前回連載「ふたりの嘉納」でも紹介しましたとおり、戦前の講道館には「帝大柔道会」という強力極まりないライバルがいたため、「ホンモノの柔道とは、高専柔道のようなモノではない!」という差別化を図るため、「柔道の武術化」という名のもとに、語弊を恐れず言いますれば「頭のおかしい柔道の多角化」事業を行っていました。
昭和3(1928)年のアムステルダム五輪より少し前~昭和7(1932)年のロサンゼルス五輪にかけて行われた、講道館による「日本レスリング乗っ取り未遂事件」も、そんな「頭のおかしい柔道の多角化」事業の流れのなかで行われたもので、とくにロス五輪の代表選考時に行われた、「講道館レスリング部」を含む、3つの統括団体によるバトルは、凄まじいものがありました。
ちなみにこの「講道館レスリング部」は、のちに述べるような経緯から講道館の黒歴史と化しており、公式史からは完全に抹殺されています(;^ω^)。
今ではネットで検索してもなかなか出てこず、国会図書館蔵の古文書によって当時の状況証拠を積み重ねる以外、そのドタバタ劇を知ることができない、講道館による「日本レスリング乗っ取り未遂事件」。
昭和3(1928)年のアムステルダム五輪より少し前~昭和7(1932)年のロサンゼルス五輪にかけて行われた、講道館による「日本レスリング乗っ取り未遂事件」も、そんな「頭のおかしい柔道の多角化」事業の流れのなかで行われたもので、とくにロス五輪の代表選考時に行われた、「講道館レスリング部」を含む、3つの統括団体によるバトルは、凄まじいものがありました。
ちなみにこの「講道館レスリング部」は、のちに述べるような経緯から講道館の黒歴史と化しており、公式史からは完全に抹殺されています(;^ω^)。
今ではネットで検索してもなかなか出てこず、国会図書館蔵の古文書によって当時の状況証拠を積み重ねる以外、そのドタバタ劇を知ることができない、講道館による「日本レスリング乗っ取り未遂事件」。
戦前スポーツ史を考えるうえでも、戦前の講道館のバカさ加減を知るうえでも、ひいては「日本人が巨大組織を作ってその上にあぐらをかくと、どんなに偉い人でもバカになる」ということを理解するうえでも、知っておいて損はない事件ですので、御用とお急ぎでない方は、お付き合いよろしくお願いいたします。
組織としての「講道館」が、正式にレスリングの矢面に立たされたのは、大正10年3月のアド・サンテル戦であったことと、これによって講道館が「雑巾踊りのカラに閉じこもった」ということについては、既に「ふたりの嘉納」でお話ししたとおりです。
この後しばらく、「レスリング」という名前は本朝格闘技界に出てはこなかったのですが…大正13(1924)年のパリオリンピックレスリング競技・フリースタイルフェザー級において、日本人の内藤克俊選手が3位入賞を果たしたことで、事態は再び動き出します。
アメリカ・ペンシルバニア州立大学農学部留学中(内藤選手の本邦における学籍は、鹿児島高等農林学校〔現・鹿児島大学農学部〕に在った)だった内藤選手は、柔道で鍛えたグラップリング力と、高潔な人柄によって、レスリング部キャプテンを務めていました。
排日法バリバリ、日本人を見れば「キル・ザ・ジャップ!」と叫んでいた、反日に狂っていたころのアメリカで、いわゆる「トップ20」に入るエリート大学のレスリング部主将を日本人が務めるというのは異例中の異例といってよく、内藤選手がいかに立派な人格を持ち、同時に、いかに真面目にレスリングに取り組み、いかに強かったかがわかります。
アメリカ政府は、出場すればメダル獲得は確実である内藤選手を当然、「アメリカ代表」として五輪に出場させたかったのですが、そんなことをすれば「なんでイエロ―モンキーを代表にするんだ!」という国民の反発は必至。
そこで本邦外務省と協議の結果、駐米大使・埴原正直(はになら・まさなお。1876~1934)の推挙により、内藤選手は「日本代表」として出場することになったのです。
