集成・兵隊芸白兵

 平成21年開設の「兵隊芸白兵」というブログのリニューアル。
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霊魂の鐘を打つ人・杉田屋守伝(第35回・「『柳』井の中の蛙」だったオッチャン、大海を知る)

2018-03-18 20:24:46 | 霊魂の鐘を打つ人・杉田屋守伝
 早大野球部の合宿所「安部寮」は、オッチャンたちが入部する2年前の大正14年、牛込区戸塚(現・新宿区戸山)の近衛騎兵連隊横に新造されたばかりでした。
 5年に1度のシカゴ大学との対戦を控えた早大は、練習場である戸塚球場を、試合のできるスタジアムとしても使えるよう大改装。5万円の巨費を投じ、25000人収容のスタンドを新築、面目を一新したということについては第20回でお話しした通りです。
 早大野球部はこれに併せて野球部合宿も新築しました。
 同合宿所は鉄筋コンクリート2階建て。2階は選手室16部屋、1階に食堂、応接室、事務室、炊事場を備え、地下に浴室、屋上に運動場を備えるという、当時としては最新の合宿所でした。またこの合宿は、当時としては珍しい1人1部屋の個室制度なっていたようです。
「(早大野球部の旧合宿所は)下戸塚の四五四番地の古ぼけた下宿屋のあとを借り受けたもので、むろん今日の如く一室一人などというぜいたくなものではなく…」(「熱球三十年」より抜粋)
 ただこの新設安部寮は一軍選手用のもの。選手室の数が16というのにもちゃんと意味があり、当時、東京六大学野球の公式戦でベンチ入りできる選手の数が15人だったというところに起因します。
 安部寮に入れば寮費は完全無料ですが、当時の早大野球部員は80人程度。オッチャンはかなり早い時期に登録選手となり、安部寮入りを果たしますが、おそらくそこには甲子園出場選手という「ゲタ」が履かされていたであろうことは想像がつきます。

 ところがオッチャンたち昭和2年度入学組が早大の門をくぐったとき、そこはもぬけの空となっていました。
 この時、早大の一軍に相当する先輩16名は、同年4月2日に横浜を出航、4か月にも及ぶ長いアメリカ遠征に旅立っていたのです。遠征メンバーは以下の通り。
【監督】市岡忠男 【投手】藤本定義(松山商)、水上義信、原口清松(大連工)、朝倉長、中津川忠(大田原中) 【捕手】伊丹安廣 【一塁手】西村成敏(松本商) 【二塁手】森茂雄(松山商) 【三塁手】井口新次郎 (和歌山中)【遊撃手】西村満寿雄、富永時夫 【左翼手】瀬木嘉一郎 (横浜商)【中堅手・主将】氷室武夫 【右翼手】水原義明

 当時は、六大学連盟に所属する学校が、最新技術を学ぶためにリーグ戦を丸々休んで渡米遠征することがちょくちょくありました。
 ただ、部員総員が渡米できるわけでもありませんので、日本に残留した二軍クラスの部員が留守を預かりつつ、練習と試合を繰り返します。
 このレギュラー組不在の間留守を任されたのが、「五十年史」では「留守軍」と形容された残留軍団と新入生。その主要メンバーは以下の通り。
【投手】源川栄二(新潟中)、高橋外喜雄【捕手】松本清(柳井中)、大島政之助(新潟商)、川久保喜一(長崎商)【一塁手】内川留治(上記の阿部留治)【二塁手】上條(下の名前不詳)、矢田英五郎(弘前中)【三塁手】黒木正巳、杉田屋守【遊撃手】佐伯喜三郎【外野手】今井雄四郎(米沢中)、多勢正一郎(神奈川中)、山本實(佐伯中)、黒田正二
 留守軍に編入された新入生としてはオッチャンのほか、投手の高橋、のちに強打者として活躍する佐伯、黒田といった名前が確認できます。

 オッチャンたち留守軍は、4月上旬に来日した米国邦人チーム・フレスノ野球団との対戦(3-8、早大敗れる)を皮切りに、横浜高商や国学院などを相手とした春季対抗戦、早慶新人戦、六大学対抗戦(早大は一軍が不在のため、昭和2年春は不参加の形を取り、かわって留守軍が対抗戦という形でリーグ戦参加)などと連戦に次ぐ連戦の日々を過ごします。
 留守軍は8月の東北・北海道・樺太遠征までを戦い抜き、春の六大学対抗戦は3勝3敗、北海道・東北遠征はなんと16戦全勝。特に北海道・東北遠征の最終の2試合では、函館太洋倶楽部を2戦連続で下しているのですから、さすがは当時、日本最高峰の野球技術を持っていた早大…というべきでしょう。

 しかし、オッチャンがほんとうに早大野球部の洗礼を受けるのは、一軍の先輩が帰って来たそのあとから、でした。

 レギュラー組帰国後少し経った昭和2年秋。秋季リーグ戦開始を控えた早大野球部は、市岡監督引率の下、栃木県宇都宮市で合宿を張りました。
 ここで、入学以来あまり顔を合わせていなかった伝説の先輩方の本気のプレーを初めて見たオッチャンは、驚愕します。

 まず打撃。柳井中学では四番を打ち、強打者を自任していたオッチャンでしたが、井口新次郎先輩、伊丹安廣先輩、水原義明先輩らの打撃は、甲子園で見た中学レベルの強打者をはるかにしのぐ、異次元のものでした。
 当時の早大打撃陣の白眉と言えば井口先輩。22貫目(83キロ弱。当時、大学野球選手の平均体重が70キロ程度)の巨体を、左のバッターボックスでクラウチングスタイルのように構え、三百匁(1125グラム)のバットを軽々と振り回し、矢のようなライナーをぶっ飛ばすのです。
 守備陣もまた華麗の一語で、井口・伊丹先輩や森茂雄先輩を筆頭に「鉄桶」を謳われた守備陣が、まさに水も漏らさぬ見事な連携を見せていました。
 オッチャンも甲子園で一流プレーヤーとしのぎを削った名選手ではありますが、当時日本最高峰の野球と言えば東京六大学野球。オッチャンはただただ、レベルの違いに呆然となるほかありませんでした。
 そして練習の長さ、濃密さ。リーグ戦を控えたこの時期、練習のきつさは佳境を迎えます。オッチャンもこれまで、柳井中学の猛練習に耐えてきたのですが、早大の練習はそれを凌ぐものであり、ついて行くだけで必死です。
 「大海」のレベルを初めて知ったオッチャン。来日したとき以来の強烈なカルチャーショックを受けたことは想像に難くありません。

【第35回・参考文献】
・「早稲田大学野球部五十年史」早稲田大学野球部編
・「日本の野球発達史」広瀬謙三 河北新報社
・「熱球三十年」飛田穂洲 中公文庫
・「魔術師〈上〉三原脩と西鉄ライオンズ」立石泰則 小学館文庫
・内閣府HP防災情報のページ(「近衛騎兵連隊」所在地検索)