースがあり、上部は保温室とイモを焼くスペースに分かれている。
ストーブの脇にはたくさんの薪が乾かされている。
ご主人は温かい軽トラックの運転席で客待ちをしている。

よく出来ていると思った。

保温室から取り出してくれたのはベニアズマの石ヤキイモ。

結構大きな焼きイモが1コ300円。
わりと安い値段だと思った。

しかも焼きすぎたものを1コオマケでもらった。
かなり食べごたえがあった。

ご主人は隣町から来ていて、平日昼間はたいていそこにいるそうだ。
診察待ちの患者さんが買っていったり、入院中の食べられなくなった患者さんにイモを差し入れて、元気になったりといろんな物語も生まれる。

この地域で3人ほど同様の仕事をしているそうだがなかなか厳しいそうだ。
シーズンも過ぎ、サツマイモも値上がりして、ガソリン代と薪代で足がでてしまうこともあるとのこと。

スキー場などでは場所代を取られることがあるが、病院前の道路わきのスペースはそういうこともないそうだ。
大学祭のときの模擬店を思い出してしまった。(今考えると、あれはダスキンレントオールが儲けただけだった。)

冬の間はいるそうだから、ちょくちょく通って常連になろう。

ビジネスをはじめようとする人がいきなり店を出すのはリスクが高いだろうが、移動販売ならはじめやすいだろう。

都会ではホームレスの支援としてビッグイシューという雑誌の販売などが行われている。

こういった移動販売、精神障がい者の就労支援として使えないものだろうか?と考えてしまった。

政府、障害者の定義を見直しへ

2010年01月11日 | Weblog
政府は障害者の定義をこれまでの「障害があるため継続的に日常生活又は社会生活に相当な制限を受ける者」から「社会参加に支援やサービスが必要な人」との考えを基に抜本的に見直すという。

その意味するところは医療モデルから社会モデルへの転換である。
やっとといういう感じであるが、障害学という学問分野では「障害の文化モデル」というのが主張されている。
障害の文化モデルとなると障害者はどのように定義されるのだろうか?

・障害者=マイノリティの差別禁止。
・当事者のことは、当事者が専門家であり当事者が決めるという当事者主権。
・それから弱者のProtection and Advocacy.

まだまだ考えていかなければならないことは山積みであるが、まずは一歩前進したといえるかな。


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毎日新聞より

障害者:定義見直し 「社会の制約」考慮、あす初会合--政府

 政府は、身体障害など「障害者」の定義の、抜本的な見直しに乗り出す。従来は個人の問題として心身の機能に注目する「医学モデル」だったが、社会参加を難しくしている社会の側の問題を重視し、必要な支援を把握する「社会モデル」への転換が狙い。「障がい者制度改革推進本部」(本部長・鳩山由紀夫首相)内に設置され、12日に初会合を開く「推進会議」で議論に入る。

 障害者については、障害者基本法で「身体障害、知的障害、精神障害があるため、日常生活または社会生活に制限を受ける者」と定める。さらに、身体障害者福祉法など障害ごとに福祉法令があり、それに基づき障害者自立支援法や障害者雇用促進法などが運用されてきた。例えば身体障害では、視覚や聴覚、肢体のほか、腎臓や心臓の障害、HIVは対象だが、多くの内臓や免疫系などの障害は対象外だ。

 しかし、対象外の人でも社会参加が難しい例は少なくない。見直しでは、障害者は「社会参加に支援やサービスが必要な人」との考え方を基に、経済状況や住環境などを踏まえて障害者として認定する定義のあり方を検討する。

 政府が07年に署名した国連障害者権利条約は障害者について、「障害のある人で、さまざまな障壁との相互作用で、平等に完全に参加するのを妨げられる」状態などととらえる。日本は条約を批准していないが、鳩山首相は昨年12月の改革推進本部設置の際、批准へ向け法整備を急ぐよう指示した。

 見直しは、障害福祉だけでなく雇用や教育など国内法全体に影響。推進会議メンバーで車椅子を使う尾上浩二・DPI日本会議事務局長は「障害を個人の問題でなく、移動や就労など参加を難しくしている社会の制約の面からみる。参加に必要な支援を促すもので、大きな転換となる」と指摘している。【野倉恵】

