中途障害者や障害児のリハビリに関わらせていただいていると、目指すところは就労ということになる。できれば賃金雇用で、その人の能力が活かせ働きたいという思いを実現できるところへとつなげたい。しかし、病院で高次機能障害、中途障害の方、身体知的障害の方の復職、就労をリハビリテーション医療の立場からお手伝いさせていただいても、ただでさえ就職に厳しいこのご時勢、たいていは行き詰ってしまう。
病院では、次から次へとやってくる患者を、ベルトコンベヤのように捌き、なんとか目鼻をつけて、追い出すように退院させるので精一杯。
自立だの社会参加だのきれいごとはならべるが、退院した患者さんは障害をかかえその先の人生は厳しい。
高齢者は型どおりケアマネに引継ぎ、それでも充実してきた在宅医療や介護保険のサービスにつなげるので勘弁していただいているのだが(それでも問題は山積しているが)、問題は若い人だ。残りの長い人生の社会参加が、ただ受身でディサービスに行って風呂に入ってお茶を飲んでいろというわけにもいかない。
日々の業務におわれ、一人ひとりに丁寧に関われない状態に行き詰まりを感じており、なにか釈然としない不全感をいつも感じていた。
病院でのリハといってもせいぜいADL(更衣、入浴、歩行くらい)までであり、その先に地域に帰っても社会参加は難しい。知的や身体障害児が成人して、親がいなくなっても働けて生きていける場も必要だ。
中途障害たる高次脳機能障害(記憶、注意、遂行機能、失語など)に関しても、どんな障害があり、どんなことならできそうかというある程度の評価の方法は確立してきた。しかしそれでおしまいだ。(しかもマイナスの評価だ。)その後の支援をどうしていいかわからなかった。
運転ができないと公共交通機関の衰退した過疎地域では病院や職場に通うのも難しい。法律の定める障害者雇用枠で、お願いして雇ってもらっても同僚との普通の付き合いや、横のつながりもなく、ただ行って、ただ帰るだけで、よろこんでつかってもらっていない必要ないと思われているのをうすうす感じているような状態では針のムシロであろう。
若い脊髄損傷などの身体障害のみの方では頭脳労働者として活躍されている人もいるが精神障害、知的障害、高次脳機能障害などは彼らのことを理解して一緒に働き継続的にマネジメントできる人がいないと働くのは厳しい。就労支援といっても会社にとっても障がい者にとってもいいね、という双方が満足できる関係はなかなか難しいようだ。
初期研修のときに見学させていただいた地域の作業所も、企業に頼み込んで細々とした下請け仕事をもらっているがその単価は今どき非常識なくらい安い。こういった単純作業をだれが一生懸命やっても1時間でやっと180円。これでは生活できない。こういったのが現在のデフレのモノの異様な安さを下支えしているのだろう。(日本と途上国の関係もそうなのだろうが。)そしてますます自分たちの首をしめている。
なんとか未来を模索しよう、かかえている患者さんたちにできることはないかと
同じ思いをもつ同僚のMSWと一緒に、佐久市鳴瀬にある「ねば塾」にお邪魔させていただいた。
「ねば塾」は石鹸をつくっている有限会社である。アットコスメという化粧品サイトで一番人気のあるの石鹸となり、中でも透明石鹸の技術では日本一で、さまざまなものを埋め込んだ透明石鹸を注文に応じて作っている。ハンズやロフト、ツルヤなどにも出荷しており、北海道から沖縄までの観光地などにも相手側のブランドでおろしている。
今では月産5万個の石鹸をおろしており注文が追いつかない状態だという。次々と箱詰めして、特別契約している佐川急便が毎日全国へ発送している。今では年商1億5000円を売り上げ、年800万もの税金を払っている優良企業だ。お邪魔している間にも全国から注文のFAXがつぎつぎと舞い込んでいた。
