Q.A級戦犯東條英機陸軍大将についてはいろいろ言われていますが、本当のところ彼は何をしたのでしょうか。
A.A級戦犯合祀問題などに揺れる靖国神社に国内外からの厳しい反対の声を無視し、8月15日、小泉首相は「公約」どおり、靖国神社参拝をしました。
この参拝について、東條英機元首相(陸軍大将)の孫娘由布子氏が「中韓の内政干渉に対して毅然と対処した。独立国としての威信を守ることができた…晴れ晴れとした。心の中で霧が晴れたような気がする」(2006年8月16日・東京新聞)と堂々と述べているのを見て、歴史の真実が正確に伝承されなければならないことを感じさせられました。
東條英機陸軍大将には、第三次近衛内閣の近衛首相が中国から撤兵をして日米和平の途を探ろうとした時、陸軍大臣としてこれに反対し、同内閣を崩壊させ、自ら内閣総理大臣となって日米戦争への途を進めた無謀な開戦責任があります。そして同大将は、陸軍大臣、内務大臣も兼務(後に内務大臣の兼務は解いたが)、その後外務大臣、文部大臣、商工大臣、軍需大臣も兼務し、さらに統帥部に属する参謀総長をも兼務し、文字どおり政府と軍の権力を独占し憲兵政治を敷いて国民の批判の声を封じ、また政敵を容赦なく弾圧しました。
さらに内閣総理大臣を退いた後も、陸軍を背景とした重臣として政治に睨みをきかせていました。
いささか私的なことですが、私は敗戦の年1945年4月5日この世に生を受け、現在61歳です。生れた当日の出来事を調べてみました。
この日、前年の1944年4月7日、東條内閣総辞職の後を受けて政権を担当していた小磯國昭(陸軍大将)内閣が総辞職しています。当日午後5時に後任内閣の首班選定のために、重臣会議(歴代の首相経験者らによって構成)が開かれたが、このときのやりとりについて昭和天皇の内大臣であった木戸幸一は、自身も被告として裁かれた東京裁判において提出した口供書において以下のように述べています。
「当日午後5時に重臣会議が開かれたが、重臣らもまた大本営内閣(国務と統帥の一体化、小磯前首相が構想)には反対だった。この際は今までの行懸りのない肝のすわった真に大局の見える人が後継内閣の首班に選ばれるべきである。必ずしも現役軍人の必要もないとの意見がでた。
しかし東條大将のみは、戦争は本土決戦の段階に入るので、後継首相は現役軍人であることが必要であると力説し、畑元帥を主張した。
私は、これに対してもし本土決戦ともなれば、何千万かの無辜の国民をいだいての戦争であり、それには銃後の政治力が肝要であるとのべ、現在陸軍は国民からはなはだしく不人気なので、むしろ陸軍軍人でない人物を可とするとものべた。東條大将はなかなか承知せず、もしそんなことをするならば陸軍はソッポを向く(陸軍によるクーデターを意味する)であろうとのべた。これに対して、私は、もし陸軍軍人が推薦されるならば、国民がソッポを向けるであろうと応酬した。この会議では誰も平和工作に関しては明らかには触れなかった。それは、この会議に東條大将が出席しており、ウッカリしたことを言って陸軍を刺激して逆の手を打たれることを恐れたからだ」(『東京裁判』朝日新聞東京裁判記者団著・講談社。1983年刊)
結局この重臣会議で予備役の鈴木貫太郎海軍大将が後任首相候補として選定され、大命降下、終戦内閣の成立と歴史は流れますが、上記木戸幸一口供書に見られる東條英機陸軍大将の頑迷さ、国民の生命の無視には驚きとともに怒りを覚えます。
すでに、東京大空襲など米爆撃機による日本本土の空爆により日本は焦土と化しつつあり、多数の死傷者を出していました。そして沖縄への米軍上陸など日本の敗戦は決定的であり、指導者としては一刻も早い終戦を模索しなければならない時期になお「本土決戦」を呼号し、クーデターの脅しをかけるなど絶対に許されることではありません。「本土決戦」がどのような事態を招来させるかは沖縄の地上戦の実態が物語るところです。国民の生命など文字どおり「鴻毛ヨリモ軽シ」(軍人勅諭)としてしか考えていないことがよく分かります。
東條陸軍大将は、内閣総理大臣として靖国神社に父親が戦死した遺児を集め「決してお父様の名を恥かしめぬよう」諭し、その写真を「靖国の子らに父の慈愛、東條総理誉れの遺児を激励」というキャプション付きで報道させたりもしています。政府広報誌は、「靖国の遺児に寄す」と題して「靖国の社頭に頭を垂れ、父の遺志に耳を澄ます可憐な姿、やがて父子相傳へて国に殉ぜんことを誓ふ、われらひたすらその健やかな成育を祈り、心を一つに力を共に、われらすべてがその父たらんことを希ふ」と報じています。遺児に対して、父のように「国のために」死ぬと云っているのです。
このように東條英機陸軍大将の戦争責任とは無謀な戦争の開戦責任だけではなく、戦争の終結を遅らせた継戦責任もあるのです。
同大将が、陸軍大臣在任の際に作った「戦陣訓」の中の「生キテ虜囚ノ辱ヲ受ケズ」によってどれほど多くの軍人・民間人(サイパン島、沖縄などでの民間人の集団自決)が斃れたかも忘れてはなりません。