障害学の主張
 石川 准,倉本 智明
 明石書店


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条例のある街―障害のある人もない人も暮らしやすい時代に
 野沢 和弘
 ぶどう社


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障害を文化と考えるのは実用的 ニキリンコ

一般開業医の訪問診療

2010年01月08日 | Weblog
本日は医師会の新年会だった。
(自分は医師会員ではないが病院から参加・・)

こじんまりとしており仲の良い医師会だ。
当地で開業されている医師会の先生方はみな気さくで、フットワーク軽く往診するような雰囲気がある。
いわゆる「町医者」という雰囲気の先生が多く、たんたんと医療実践をされいる。

在宅医療に関して、何人かの先生方にお話を伺ったところ、だいたいの先生が一桁の在宅の患者さんを定期的に訪問していた。
在宅医療支援診療所をとってる方はいなかった

訪問診療に関しては午後に訪問の枠をつくったり昼の時間に往診をしたりと様々であった。
病院勤務のときの専門性を活かし、癌ターミナルをみている先生もいらした。
携帯電話を常にもち、なるべく出るようにしているとのことで大変そうであった。

苦労しているのはやはり情報共有と連携らしい。
カルテの記録を訪問看護ステーションにFAXしたり、電話で連絡したり。
ベッドサイドの情報共有のノートもあるにはあるが詳しいことや本音は書けないとのこと。
主治医は家で最期まで行けると思っていても、遠くの親戚の横やりなどがあり、残念ながら最期の最期で病院に任せてしまうことになってしまうケースも多いという。

日中独居や高齢者のみの世帯の増加もあり、在宅医療の限界も感じている先生も多かった。

一般開業医にとって在宅医療にシフトせず、少人数のみの訪問診療だと大変な割には診療報酬などによる見返りは少ない。
たとえ在宅専門ではなくても、開業の先生方がずっと診ていた患者さんを最期までフォローできるような体制が作れると良いのだが・・。
(救急車で来るとしてもかかりつけ医からの連絡や紹介があればかなり違う。)

地域在宅登録制度(Webを活用した情報共有)や、地域の二人主治医制、在宅支援医療病棟や、病院からのバックアップ訪問診療・緊急往診体制の仕組みが出来ないものだろうか。


「あきこうまえ茶屋」の番組再放送

2010年01月06日 | Weblog
以前、深夜のTVでたまたまみた「あきこうまえ茶屋」の話。

 


高校生が集い、また様々な年代も訪れ、愛されていた駄菓子屋。
「あきこうまえ茶屋」。
(あきこうとは秋田工業高校のこと)
放浪の旅を続けていた一人の青年が、閉じられそうになったその店を引き継いだ。

その青年はすごく自然体。
そして高校生や子供たち近所の人などが集う「場」が蘇った。


すこし人生の先輩として高校生たちの悩みの相談にものる。
また店をもりあげるべく様々なイベントをやっている。

ギターがあったり古いボロいソファがあったり、なんかサークルの部室やBOXみたいなレトロでなつかしい雰囲気。

  ブログ→ゆっくり歩いていこう

自分が通っていた中学の近くにも、そんな買い食い専門の駄菓子屋あったな・・・。
まだあるのかな。

客と店主の顔も見えないファーストフードではなく、お互いの顔の見える店。なじみの店。

昔のお店と客の関係ってどこもそういうものだったのだろう。

あちこちに、そんな店が増えれば町中がディサービスみたいなもんだなぁ。
「いけこうまえ茶屋」、いっちょやりますか。

この番組、来週再放送だそうで!是非、見てみてください・・。おすすめです。

2010/1/13(水)0:10~0:30 (12日深夜/NHK総合)

NHKの ドキュメント20min.
僕たちの放課後~秋田 ある食堂の物語~

「秋田市内の住宅街にある「秋田工業高校」の校門前に、素朴なトタン屋根の定食屋がある。メニューは「から揚げ丼」「たまごかけご飯」など、全て100円から300円。安くてボリュームのあるメニューは高校生たちから大人気で、朝7時から夜9時過ぎまで、部活や受験勉強に疲れた生徒たちのたまり場となっている。