しかし、この「ねば塾」。ただの会社ではない。この会社は約50人いる従業員の半分近くが知的障害者を中心としたハンデを持った人なのである。一酸化炭素中毒後遺症の高次脳機能障害の方もいる。しかしねば塾は補助金を受けない普通の会社で最低賃金を保証している。その賃金と障害年金をあわせて何とか生活ができる。
彼らの能力はさまざまだが、公共交通機関を使って外出したり、お金を管理したりといったことはちょっと難しい。それでもそれぞれにあった仕事を探して最低賃金を保証している。そして与えられた、その一つの仕事に関しては職人なのだ。
ねば塾を作った笠原塾長に案内された事務所は、ネコが昼寝し、トンボと蝶の舞うのどかな事務所。パソコンや書類やFAX、サンプルなどが雑然と並べてある。
作務衣を着て、長髪にひげを生やした独特の風貌で自分が前面にでたら某反社会的宗教団体のグルと間違われるから前面には出ないという笠原塾長は、ただものではないオーラが漂っていた。
ある障がい者施設で指導員として働いていた塾長は、施設にすむ障害者の多くが「完全なる社会参加」(彼ら自身が働いて稼ぎ、その糧で生活する事)を望んでいると知り、知的障害者2人とともに施設を飛び出て佐久地域の土建屋に就職した。
自分も一緒に働き、何かあったら責任を取るからといって一緒にやとってもらったそうだ。(まさにジョブコーチである。)そしたら彼らも結構仕事をやれた。施設を出たい希望者は他にも結構いたが、地方の小さな土建屋ではそんなには雇えない。
それなら自分で会社をつくるしかないと「ねば塾」をはじめた。はじめから今で言う社会的企業(ソーシャルエンタープライズ)として出発したわけだ。
ものを作って売ろうと考えたとき、、使えばなくなる生活必需品で自分で何とかやれそうなものということで石鹸というアイディアが浮かんだ。ちょうど琵琶湖の富栄養化などで合成洗剤から粉石けんを使おうということが言われ始めたころだった。
しかし最初は苦労の連続で10年は在庫と借金の山であったという。地域の便利屋のようなこともやり、墓堀りから何でもやった。そして頼まれて少しずつ障害者の雇用を増やし、研究をかさねた自慢の石鹸を生産して販路も拡大した。一方で近所の稲刈りの手伝い、市の公園の清掃なども請け負って事業を拡大ていった。
そして28年かけて、やっといまの「ねば塾」があるのだという。工場の建物などもみんな自分たちでつくってきた。最近ではこんにゃくのスポンジなども作っているし、他の企業に人材派遣的なこともやっている。今度、新しい石鹸の機械を入れたばかりだといって見せていただいた。小口の顧客を相手にしており、大手のメーカーとは競合しない隙間産業である。買う人は商品の石鹸がそういったところで作られているという物語を知らずに買う人がほとんどで純粋に商品として勝負をしている。
どこでもやっているようなクッキーや絵葉書では商売にならない。つねに新しいことを探して、先手、先手で花火を次々と打ち上げるのが重要という。
近所の主婦なども働いており、自分で通えない障害者は送迎されたり親に送ってきてもらったりするがその場合は通勤手当を出しているという。しかし一緒にやってきた人たちも歳をとり、親がポツポツなくなりはじめたのですむところをということでグループホームも作った。高齢化に備え今度はバリアフリーのグループホームも作る計画だという。
自立支援法などの制度の利用も少しづつ考えてはいるが(なにせ事業から800万も税金を払っているのだ。)、全部手弁当でやってきた自分たちとしてはもらえるだけで「えっ?」という感じだそうだ。
本体とは別に作業所も作り、最初は福祉就労から入り、なれれば賃金雇用にすることも考えているそうだが、制度の利用はあくまでおまけで、本業の事業として成り立つようにということを常に考えている。
こんどの障害者自立支援法はいいかわからないが、それでもやっと制度が追いついてきて今、自分たちがやっているようなことも、どこかの制度にも引っかかり利用できるようになった。しかしはじめた当時はワクがきっちり厳しく決まっており役場に言っても門前払いされ個人が小さな福祉施設をやるなんてとてもできなかった。