ちなみにこの埴原大使は「排日法」の成立に対して猛烈な抗議を行ったところ、その強硬な抗議が却ってアメリカ上院で「アメリカへの恫喝だ!」と問題になって更迭されたという、硬骨の外交官…おお、このころの外交官はちゃんと仕事してるじゃないか!…昭和に入ってからすぐに「害務省」になったが…それはさておき(;^ω^)。
この「内藤三段、オリンピック3位!」というニュースは、レスリングとボクシングの区別すらつかなかった一般国民(これは本当です!)の間では全く話題にも上りませんでしたが、ひとり講道館だけが、鼻息荒くなっていました。
何しろ、講道館長であらせられる治五郎大先生はこのころ、アジア唯一のIOC委員であり、ランカシャー・レスリングから「投げてイッポン!」のインスピレーションを受けて自流「柔道」を作ったほどの、レスリング有識者なのです。喜ばないはずがありません。
内藤選手の快挙を前に、治五郎先生は夢想しました。「内藤選手は柔道三段。であれば、内藤選手以上の段位を持つ柔道の強豪を鍛え上げれば、レスリングでの世界制覇は容易なのではないか?」
他の高段者(=腰巾着のザコ)たちも、全く同様の意見であり、ここから約10年に亘る、講道館の「レスリング狂騒曲」が始まります。
内藤選手が3位入賞を果たした当時、わが国にはまだレスリング競技の統括団体がありませんでした。それどころか、学校でも企業でも、レスリングを練習をしている部や団体は全く存在していません。
この当時における「レスリング研究」として記録が残っているのは、サンテル戦における日本側リーダーであった庄司彦雄三段(段位はサンテル戦時)が、サンテル戦との再戦を目指して南カリフォルニア大学に留学し、併せてレスリングを研究していたというものですが、これは庄司三段の実家が、目もくらむような大金持ち(鳥取の網元の息子)だったから実現できたことであり、レスリングは当時のわが国では、全くの「ブルーオーシャン」でした。
これはとりもなおさず、「選手をエントリーさせさえすれば、すぐレスリング日本代表になれる」ということであり、当時のわが国でこれに唯一気づいていたのは、講道館だけでした。
こうして鼻息荒く「日本レスリング制圧計画」を発動した講道館でしたが、レスリングに対する基礎知識は、極めて怪しい…というより、「ないに等しい」としかいえないものでした。
このころの講道館がレスリングに対してどのような認識を抱いていたかを示すスンバラスウィ~!資料がありますので、ここで紹介いたしましょう。
昭和10(1935)年に刊行された「昭和の柔道」。著者は講道館本部に勤めていた松岡辰三郎という六段(当時)で、序文を治五郎先生が寄せている「講道館オフィシャル本」ですから、著書の内容はおおむね、当時の講道館の認識と理解して問題ないでしょう。
同著には「柔道とレスリング、拳闘」というタイトルで、レスリング&ボクシングについて説明した一節がありますが、ここで現代の我々はまず「なんで『レスリング&ボクシング』なの?『レスリング』単体の解説はしないの?」という疑問を抱くと思います。
その理由は実に簡単。当時の日本人は、レスリングとボクシングの区別が全くついていなかったからです。
日本で初めて創設されたレスリング部は、昭和6(1931)年4月の早大レスリング部なのですが、同部が同年11月に行った日比対抗戦を報じた記事の見出しがこれです。
「世界的大選手を迎へて 国際拳闘大会 早大レスリング部主催で」
…いちおう、一般人の中では物知りの部類に入る新聞記者がこのありさまですから、頭の中に道着しか詰まっていないような当時のポンコツ柔道家が、ボクシングとレスリングの見分けがつかないのは、当たり前といえば当たり前のことでした。
話を「昭和の柔道」に戻しましょう。
松岡六段(当時)は同著中、レスリングについてこのように解説しています。
「上半身は裸体で、双方立合て試合を初め(←原文ママ)、対手(あいて)を倒し対手の両肩を地に押し付け、変化のできないやうにすることを唯一条件として勝負を決する」
「この点から見れば、柔道固技中の抑込技の一種の競技である。」
……( ゚д゚)。
すみません、松岡六段のバカさ加減に、ちょっと我を忘れていました。いけないいけない。