店主の元会社員・土井卓さん(31)は、20代の時、サラリーマン生活に忙殺され心身ともにボロボロになったときに旅先でこの店と出会った。店のたたずまいが気に入り、引退を考えていた当時の女店主にかけあってこの店を受け継ぐことにした。

今この店は、高校生たちが、恋愛、将来、幸せの意味などを自由に語らう空間になっている。放課後小さな定食屋で店主と高校生の間で繰り広げられる会話をドキュメントし、いまの若者たちの悩める心の内を探っていく。」




ディレクターの裏話も・・かなり思い入れのある番組と見た!

好きな精神科医を3人あげよ。

2010年01月05日 | Weblog
「好きな精神科医を3人あげよ。」
この質問を精神科医になげかけてみると面白い。

その精神科医のスタンスが見えてくる。
身近な人を除いて、ある程度有名な人の中からあげてみると・・

私の場合、相当悩むが・・。

「野中猛」先生、・・・図説し、システム的に考えるところ。チーム医療のスタンス。
「春日武彦」先生、・・ちょっと斜めに構えたスタンス。面白がる態度。
「神田橋條治」先生・・名人芸をなんとか言語化しようとするところ。優しいまなざし。

の3人だ。いまのところ・・。  
この3人に限らず精神科医に共通している素養は、優しいまなざしと、ちょっとひいたスタンスだろう。

彼らの著作の中で以下の3冊は特におすすめ。
対人援助職はみんな持っていてよい本だと思う。

図説 ケアチーム
 野中 猛
 中央法規出版


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援助者必携 はじめての精神科
 春日 武彦
 医学書院


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精神科養生のコツ 改訂
 神田橋 條治
 岩崎学術出版社


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「医療のこと、もっと知ってほしい」の紹介。

2010年01月03日 | Weblog
日本の戦後医療史を語る上でかかせない佐久総合病院についてまとめられた一般にも手に入りやすい本は何冊かある。

まず佐久病院を育てた外科医・若月俊一氏自らの著作である「村で病気とたたかう」(岩波新書)ははずせない。
この本、実は一度絶版になったため自分は大学時代に古本屋を何軒か回ってやっと手に入れたものだが最近復刊されて手に入りやすくなった。
さすがに迫力のある筆致で今読んでも古びておらず、中であげられるテーマはいまだに新しく何度でも読み返す価値のある本である。

村で病気とたたかう (岩波新書 青版)
 若月 俊一
 岩波書店


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信州に上医あり―若月俊一と佐久病院 (岩波新書)
南木 佳士
岩波書店


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そして若月俊一と佐久病院の実践の歴史について、佐久総合病院に勤務する内科医で芥川賞作家の南木佳士氏が書いた「信州に上医あり」(岩波新書)という本がある。
これも若月俊一という人物と佐久病院を内部にいながら、すこし離れた視点で追っているところに特徴がある。
村で病気とたたかうで語られて以後の佐久病院についても述べられており、「村で病気とたたかう」とあわせてよむと理解が深まると思う。

その後も佐久病院をについて触れられた本は何冊か出版されてはいるが近年の佐久総合病院についてまとめられたよい本がなかった。
そこに最近、「医療のこと、もっと知ってほしい」(岩波ジュニア新書、山岡淳一郎著)という本が上梓された。

この本は、社会派のノンフィクションライターである著者が医療に関心をもつ若い読者に「職業」を考える手がかりを手にしてほしいと願いながら書き下ろした本である。
もちろん若者に限らず誰が読んでも良いクオリティとボリュームがある。
最近の医療をめぐる問題についてコンパクトかつリアリティをもった筆致でドキュメントされており良質のドキュメンタリー番組を見たような気分になった。
その中で最近の佐久総合病院をめぐることが大きく取り上げられていた。