でも補助金をもらいながらやってたらここまでこなかっただろうともういう。
他の福祉施設の批判になるが、自分は安全なところにいて、障害者をあつめて時間つぶさして仕事させるのが目的じゃない。同じ船に乗り、同じ財布でやっているから本気にもなる。「補助金ください。障害者だからカンベンしてくれや、納期のある仕事はできません。」というような甘ったれた態度はとらない。
そのかわり仕事内容に応じてちゃんとした賃金を支払うのだという。
いままでの福祉行政は障がい者を当てにしなかった。しかしこれからはそれではダメだ。仕事をうまく選べば能力もあるのだが、一般企業では厳しい。かといって作業所などの賃金では生活できないし、能力も生かせない。合う服を探しても、一般企業ではきつすぎるし、福祉施設はダボダボの服でで足をひっかけて転んでしまう。
一般企業と福祉施設は両極端で、その間のちょうどいい場所があまりないのだという。障害者、それぞれの個人に合うものなんていくら探しても見つかりっこない。それならば理想のものを自分たちで作らねばダメだということではじめた
「ねば塾」は「福祉事業所」という看板を掲げている。といっても福祉の事業をやっているわけではなく、福祉+事業という意味なのだそうだ。
しかし、笠原さんの言うには、自分たちにできるのは環境設定のみだという。
農家でも同じことだが、稲は手で引っ張って育つわけではない。丁寧に水を調整し、肥料をやって育つ。でもカラカラだとそだたないし、ビチャビチャだと根腐れを起こしてしまう。種が伸びないのを種のせいにしてしまってはいけない。
彼らが地域で何ができるかをつねに考えなくてはならないのだという。
何かやるのに当たって、ワクだけを使って生きていこうとしてはダメ。
企業にしろ、終身雇用にしろ、年金にしろ、確実なものは何もない。ならば必要とされているものを考え、夢をおいかけ、まず自分が動く、そうして続けていけば、そのうち法律や制度が追いかけてくるのだそうだ。こういった事業を福祉の人間だけでやろうとしても無理で、経営が得意で事業のわかる人とペアでやらなくては成功は厳しい。(参考図書: 福祉を変える経営)
笠原さんに
「まるで小さな国みたいですね。」
というと。
「自分は総理にはなれないから、こうやって注文受けたり、申請書類をかいているわけだ。」
とうれしそうだ。
しかし国だとすると日本よりよっぽど自立しており、あてになる国だ。
福祉も絡めて、農業(食料)、ケア、エネルギーの自給ができれば理想ともいうが、今の農業制度では厳しい面もある。
でも、そういうことを考えている仲間もいるとのこと。
若いころから夢を語り合った仲間は、それぞれ地域で作業所などを作っている。
日本中の地域が、自立したこういった小さな国の集まりになると本当に面白いことになると思う。
「オレがおまえたちくらいの年の時には、もうこんなことはじめてたぞ。最近の若い者は夢を語らなくなった。もう俺らは寝るとコッチこいと声が聞こえる年になった。若い者は夢を追いかけて自分で動かなきゃだめだ。」
とハッパをかけられた。
病院とは社会のニーズが嫌でも見えすぎてしまう場所である。
一方、過去の患者さんたち、住民たちから学んできた技術の集まるところでもある。
佐久病院を育てた故若月俊一氏や、往年の職員、伝説のMSWたちはそのニーズを日常業務、惰性というブラックホールにしまいこんでしまわずに、技術を研鑽、導入するだけではなく地域での活動、運動につなげた。
制度化されるより前に、そこにニーズがあれば手弁当で病院際、健診や老人保健施設、地域ケア活動などをおこなってきた。
しかし変化することをやめた今では、社会の変化に対応できず、目指すところも見えず、制度や法律をヒィヒィいいながら追いかけて、スタッフをそろえ、無理やり移動し、医療としての体裁を整えるので精一杯。(それすらも怪しくなってきているが。)
この国(病院)は果たして当てになる国だろうか?
