先日,ある会合で,警察庁刑事局の方々と懇談する機会があった。時間は短かったが,匿名発表の件でも少し意見を交換することができた。少しは再検討してもらえるといいのだが…。ところで,懇談で一番問題だと思ったのは,取調の可視化(取調過程をテープやビデオに録音すること)について,非常に消極的だったことだ。その論拠は,「信頼関係をつくって自白させるためには,ビデオは邪魔だ」ということにつきる。しかも,そういう声がどんどん上がってきていると説明していた。それに対する反論は,すでに,「取調の可視化(録画・録音)の実現に向けて-可視化反対論を批判する-」でなされ,十分に論破されている。思わず,「ビデオが邪魔だというが試してみたうえでの反応ですか」と声が出た。
上記意見書には,「3 信頼関係構築論・反省悔悟論の誤り」というタイトルで次のように書かれている。
□□□
取調べでは、被疑者と信頼関係を構築し、反省・悔悟させなければならないから録画・録音はすべきではないという意見について考えてみましょう。
(1)本当に「信頼関係」と言えるのでしょうか
まず、いくら信頼関係を構築し、反省・悔悟させて自白させなければならないと言われても、それが密室である以上、本当に信頼関係や反省悔悟によって自白したのかどうかは、わかりません。怒鳴られて自白させられたかもしれません。もしかしたら暴行がなされたかもしれません。取調官が、被疑者をだましているかもしれません(偽計=ぎけい=による取調べと呼んでいます。)利益誘導なのかもしれません。
そもそも、信頼関係を構築して得られたはずの自白がなぜ争われるのでしょうか。実際には、私たちは、現在の取調べでも、信頼関係や反省・悔悟とは名ばかりの自白強要が繰り返されていると考えています。松本サリン事件(ケース1)で、河野さんに対する取調べは、信頼関係を構築するようなものだったでしょうか。虚偽自白をしてしまった宇和島事件(ケース2)の取調べはどうだったでしょうか。鹿児島踏み字事件(ケース3)はどうだったでしょうか。
少なくとも、密室である以上、このような疑いは、いつまでもついて回るのです。そもそも、刑事裁判の証拠は、人の一生を左右するものです。それが、どのように話されたものなのかを、後から検証できるようにすべきなのは当然のことでしょう。そのためには録画・録音をすればよいのです。
(2)正々堂々と信頼関係を構築すればよいはずです
可視化反対論は、密室でなければ、信頼関係を作ったり、反省・悔悟させることはできないかのように主張します。しかし、そうなのでしょうか。本当に信頼関係を構築して、反省・悔悟させて、自白をさせたと自信を持って言えるのであれば、その過程を正々堂々と明らかにしたらよいはずです。密室のひそひそ話でなければ、信頼関係が作れない、というのはおかしな話です。また、密室でなければ、被疑者を説得できないというのは、情けない話ではないでしょうか。しかも、そのひそひそ話を刑事裁判の証拠にしようと言うのですから、さらにおかしな話
だと言わなければなりません。
ちなみに、後にも触れますが、1980年代に取調べの全過程を録音するようになったイギリスでは、録音が始まってから、警察官たちの取調べ技術が、非常に進歩したと言われています。日本の取調官も、密室に頼るのではなく、イギリスを見習い、可視化された中で正々堂々と供述を得るための技術こそを磨くべきでしょう。
(3) 「信頼関係」は虚偽自白を生んでしまいます
信頼関係構築論や反省・悔悟論には、実は、もっと深刻な問題があります。
これらの議論は、取調官と被疑者の間に「信頼関係」が構築できれば真実が語られるはずだということを当然の前提にしています。
しかし「信頼関係」によって、本当に真実が語られるのでしょうか。
実は、そうとは言えないのです。
虚偽自白をしてしまった宇和島事件(ケース2)の取調べはどのようなものだったでしょうか。警察官は被疑者を犯人だと決めつけた上であの手この手を使って,被疑者を説得しています。
「証拠があるんやけん、早く白状したら。どうなんや。実家の方に捜しに行かんといけんようになるけん迷惑がかかるぞ。会社とか従業員のみんなにも迷惑が掛かるけん早よ認めた方がええぞ。長くなるとだんだん罪が重くなるぞ」という言い方です。
被疑者は、このような警察官の取調べに「誰も自分の言うことは信じてくれない」と号泣し、自白に転じたのです。冤罪であることが明らかになった後に、この取調べを見れば、被疑者の号泣が「絶望」によるものであることはよく分かります。
しかし、これを取調べ当時の取調官の立場から考えてみるとどうなるでしょうか。取調官は、嘘の否認を続けている被告人に対し、「信頼関係」を構築するような情理を尽くした説得を続けただけだと考えていたでしょう。その結果、取調官の目には、被疑者が自分の説得に負けて、真実の自白をしたのだと映ったのではないでしょうか。被疑者が号泣したのも、被疑者が「反省・悔悟」した結果だと思えたでしょう。
また、鹿児島踏み字事件(ケース3)の取調べについて、警察側は「原告に真摯に反省を促し、事実を正直に話してほしいとの熱心さから出たもの」だと弁解しています。取調官からすれば「踏み字」さえも「信頼関係」を構築し「反省・悔悟」させるための一方法だったというのです。
つまり取調官が信頼関係といいあるいは反省・悔悟と呼んでいるのは、取調官の思い込み、決めつけに、被疑者が屈してしまった状況を指しているにすぎないのです。
取調官は、被疑者に、罪を認めさせること、しかも少しでも重い罪を認めさせることこそが、自分たちの役割であると考えがちです。しかし、このような考え方は誤りです。それが、真実であるかどうかが二の次になってしまうのです(上記4つのケースの取調官は、皆そのような思考に陥っていたと思われます) 。そのような取調官に、被疑者が屈してしまうとどうなるでしょうか。お分かりいただけると思います。そのような被疑者は、決して真実を自白しているとは限らないのです。
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自分が取り調べられる立場に立ったとき,ビデオに撮られているのと,密室で取り調べられるのとどちらを選びますか?