医療のこと、もっと知ってほしい (岩波ジュニア新書)
 山岡 淳一郎
 岩波書店


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第1章は救急医療をめぐる状況についてのドキュメントである。
信州ドクターヘリについてフライトドクターとフライトナースを中心とした活動の模様のドキュメントとインタビューを中心にまとめられていた。
救命救急は一にサーポート、二にサポート、分厚いサポート体制が「主」でドクターヘリであり、患者優先の医療文化が根付いている佐久病院では救急医療にかかる重圧を大勢の医師やスタッフが「お互いさま」と受け止め和らげていることで救急医療が成り立っているという。
フライトナースのリーダーがインタビューで「精神科病棟の勤務は貴重だった。」「物ごとの見方が広がった」「人と人とのコミュニケーションの根本を考えるいい機会になった。」と述べているがこれにはうなずけるものがある。また燃え尽きることなく仕事を続けていくために「適当」と「分担」を心がけていると言っているの共感できた。
また救急救命士のモチベーションの高さに触れ、救命士の点滴や薬剤投与、AEDによる除細動などのいわゆる特定医療行為についてその使用が「心肺停止状態の傷病者」に対してのみであると法律で定められている悲しい現状について指摘。救急救命士が医師と連携しながらもっと医療行為をしても良いのではないかと言う議論について述べている。
「医療は誰のため、何のため。」と考えたときに、この辺りは本当に早く解決しなくてはならない問題であろう。


第2章はさまざまな職種が連携し暮らしを支える医療である地域密着医療の地域ケアについてのレポート。
地域で一次医療から三次医療まで一手に引き受ける佐久病院ならではの地域ケア(在宅医療・福祉)の今を描くドキュメントだ。
老化や癌、認知症、脳卒中の後遺症など治る見込みのない病気であっても医療への切実なニーズはある。そこでは「患者に寄り添って支える医療」が求められる。
また在宅ケアの現場では「時間」はとても貴重で余命を宣告された患者と患者の家族にとって、一分一秒がかけがえのない価値を持っている。
日野原重明先生の言葉を借りると「時間=いのち」である。このことはキュアを目指す病院医療では忘れさられがちになるのだが・・・。
医療、介護の職種だけではなく、チームの一員としての介護機材や酸素を供給する機械の業者の役割についても言及されていたのはさすがだと思った。
自分も何例か経験したが、佐久総合病院で終末期の患者で在宅医療への移行が決まってからの動きは本当に素早い。
帰って最短3時間で亡くなった例もあったが、そのときは家族、訪問看護師さんとともに一生懸命動いてくれたケースワーカーさんも一緒にご遺体の処置をさせていただいた。
そして、最期に医療制度に翻弄されてきた佐久総合病院の再構築をめぐる問題について述べられている。
「地域全体の医療をどう継続していくか。」
仕組みだけではなく医療に関わる多くの人々の「志」が目に見えない礎なのであるとしめくくられていた。


第3章は佐久病院からは離れるが、医学生と研修医の生活をおったドキュメント。
そこで述べられているような経験は日本の医学生・医師にとってまぁ一般的なものだろう。
それからフィリピンの国立大学医学部レイテ分校(SHS)での医師養成について述べられている。
SHSの階段式・保健医学修学システムでは生まれ育った町や村の推薦を受けて、フィリピン全土から集まった学生たちは、コミュニティ・ヘルス・ワーカーから地域で活動をしながら住民との接点で学びを繰り返し、まずニーズのある助産師の資格をとる。
そして地域活動を経て推薦を受け評価されれば次のコースにすすみ段階的に看護師、医師を目指すという。
そして医師のほとんどが地域にのこって働く(ウータンナローブ(恩に報いる))そうだ。
職種ごとに養成されで、一般入試の受験で選別し、徹底的に医学知識を叩き込み、専門分化していく日本の医学教育とは対極のシステムが紹介されていた。
この発想を日本の医学教育にどう取り入れていくかが課題であろう。