それでも、佐久病院と小海町が関わって立ち上げた小海駅に併設された診療所の2階の授産施設「はぁと工房ポッポ」や、院内の有志やOBがNPOとしてたちあげた「せんたくハウスそよかぜ」、それから北相木診療所の医師たちでつくっている「NPO法人北相木りんねの森」、「宅老所、八千穂の家」、また地域の支援者が一体となってウィズハート佐久というNPO組織で作業所やグループホームを運営している。
こういうことができるのは、いい病院だなぁと思う。
しかし残念ながらこれらは病院本体としての動きではない。問題意識をかかえたアウトローがやむにやまれずはじめたものだ。良くも悪くも普通の病院になってしまっている肥大化した組織で、お役所的になってきている病院や厚生連は医療よりもスピードの速い福祉事業にはとても手を出せないのだろう。
JAだってまだまだがんばれるし、もっと連携も取れるはずだ。
地域の高度先進医療を担うことは確かに重要でこの地域では佐久病院にしかできないことだ。
しかし地域での生活を支えられず、ニーズがあることに目を向けないと、いくらいい医療、病院があっても宝の持ち腐れになってしまう。福祉とは天寿を全うする歓びに与るという意味だそうである。
医療があるおかげで避けられる悲劇はあるだろう。しかし福祉がなければそもそもの生活できない人もいっぱいいる。
さらにいえば、そもそも地域が成り立たないとそこで生活できない。福祉分野では中込を中心とした恵仁会グループなどのほうがはるかにアクティブかつしたたかにやっている。
いま手をつけている仕事(病院のエンジンづくり。生活準備期リハビリテーション病棟)が一段落したら、今の職業や職場にはこだわらず、医療と福祉の架け橋として自分の足でやりたいことをやろうと思う。それまでは雌伏し能力を高め、仲間をみつけてゆきたいと思う。
病院や福祉施設で働いている若いスタッフが、能力を磨き、仲間をみつけ、地域のニーズを感じて次々と事業を立ち上げていく。そして病院がそれを後押しする。そして失敗したものがいれば、また、やさしく受け入れる頼りになる地域のよりどころ。
病院は患者のみならず、そこで働くスタッフもエンパワメントしサポートするミッションサポートセンターとなることができる。病院を地域でそういう役割も持った場所にしたいというのが目下の自分の野望である。
病院では、次から次へとやってくる患者を、ベルトコンベヤのように捌き、なんとか目鼻をつけて、追い出すように退院させるので精一杯。
自立だの社会参加だのきれいごとはならべるが、退院した患者さんは障害をかかえその先の人生は厳しい。
高齢者は型どおりケアマネに引継ぎ、それでも充実してきた在宅医療や介護保険のサービスにつなげるので勘弁していただいているのだが(それでも問題は山積しているが)、問題は若い人だ。残りの長い人生の社会参加が、ただ受身でディサービスに行って風呂に入ってお茶を飲んでいろというわけにもいかない。
日々の業務におわれ、一人ひとりに丁寧に関われない状態に行き詰まりを感じており、なにか釈然としない不全感をいつも感じていた。
病院でのリハといってもせいぜいADL(更衣、入浴、歩行くらい)までであり、その先に地域に帰っても社会参加は難しい。知的や身体障害児が成人して、親がいなくなっても働けて生きていける場も必要だ。
中途障害たる高次脳機能障害(記憶、注意、遂行機能、失語など)に関しても、どんな障害があり、どんなことならできそうかというある程度の評価の方法は確立してきた。しかしそれでおしまいだ。(しかもマイナスの評価だ。)その後の支援をどうしていいかわからなかった。
運転ができないと公共交通機関の衰退した過疎地域では病院や職場に通うのも難しい。法律の定める障害者雇用枠で、お願いして雇ってもらっても同僚との普通の付き合いや、横のつながりもなく、ただ行って、ただ帰るだけで、よろこんでつかってもらっていない必要ないと思われているのをうすうす感じているような状態では針のムシロであろう。