まず「両肩を地に押し付け、変化の出来ないやうにすること」、つまり通常フォールのみが「勝利の条件」というのが、そもそも間違っています。
当時のアマレスにおけるフォールは、通常フォール以外にも治五郎先生が大好きな「投げてイッポン!」の「フライング・フォール」と、相手のバックを取った後、マットを横回転して両肩をつけさせる「ローリング・フォール」とがありました。
当時のレスリングは、現在のような細かいポイント設定がなかったため、現在に比して「フォールを取ることの重要性」が高かったことは認めますが、「肩を地に押し付ける」ことだけが唯一の勝利の条件とは、無知が過ぎます。
この程度の基礎知識で「我が講道館に於ても、柔道の一部として研究を試て居る」とは、いったいどの口が喋っているのか非常に理解に苦しみますし、それによって「(レスリングは)柔道固技中の抑込技の一種の競技である。」と結論付けたあたりはもう、気が狂っているとしか思えません。
そんな心配?をよそに、講道館は昭和3(1928)年にオランダ・アムステルダムで開催予定の第9回五輪を目指し、引き続きバカ&呑気な活動を続けます。
組織としての「講道館」が、正式にレスリングの矢面に立たされたのは、大正10年3月のアド・サンテル戦であったことと、これによって講道館が「雑巾踊りのカラに閉じこもった」ということについては、既に「ふたりの嘉納」でお話ししたとおりです。
この後しばらく、「レスリング」という名前は本朝格闘技界に出てはこなかったのですが…大正13(1924)年のパリオリンピックレスリング競技・フリースタイルフェザー級において、日本人の内藤克俊選手が3位入賞を果たしたことで、事態は再び動き出します。
アメリカ・ペンシルバニア州立大学農学部留学中(内藤選手の本邦における学籍は、鹿児島高等農林学校〔現・鹿児島大学農学部〕に在った)だった内藤選手は、柔道で鍛えたグラップリング力と、高潔な人柄によって、レスリング部キャプテンを務めていました。
排日法バリバリ、日本人を見れば「キル・ザ・ジャップ!」と叫んでいた、反日に狂っていたころのアメリカで、いわゆる「トップ20」に入るエリート大学のレスリング部主将を日本人が務めるというのは異例中の異例といってよく、内藤選手がいかに立派な人格を持ち、同時に、いかに真面目にレスリングに取り組み、いかに強かったかがわかります。
アメリカ政府は、出場すればメダル獲得は確実である内藤選手を当然、「アメリカ代表」として五輪に出場させたかったのですが、そんなことをすれば「なんでイエロ―モンキーを代表にするんだ!」という国民の反発は必至。
そこで本邦外務省と協議の結果、駐米大使・埴原正直(はになら・まさなお。1876~1934)の推挙により、内藤選手は「日本代表」として出場することになったのです。
ちなみにこの埴原大使は「排日法」の成立に対して猛烈な抗議を行ったところ、その強硬な抗議が却ってアメリカ上院で「アメリカへの恫喝だ!」と問題になって更迭されたという、硬骨の外交官…おお、このころの外交官はちゃんと仕事してるじゃないか!…昭和に入ってからすぐに「害務省」になったが…それはさておき(;^ω^)。
この「内藤三段、オリンピック3位!」というニュースは、レスリングとボクシングの区別すらつかなかった一般国民(これは本当です!)の間では全く話題にも上りませんでしたが、ひとり講道館だけが、鼻息荒くなっていました。
何しろ、講道館長であらせられる治五郎大先生はこのころ、アジア唯一のIOC委員であり、ランカシャー・レスリングから「投げてイッポン!」のインスピレーションを受けて自流「柔道」を作ったほどの、レスリング有識者なのです。喜ばないはずがありません。
内藤選手の快挙を前に、治五郎先生は夢想しました。「内藤選手は柔道三段。であれば、内藤選手以上の段位を持つ柔道の強豪を鍛え上げれば、レスリングでの世界制覇は容易なのではないか?」
他の高段者(=腰巾着のザコ)たちも、全く同様の意見であり、ここから約10年に亘る、講道館の「レスリング狂騒曲」が始まります。