第4章は、医療の土台である「国民皆保険」について。
明治期に疾病保険を立法化しようとした後藤新平の志と苦労をかなり詳しく記載されている。
そして今の健康保険制度のありがたさを、過去の「医者どろぼう」という言葉に込めた無保険者の悔しさとあきらめを紹介し、そしてアメリカの医療の現状と対比して説明。また注目されるているキューバの医療についても触れている。
さらに、つぎはぎだらけで破綻しつつある我が国の医療保険制度の現状について言及。
「地域」から「職場」へ重心を移して5000以上に増えた保険者を、今度は逆に都道府県を中心とした「地域」へ戻そうとしている動きについて述べ、これがうまくいくかどうかは私たちの国民皆保険を守ろうとする意志によって決まると述べている。

この本はコンパクトにまとまっているが取材も丁寧で内容は非常に濃く様々な問題提起がなされている。
キュアからケアのパラダイムチェンジが感じられ、医療をめぐる論点についての視点が得られる一冊であると思う。
是非、多くの人に読んでもらいたい本であると感じた。
(書評)

ワークライフバランスとゴーサンニ

2010年01月02日 | Weblog
ワークライフバランスということがさかんにいわれているようだ。
そのまんま「ワークライフバランス」というの名前の会社もある。
しかし私はこの言葉の寿命は短いのではないかと思う。
20世紀の末から21世紀の初めのみに通用した言葉として記憶されるのではないか。

そもそも仕事(ワーク)と生活(ライフ)はそもそも切り離せるものなのだろうか。
賃金を得るしごとをワークとするならそうかもしれないが、仕事は賃金を得る労働だけではない。
家にいて留守番しているだけでも立派な仕事だし、生きているだけで十分働いているともいう考えもあるだろう。

農耕民族をルーツとする日本人はそもそも職住一体となり家族で、また地域で一体となって行うような仕事が多かった。
自然を相手にする仕事はなかなか自分の思い通りに行かないことの方が多かっただろう。
振り回されながらなんとか生きてきたというのが実情ではないか。
商売などでも住み込みの丁稚奉公から入ることが多かった時代、休みは盆暮れ正月くらいであとは仕事と生活はそもそも一体であった。どれがワークでどれがライフか、またいつがオンでいつがオフの区別なんてそもそもつけられなかったのだ。

職人にしてもそうだ。
武道、華道、~道とすぐ「道」にしてしまう日本人には生き方そのものが仕事であり生活というスタイルがフィットする。

それが近代になり自宅から通勤して会社や工場などに行きそこで仕事をするようになると、オンタイムとオフタイムというのが出てきた。
賃金(サラリー)をもらって生活するサラリーマンと言う言葉がうまれた。
カイシャという村に住み、オンタイムに稼ぎ、オフタイムに消費する。
高度経済成長だの大量生産大量消費型の文明だのと誰かの吹く笛に踊らされていたともいえる。

しかしモノは行き渡り、デフレは進行中。
いまさら消費欲を刺激する新たなものもほとんどない。
情報を入手したり共有したりするコストはITの発展で下がる一方。
(ちなみにITのインフラは水道や電気ガスなどのように公共のライフラインとしてあまねく整備し無料で使えるくらいにするべきだろう。せっかく狭い国土なのだ。紙の書類を回したり、コンクリートの道路などを作るよりは安いはず・・・。閑話休題)
一様に価値観を押し付けるようなマスメディアなら、新聞や地上波のテレビはもうそろそろいいかなと思っている人も多いのではないか。
個人個人のニーズは多様化し、飽きてしまったとも言えるし、そもそも必要なかったとも言える。
(紅白のAKB48を見ながらそんなことを考えた。何人いるんだ?)

若者を中心に広がるシンプル族は物欲も持たず必要最低限のもので十分と笛吹けど踊らずという状況だ。

終身雇用も崩れ、企業福祉は縮小する一方。
会社も生活までまるまる面倒を見てくれるところは少なくなった。

一方でネットワークの発展で働き方は多様化したナレッジワーカーは再びオンタイムとオフタイムというのが曖昧になる。
それでもメリハリをつけるためにHighとLowとモードを切り替える必要はあるだろう。

そう、自分で時間をマネジメントしなければならない時代になったのである。
これは生き方を自分でマネジメントしなければならなくなると同義である。

キュアからケアへのパラダイムシフトの中で、これからは競争社会から共創社会へと大きくシフトする。
かつて私のいた佐久総合病院にはゴーサンニの法則というのがあり、どの職員も病棟5、外来3、地域での活動2の割合で仕事をせよといわれていたそうだ。
またLabor(イヤイヤやらされる仕事)からWork(自らすすんで活き活きとやる仕事)へということも盛んに言われていたようだ。