若い脊髄損傷などの身体障害のみの方では頭脳労働者として活躍されている人もいるが精神障害、知的障害、高次脳機能障害などは彼らのことを理解して一緒に働き継続的にマネジメントできる人がいないと働くのは厳しい。就労支援といっても会社にとっても障がい者にとってもいいね、という双方が満足できる関係はなかなか難しいようだ。
初期研修のときに見学させていただいた地域の作業所も、企業に頼み込んで細々とした下請け仕事をもらっているがその単価は今どき非常識なくらい安い。こういった単純作業をだれが一生懸命やっても1時間でやっと180円。これでは生活できない。こういったのが現在のデフレのモノの異様な安さを下支えしているのだろう。(日本と途上国の関係もそうなのだろうが。)そしてますます自分たちの首をしめている。
なんとか未来を模索しよう、かかえている患者さんたちにできることはないかと
同じ思いをもつ同僚のMSWと一緒に、佐久市鳴瀬にある「ねば塾」にお邪魔させていただいた。
「ねば塾」は石鹸をつくっている有限会社である。アットコスメという化粧品サイトで一番人気のあるの石鹸となり、中でも透明石鹸の技術では日本一で、さまざまなものを埋め込んだ透明石鹸を注文に応じて作っている。ハンズやロフト、ツルヤなどにも出荷しており、北海道から沖縄までの観光地などにも相手側のブランドでおろしている。
今では月産5万個の石鹸をおろしており注文が追いつかない状態だという。次々と箱詰めして、特別契約している佐川急便が毎日全国へ発送している。今では年商1億5000円を売り上げ、年800万もの税金を払っている優良企業だ。お邪魔している間にも全国から注文のFAXがつぎつぎと舞い込んでいた。
しかし、この「ねば塾」。ただの会社ではない。この会社は約50人いる従業員の半分近くが知的障害者を中心としたハンデを持った人なのである。一酸化炭素中毒後遺症の高次脳機能障害の方もいる。しかしねば塾は補助金を受けない普通の会社で最低賃金を保証している。その賃金と障害年金をあわせて何とか生活ができる。
彼らの能力はさまざまだが、公共交通機関を使って外出したり、お金を管理したりといったことはちょっと難しい。それでもそれぞれにあった仕事を探して最低賃金を保証している。そして与えられた、その一つの仕事に関しては職人なのだ。
ねば塾を作った笠原塾長に案内された事務所は、ネコが昼寝し、トンボと蝶の舞うのどかな事務所。パソコンや書類やFAX、サンプルなどが雑然と並べてある。
作務衣を着て、長髪にひげを生やした独特の風貌で自分が前面にでたら某反社会的宗教団体のグルと間違われるから前面には出ないという笠原塾長は、ただものではないオーラが漂っていた。
ある障がい者施設で指導員として働いていた塾長は、施設にすむ障害者の多くが「完全なる社会参加」(彼ら自身が働いて稼ぎ、その糧で生活する事)を望んでいると知り、知的障害者2人とともに施設を飛び出て佐久地域の土建屋に就職した。
自分も一緒に働き、何かあったら責任を取るからといって一緒にやとってもらったそうだ。(まさにジョブコーチである。)そしたら彼らも結構仕事をやれた。施設を出たい希望者は他にも結構いたが、地方の小さな土建屋ではそんなには雇えない。
それなら自分で会社をつくるしかないと「ねば塾」をはじめた。はじめから今で言う社会的企業(ソーシャルエンタープライズ)として出発したわけだ。
ものを作って売ろうと考えたとき、、使えばなくなる生活必需品で自分で何とかやれそうなものということで石鹸というアイディアが浮かんだ。ちょうど琵琶湖の富栄養化などで合成洗剤から粉石けんを使おうということが言われ始めたころだった。
しかし最初は苦労の連続で10年は在庫と借金の山であったという。地域の便利屋のようなこともやり、墓堀りから何でもやった。そして頼まれて少しずつ障害者の雇用を増やし、研究をかさねた自慢の石鹸を生産して販路も拡大した。一方で近所の稲刈りの手伝い、市の公園の清掃なども請け負って事業を拡大ていった。
