返事を書かせていただきましたが、ちょっと付け足したくなりました。
こんな返事でした。
どんな些細(ささい)なことでも、人の尊厳を踏みにじることは、殺人であること。
いじめには妥協はするつもりはないこと。
いじめをしても、
たとえば、巧妙に立ち回れば、罪に問われることはありません。
しかし、罪に問われなくても、その人の深い部分は罪を問い続けるということ。
つまり、世間の誰もが忘れてしまっても、本人が忘れることはない。
なぜなら、
たましいが忘れることはないからです。
ある臨死体験をされたかたの本で、
作者も本の題名も忘れてしまったのですが、確かアメリカのかたで、その中に、
次のような箇所がありました。
うろ覚えですが…。
「私たちが生前行った行動、行為がすべて、死後の世界で検証されることになります。
例えば、ある人に銃を売ったとします。
私たちの世界では、それで終わりなのですが、
死後の世界での検証ではその続きがあります。
その銃を買った人が、その銃を使って人を殺してしまったとします。
次に、
(銃を売っただけであっても、その銃が結果として人を殺すことになったことによって)
殺された人の苦しみ、家族の嘆き、といったことが、
その隅々にいたるまで、それぞれの人の立場になって再体験させられるのだと…。」
もちろん、この話しの検証は誰にもできません。
ただ私のなかの心の深い部分が、「そうだよ。」と言っていました。
地獄、極楽はないと思います。
なぜなら、
私たちの行動に間違いはあっても、善悪はないからです。
間違いは事実ですが、
善悪は、それぞれがどう判断するかで決まります。
それぞれの判断、見方で、
善悪が変わるのであれば、
普遍の真理とはいえないでしょう。
普遍の真理としての善悪がないのですから、
善悪の結果であるはずの(普遍の)地獄、極楽もないでしょう。
私たちの人生に間違いがあれば、地獄に落ちるのではなく、それを修正し、
やり直す機会を与えるのが天の心なのでしょう。