内藤選手が3位入賞を果たした当時、わが国にはまだレスリング競技の統括団体がありませんでした。それどころか、学校でも企業でも、レスリングを練習をしている部や団体は全く存在していません。
この当時における「レスリング研究」として記録が残っているのは、サンテル戦における日本側リーダーであった庄司彦雄三段(段位はサンテル戦時)が、サンテル戦との再戦を目指して南カリフォルニア大学に留学し、併せてレスリングを研究していたというものですが、これは庄司三段の実家が、目もくらむような大金持ち(鳥取の網元の息子)だったから実現できたことであり、レスリングは当時のわが国では、全くの「ブルーオーシャン」でした。
これはとりもなおさず、「選手をエントリーさせさえすれば、すぐレスリング日本代表になれる」ということであり、当時のわが国でこれに唯一気づいていたのは、講道館だけでした。
こうして鼻息荒く「日本レスリング制圧計画」を発動した講道館でしたが、レスリングに対する基礎知識は、極めて怪しい…というより、「ないに等しい」としかいえないものでした。
このころの講道館がレスリングに対してどのような認識を抱いていたかを示すスンバラスウィ~!資料がありますので、ここで紹介いたしましょう。
昭和10(1935)年に刊行された「昭和の柔道」。著者は講道館本部に勤めていた松岡辰三郎という六段(当時)で、序文を治五郎先生が寄せている「講道館オフィシャル本」ですから、著書の内容はおおむね、当時の講道館の認識と理解して問題ないでしょう。
同著には「柔道とレスリング、拳闘」というタイトルで、レスリング&ボクシングについて説明した一節がありますが、ここで現代の我々はまず「なんで『レスリング&ボクシング』なの?『レスリング』単体の解説はしないの?」という疑問を抱くと思います。
その理由は実に簡単。当時の日本人は、レスリングとボクシングの区別が全くついていなかったからです。
日本で初めて創設されたレスリング部は、昭和6(1931)年4月の早大レスリング部なのですが、同部が同年11月に行った日比対抗戦を報じた記事の見出しがこれです。
「世界的大選手を迎へて 国際拳闘大会 早大レスリング部主催で」
…いちおう、一般人の中では物知りの部類に入る新聞記者がこのありさまですから、頭の中に道着しか詰まっていないような当時のポンコツ柔道家が、ボクシングとレスリングの見分けがつかないのは、当たり前といえば当たり前のことでした。
話を「昭和の柔道」に戻しましょう。
松岡六段(当時)は同著中、レスリングについてこのように解説しています。
「上半身は裸体で、双方立合て試合を初め(←原文ママ)、対手(あいて)を倒し対手の両肩を地に押し付け、変化のできないやうにすることを唯一条件として勝負を決する」
「この点から見れば、柔道固技中の抑込技の一種の競技である。」
……( ゚д゚)。
すみません、松岡六段のバカさ加減に、ちょっと我を忘れていました。いけないいけない。
まず「両肩を地に押し付け、変化の出来ないやうにすること」、つまり通常フォールのみが「勝利の条件」というのが、そもそも間違っています。
当時のアマレスにおけるフォールは、通常フォール以外にも治五郎先生が大好きな「投げてイッポン!」の「フライング・フォール」と、相手のバックを取った後、マットを横回転して両肩をつけさせる「ローリング・フォール」とがありました。
当時のレスリングは、現在のような細かいポイント設定がなかったため、現在に比して「フォールを取ることの重要性」が高かったことは認めますが、「肩を地に押し付ける」ことだけが唯一の勝利の条件とは、無知が過ぎます。
この程度の基礎知識で「我が講道館に於ても、柔道の一部として研究を試て居る」とは、いったいどの口が喋っているのか非常に理解に苦しみますし、それによって「(レスリングは)柔道固技中の抑込技の一種の競技である。」と結論付けたあたりはもう、気が狂っているとしか思えません。
そんな心配?をよそに、講道館は昭和3(1928)年にオランダ・アムステルダムで開催予定の第9回五輪を目指し、引き続きバカ&呑気な活動を続けます。