そして28年かけて、やっといまの「ねば塾」があるのだという。工場の建物などもみんな自分たちでつくってきた。最近ではこんにゃくのスポンジなども作っているし、他の企業に人材派遣的なこともやっている。今度、新しい石鹸の機械を入れたばかりだといって見せていただいた。小口の顧客を相手にしており、大手のメーカーとは競合しない隙間産業である。買う人は商品の石鹸がそういったところで作られているという物語を知らずに買う人がほとんどで純粋に商品として勝負をしている。
どこでもやっているようなクッキーや絵葉書では商売にならない。つねに新しいことを探して、先手、先手で花火を次々と打ち上げるのが重要という。
近所の主婦なども働いており、自分で通えない障害者は送迎されたり親に送ってきてもらったりするがその場合は通勤手当を出しているという。しかし一緒にやってきた人たちも歳をとり、親がポツポツなくなりはじめたのですむところをということでグループホームも作った。高齢化に備え今度はバリアフリーのグループホームも作る計画だという。
自立支援法などの制度の利用も少しづつ考えてはいるが(なにせ事業から800万も税金を払っているのだ。)、全部手弁当でやってきた自分たちとしてはもらえるだけで「えっ?」という感じだそうだ。
本体とは別に作業所も作り、最初は福祉就労から入り、なれれば賃金雇用にすることも考えているそうだが、制度の利用はあくまでおまけで、本業の事業として成り立つようにということを常に考えている。
こんどの障害者自立支援法はいいかわからないが、それでもやっと制度が追いついてきて今、自分たちがやっているようなことも、どこかの制度にも引っかかり利用できるようになった。しかしはじめた当時はワクがきっちり厳しく決まっており役場に言っても門前払いされ個人が小さな福祉施設をやるなんてとてもできなかった。
でも補助金をもらいながらやってたらここまでこなかっただろうともういう。
他の福祉施設の批判になるが、自分は安全なところにいて、障害者をあつめて時間つぶさして仕事させるのが目的じゃない。同じ船に乗り、同じ財布でやっているから本気にもなる。「補助金ください。障害者だからカンベンしてくれや、納期のある仕事はできません。」というような甘ったれた態度はとらない。
そのかわり仕事内容に応じてちゃんとした賃金を支払うのだという。
いままでの福祉行政は障がい者を当てにしなかった。しかしこれからはそれではダメだ。仕事をうまく選べば能力もあるのだが、一般企業では厳しい。かといって作業所などの賃金では生活できないし、能力も生かせない。合う服を探しても、一般企業ではきつすぎるし、福祉施設はダボダボの服でで足をひっかけて転んでしまう。
一般企業と福祉施設は両極端で、その間のちょうどいい場所があまりないのだという。障害者、それぞれの個人に合うものなんていくら探しても見つかりっこない。それならば理想のものを自分たちで作らねばダメだということではじめた
「ねば塾」は「福祉事業所」という看板を掲げている。といっても福祉の事業をやっているわけではなく、福祉+事業という意味なのだそうだ。
しかし、笠原さんの言うには、自分たちにできるのは環境設定のみだという。
農家でも同じことだが、稲は手で引っ張って育つわけではない。丁寧に水を調整し、肥料をやって育つ。でもカラカラだとそだたないし、ビチャビチャだと根腐れを起こしてしまう。種が伸びないのを種のせいにしてしまってはいけない。
彼らが地域で何ができるかをつねに考えなくてはならないのだという。
何かやるのに当たって、ワクだけを使って生きていこうとしてはダメ。
企業にしろ、終身雇用にしろ、年金にしろ、確実なものは何もない。ならば必要とされているものを考え、夢をおいかけ、まず自分が動く、そうして続けていけば、そのうち法律や制度が追いかけてくるのだそうだ。こういった事業を福祉の人間だけでやろうとしても無理で、経営が得意で事業のわかる人とペアでやらなくては成功は厳しい。(参考図書: 福祉を変える経営)
笠原さんに
「まるで小さな国みたいですね。」
というと。
「自分は総理にはなれないから、こうやって注文受けたり、申請書類をかいているわけだ。」