上記意見書には,「3 信頼関係構築論・反省悔悟論の誤り」というタイトルで次のように書かれている。
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取調べでは、被疑者と信頼関係を構築し、反省・悔悟させなければならないから録画・録音はすべきではないという意見について考えてみましょう。
(1)本当に「信頼関係」と言えるのでしょうか
まず、いくら信頼関係を構築し、反省・悔悟させて自白させなければならないと言われても、それが密室である以上、本当に信頼関係や反省悔悟によって自白したのかどうかは、わかりません。怒鳴られて自白させられたかもしれません。もしかしたら暴行がなされたかもしれません。取調官が、被疑者をだましているかもしれません(偽計=ぎけい=による取調べと呼んでいます。)利益誘導なのかもしれません。
そもそも、信頼関係を構築して得られたはずの自白がなぜ争われるのでしょうか。実際には、私たちは、現在の取調べでも、信頼関係や反省・悔悟とは名ばかりの自白強要が繰り返されていると考えています。松本サリン事件(ケース1)で、河野さんに対する取調べは、信頼関係を構築するようなものだったでしょうか。虚偽自白をしてしまった宇和島事件(ケース2)の取調べはどうだったでしょうか。鹿児島踏み字事件(ケース3)はどうだったでしょうか。
少なくとも、密室である以上、このような疑いは、いつまでもついて回るのです。そもそも、刑事裁判の証拠は、人の一生を左右するものです。それが、どのように話されたものなのかを、後から検証できるようにすべきなのは当然のことでしょう。そのためには録画・録音をすればよいのです。
(2)正々堂々と信頼関係を構築すればよいはずです
可視化反対論は、密室でなければ、信頼関係を作ったり、反省・悔悟させることはできないかのように主張します。しかし、そうなのでしょうか。本当に信頼関係を構築して、反省・悔悟させて、自白をさせたと自信を持って言えるのであれば、その過程を正々堂々と明らかにしたらよいはずです。密室のひそひそ話でなければ、信頼関係が作れない、というのはおかしな話です。また、密室でなければ、被疑者を説得できないというのは、情けない話ではないでしょうか。しかも、そのひそひそ話を刑事裁判の証拠にしようと言うのですから、さらにおかしな話
だと言わなければなりません。
ちなみに、後にも触れますが、1980年代に取調べの全過程を録音するようになったイギリスでは、録音が始まってから、警察官たちの取調べ技術が、非常に進歩したと言われています。日本の取調官も、密室に頼るのではなく、イギリスを見習い、可視化された中で正々堂々と供述を得るための技術こそを磨くべきでしょう。
(3) 「信頼関係」は虚偽自白を生んでしまいます
信頼関係構築論や反省・悔悟論には、実は、もっと深刻な問題があります。
これらの議論は、取調官と被疑者の間に「信頼関係」が構築できれば真実が語られるはずだということを当然の前提にしています。
しかし「信頼関係」によって、本当に真実が語られるのでしょうか。
実は、そうとは言えないのです。
虚偽自白をしてしまった宇和島事件(ケース2)の取調べはどのようなものだったでしょうか。警察官は被疑者を犯人だと決めつけた上であの手この手を使って,被疑者を説得しています。
「証拠があるんやけん、早く白状したら。どうなんや。実家の方に捜しに行かんといけんようになるけん迷惑がかかるぞ。会社とか従業員のみんなにも迷惑が掛かるけん早よ認めた方がええぞ。長くなるとだんだん罪が重くなるぞ」という言い方です。
被疑者は、このような警察官の取調べに「誰も自分の言うことは信じてくれない」と号泣し、自白に転じたのです。冤罪であることが明らかになった後に、この取調べを見れば、被疑者の号泣が「絶望」によるものであることはよく分かります。
しかし、これを取調べ当時の取調官の立場から考えてみるとどうなるでしょうか。取調官は、嘘の否認を続けている被告人に対し、「信頼関係」を構築するような情理を尽くした説得を続けただけだと考えていたでしょう。その結果、取調官の目には、被疑者が自分の説得に負けて、真実の自白をしたのだと映ったのではないでしょうか。被疑者が号泣したのも、被疑者が「反省・悔悟」した結果だと思えたでしょう。
また、鹿児島踏み字事件(ケース3)の取調べについて、警察側は「原告に真摯に反省を促し、事実を正直に話してほしいとの熱心さから出たもの」だと弁解しています。取調官からすれば「踏み字」さえも「信頼関係」を構築し「反省・悔悟」させるための一方法だったというのです。
つまり取調官が信頼関係といいあるいは反省・悔悟と呼んでいるのは、取調官の思い込み、決めつけに、被疑者が屈してしまった状況を指しているにすぎないのです。
取調官は、被疑者に、罪を認めさせること、しかも少しでも重い罪を認めさせることこそが、自分たちの役割であると考えがちです。しかし、このような考え方は誤りです。それが、真実であるかどうかが二の次になってしまうのです(上記4つのケースの取調官は、皆そのような思考に陥っていたと思われます) 。そのような取調官に、被疑者が屈してしまうとどうなるでしょうか。お分かりいただけると思います。そのような被疑者は、決して真実を自白しているとは限らないのです。
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自分が取り調べられる立場に立ったとき,ビデオに撮られているのと,密室で取り調べられるのとどちらを選びますか?