ゴーサンニの法則は、今風に言うとベッドサイドを5(それぞれの現場での実践)、ケースワークを3(その現場と社会をつなぐ)、ソーシャルワークを2(現場で得た問題意識をもとに社会を変える、創る、上位のシステムへの働きかけ。)だろう。
もちろんそれぞれは切り離せるものではないだろうが、気持ちの上でということでそういうスタンスでいることは大切だと思う。
医療臨床現場というのは社会の不条理な側面が見えすぎてしまうだけに、社会へのアプローチ(学会発表やML、事業展開なども含めて)をやることは自分の精神衛生上も、社会のためにも必要なことだ。

状況に振り回されつつも多少自分の仕事と生活をマネジメントしてソーシャルワークにも意識と力をちょっぴり向けることで、キュアからケアへのパラダイムチェンジ、(弱者や善意の人への押し付け)→((ケアする人のケア)する人のケア)・・)・・→(ケアしケアされるネットワーク)の一助となれるのではないだろうか。


ワークライフバランス 今日から変われる入門講座 (朝日新書)

 朝日新聞出版


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2010年の課題

2010年01月01日 | Weblog
あけましておめでとうございます。

昨年は多くの方に大変お世話になりました。
いろんな出会いがありました。
皆さんにであえて感謝です。

MustとWillとCanの重なるところ・・。
自分のすすむべき方向が見えてきた一年でした。

2010年は私個人にとっても社会にとってもこれからの10年を決める年です。
皆が同じ夢を見ていた経済成長、大量生産大量消費の時代から、こころの豊かさを大事にして個人として独立しつつもお互いを思いやりネットワークでつながっていくというキュアからケアへのパラダイムシフトがすすむ10年でしょう。
団塊の世代が続々と高齢者世代に入ります。
少子高齢化ももっとも急な上り坂をのぼります。
家族のあり方も大きく変化しています。
社会の制度、思想、認識、いろいろなものが動きはじめる予感がします。

社会のニーズ、そのために必要な能力、方法もなんとなくわかってきました。
あとはモチベーションを維持してやるだけです。

自分の体をつかって壮大な実験をしたのはお釈迦様ですが「自分を知り乗りこなす。」というのは自分にとっても永遠のテーマです。
対象に入れ込みすぎて燃え尽きたり、気分の波や過集中の後の疲労したりというパターンに翻弄されがちでした。
身体論的にも自分の体の声をもう少し聞き使いこなせるようになりたいと思っています。
安定したパフォーマンスを発揮するのに苦労していますが、まず運動の習慣をつけて体力をつけます。
体に入れるもの(食べ物、情報)に気を使います。
そして昼寝も含め十分な睡眠をとります。
仕事にHigh/Lowのメリハリをつけ、ワークとライフのマネジメントをします。
一つ一つの仕事にとどめを刺します。
どうしても苦手なことが自分の周りに集まらない仕組みを作ります。
ケースワークとソーシャルワークをバランスよく行います。

よろず相談→自分の全てを総動員の診療をつづけます。
そして心と体、社会をつなげるメディア(媒介)としての役割を果たします。
社会にだれもが居場所をもてるような活動をします。

インプットは続けながらアウトプットの比率をもう少し高めたいと思います。
そして本をだします。
情報をまとめ発信することでNQ(Network quotient)を高めます。
ケアする人のグループスーパーバイズ、コミュニケーションの器としての地域精神医療をつなぐメーリングリストをつくり育てます。
大北地域の在宅医療の仕組み、ネットワークをさらに整えます。
精神保健指定医をとり地域の精神医療により貢献します。
大学院(通信でも可)に行ってアウトプットの仕方の作法も学びたいですが、これは来年以降の課題です。
その準備をします。


ところで・・。
北アルプスのふもとの町で地域医療(運動)を一緒にやってくれる人を募集しています。

今年もよろしくお願いいたします。