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時の関守

予言 (4)

「神との対話」では、
神が人間に与えた言質(げんち)、約束を、
人間は戒律(かいりつ)にしてしまって、
その戒律をやぶれば、
地獄に落ちるという幻想さえいだいてしまったと言っています。

予言というテーマから、少しはずれるかもしれませんが、
神が人間に約束するということは、
宗教ではかなり普遍のテーマであると、私は考えています。

キリスト教にも、仏教にも共通するとても有名な例え話があります。
放蕩(ほうとう)息子の喩(たと)えです。
若干(じゃっかん)設定は違いますが、大筋では似ています。

裕福な親のもとに生まれた息子が、成人して、親のもとから出奔(しゅっぽん)します。
聖書では、
放蕩(ほうとう)をつくし、落ちぶれた息子が帰ってくると、
親はよろこび、大歓迎します。
それを家に残り、家業をついでいた別の息子が不足しますが、
親は
「死んだと思っていた子供が帰ってきたんだから、
私がうれしいという気持ちがわからないのか。」
と、たしなめます。

仏典のほうは、もっと周到(しゅうとう)な設定がされています。
落ちぶれた息子を、
親が見つけるのですが、
息子は、
そこが親元であることもわからず、自分がなにかだまされるのではないかと、
疑いさえ持ちます。

そこで、
長者である父親は、
人を使い、息子を家に引き入れ、徐々に引き立て、
最後に親の名乗りをします。

神は裕福な父親であり、放蕩息子は人間のことです。
人間というものは放蕩息子のように、
神のもとを離れ、
しかし、必ず行き詰まって(神のもとに)帰ってくる。
そのとき、神は子供(人間)を非難したりはしない。
死んだと思って、
心配していた子供が帰ってきたのだから、喜ばない親はいないのだといっています

私には、
このことは、
人間がどんなまちがいを犯しても、
(顔向けできないほど)放蕩しても、
神の元に帰ってくるのだという、
喩(たと)え話しの形をとってはいますが、
神の予言といってもよいと思っております。



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