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時の関守

私のなかのもう一人の自分 (3)

私のなかに、もう一人の自分がいて、それは、普段は表にあらわれることはない。
ただ、それは普段は意識上にあらわれないというだけで、自分の無意識のなかにいる自分なのだから、本当は自分そのものなのだろう。

「たましいとは無意識のなかにあるもの」

神さまがある時、そう教えてくれました。

心理学者の説に従えば、人間の心は、海上に浮かぶ氷山(ひょうざん)に例えることができるという。
人間が意識し、わかっている自分の心というものは、氷山でいうと、水面上の目に見えている部分なのだそうです。
それに比べ、人間の無意識というものは、氷山でいうと、水面下に隠れている(目に見えていない)巨大な本体なのだそうです。

その説に従い、また、たましいというものが人間の無意識の中にあるとするならば、
人間の本体はたましいということになる。
そうであれば、
本来人間は、そう思ってなくても、たましいの意志に従わざるえないというのが、わたしの考えです。

たましいは、
この世に、明確な目的をもっているのだと思います。
だから、
その目的を阻(はば)むものがあれば、それを除こうとする。
それが、人間生活上に葛藤(かっとう)を生むのだと思います。
その意味で、
私たちのなかにある葛藤、もだえは、たましいの目的を知るといううえでは、とても貴重で、大切なものなのだということになります。

「たましいについて、もうすこし教えてください。」

「人間が生きていく上で、たましいとは軸(じく)になるものなのだよ。
良いことも悪いこともたましいが引き寄せているのだ。」

「ある人が、その人に語りかけるのではなく、直接たましいに語りかけるよう話したとする。
すると、人はみな気づいてはいないけど、必ず話している中で、たましいが揺さぶられる部分がある。
そうすると、その人は(そのことにまったく)気がついてなくても、たましいの奥底で納得できる答えを、自(みずか)ら出すことができるのだよ。
自ら出した答えであれば、誰もが納得するだろう。」

「ありがとうございました。よくわかりました。」


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