とうれしそうだ。
しかし国だとすると日本よりよっぽど自立しており、あてになる国だ。
福祉も絡めて、農業(食料)、ケア、エネルギーの自給ができれば理想ともいうが、今の農業制度では厳しい面もある。
でも、そういうことを考えている仲間もいるとのこと。
若いころから夢を語り合った仲間は、それぞれ地域で作業所などを作っている。
日本中の地域が、自立したこういった小さな国の集まりになると本当に面白いことになると思う。
「オレがおまえたちくらいの年の時には、もうこんなことはじめてたぞ。最近の若い者は夢を語らなくなった。もう俺らは寝るとコッチこいと声が聞こえる年になった。若い者は夢を追いかけて自分で動かなきゃだめだ。」
とハッパをかけられた。
病院とは社会のニーズが嫌でも見えすぎてしまう場所である。
一方、過去の患者さんたち、住民たちから学んできた技術の集まるところでもある。
佐久病院を育てた故若月俊一氏や、往年の職員、伝説のMSWたちはそのニーズを日常業務、惰性というブラックホールにしまいこんでしまわずに、技術を研鑽、導入するだけではなく地域での活動、運動につなげた。
制度化されるより前に、そこにニーズがあれば手弁当で病院際、健診や老人保健施設、地域ケア活動などをおこなってきた。
しかし変化することをやめた今では、社会の変化に対応できず、目指すところも見えず、制度や法律をヒィヒィいいながら追いかけて、スタッフをそろえ、無理やり移動し、医療としての体裁を整えるので精一杯。(それすらも怪しくなってきているが。)
この国(病院)は果たして当てになる国だろうか?
それでも、佐久病院と小海町が関わって立ち上げた小海駅に併設された診療所の2階の授産施設「はぁと工房ポッポ」や、院内の有志やOBがNPOとしてたちあげた「せんたくハウスそよかぜ」、それから北相木診療所の医師たちでつくっている「NPO法人北相木りんねの森」、「宅老所、八千穂の家」、また地域の支援者が一体となってウィズハート佐久というNPO組織で作業所やグループホームを運営している。
こういうことができるのは、いい病院だなぁと思う。
しかし残念ながらこれらは病院本体としての動きではない。問題意識をかかえたアウトローがやむにやまれずはじめたものだ。良くも悪くも普通の病院になってしまっている肥大化した組織で、お役所的になってきている病院や厚生連は医療よりもスピードの速い福祉事業にはとても手を出せないのだろう。
JAだってまだまだがんばれるし、もっと連携も取れるはずだ。
地域の高度先進医療を担うことは確かに重要でこの地域では佐久病院にしかできないことだ。
しかし地域での生活を支えられず、ニーズがあることに目を向けないと、いくらいい医療、病院があっても宝の持ち腐れになってしまう。福祉とは天寿を全うする歓びに与るという意味だそうである。
医療があるおかげで避けられる悲劇はあるだろう。しかし福祉がなければそもそもの生活できない人もいっぱいいる。
さらにいえば、そもそも地域が成り立たないとそこで生活できない。福祉分野では中込を中心とした恵仁会グループなどのほうがはるかにアクティブかつしたたかにやっている。
いま手をつけている仕事(病院のエンジンづくり。生活準備期リハビリテーション病棟)が一段落したら、今の職業や職場にはこだわらず、医療と福祉の架け橋として自分の足でやりたいことをやろうと思う。それまでは雌伏し能力を高め、仲間をみつけてゆきたいと思う。
病院や福祉施設で働いている若いスタッフが、能力を磨き、仲間をみつけ、地域のニーズを感じて次々と事業を立ち上げていく。そして病院がそれを後押しする。そして失敗したものがいれば、また、やさしく受け入れる頼りになる地域のよりどころ。
病院は患者のみならず、そこで働くスタッフもエンパワメントしサポートするミッションサポートセンターとなることができる。病院を地域でそういう役割も持った場所にしたいというのが目下の自分の野望である。
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