このような人命軽視の発想の延長上に、特攻とか玉砕という思想が生まれてきたことは前に述べたところです。
また日本の敗戦後、占領地において連合国の戦犯裁判において少なからざる日本軍の将兵・軍属(植民地出身者も含む)が戦時中の捕虜虐待、斬殺、刺殺などの責任を問われ処刑されました。占領地において日本軍による国際法無視の捕虜虐待などの事案が多数発生した背景には、前述した人命軽視の「戦陣訓」や、「上官の命令は天皇の命令」であって、絶対服従すべしとする「軍人勅諭」などがあったと思います。
日本の敗戦後、由布子氏ら東條英機の孫達が小学校で担任のなり手がいなかったり、あるいは担任から「東條君のおじいさんは泥棒より悪いことをした人です。」と言われたりするなど心無い仕打ちを受けた(『さまざまなる戦後』保阪正康)ことについては、不当だとは思います。しかし、「中韓の内政干渉に対して…独立国としての威信を守ることができた。……」など、東條由布子氏の一連のコメントを読むとき歴史を学ぶことの難しさをつくづくと思います。
■■以上、内田雅敏弁護士執筆■■
東条英機が何をしたのか、その事実を把握しようともしないで靖国を語る資格はないっていうことでしょうか…。
★「憎しみはダークサイドへの道、苦しみと痛みへの道なのじゃ」(マスター・ヨーダ)
★「政策を決めるのはその国の指導者です。そして,国民は,つねにその指導者のいいなりになるように仕向けられます。方法は簡単です。一般的な国民に向かっては,われわれは攻撃されかかっているのだと伝え,戦意を煽ります。平和主義者に対しては,愛国心が欠けていると非難すればいいのです。このやりかたはどんな国でも有効です」(ヒトラーの側近ヘルマン・ゲーリング。ナチスドイツを裁いたニュルンベルグ裁判にて)
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A.A級戦犯合祀問題などに揺れる靖国神社に国内外からの厳しい反対の声を無視し、8月15日、小泉首相は「公約」どおり、靖国神社参拝をしました。
この参拝について、東條英機元首相(陸軍大将)の孫娘由布子氏が「中韓の内政干渉に対して毅然と対処した。独立国としての威信を守ることができた…晴れ晴れとした。心の中で霧が晴れたような気がする」(2006年8月16日・東京新聞)と堂々と述べているのを見て、歴史の真実が正確に伝承されなければならないことを感じさせられました。
東條英機陸軍大将には、第三次近衛内閣の近衛首相が中国から撤兵をして日米和平の途を探ろうとした時、陸軍大臣としてこれに反対し、同内閣を崩壊させ、自ら内閣総理大臣となって日米戦争への途を進めた無謀な開戦責任があります。そして同大将は、陸軍大臣、内務大臣も兼務(後に内務大臣の兼務は解いたが)、その後外務大臣、文部大臣、商工大臣、軍需大臣も兼務し、さらに統帥部に属する参謀総長をも兼務し、文字どおり政府と軍の権力を独占し憲兵政治を敷いて国民の批判の声を封じ、また政敵を容赦なく弾圧しました。
さらに内閣総理大臣を退いた後も、陸軍を背景とした重臣として政治に睨みをきかせていました。
いささか私的なことですが、私は敗戦の年1945年4月5日この世に生を受け、現在61歳です。生れた当日の出来事を調べてみました。
この日、前年の1944年4月7日、東條内閣総辞職の後を受けて政権を担当していた小磯國昭(陸軍大将)内閣が総辞職しています。当日午後5時に後任内閣の首班選定のために、重臣会議(歴代の首相経験者らによって構成)が開かれたが、このときのやりとりについて昭和天皇の内大臣であった木戸幸一は、自身も被告として裁かれた東京裁判において提出した口供書において以下のように述べています。
「当日午後5時に重臣会議が開かれたが、重臣らもまた大本営内閣(国務と統帥の一体化、小磯前首相が構想)には反対だった。この際は今までの行懸りのない肝のすわった真に大局の見える人が後継内閣の首班に選ばれるべきである。必ずしも現役軍人の必要もないとの意見がでた。
しかし東條大将のみは、戦争は本土決戦の段階に入るので、後継首相は現役軍人であることが必要であると力説し、畑元帥を主張した。
私は、これに対してもし本土決戦ともなれば、何千万かの無辜の国民をいだいての戦争であり、それには銃後の政治力が肝要であるとのべ、現在陸軍は国民からはなはだしく不人気なので、むしろ陸軍軍人でない人物を可とするとものべた。東條大将はなかなか承知せず、もしそんなことをするならば陸軍はソッポを向く(陸軍によるクーデターを意味する)であろうとのべた。これに対して、私は、もし陸軍軍人が推薦されるならば、国民がソッポを向けるであろうと応酬した。この会議では誰も平和工作に関しては明らかには触れなかった。それは、この会議に東條大将が出席しており、ウッカリしたことを言って陸軍を刺激して逆の手を打たれることを恐れたからだ」(『東京裁判』朝日新聞東京裁判記者団著・講談社。1983年刊)
結局この重臣会議で予備役の鈴木貫太郎海軍大将が後任首相候補として選定され、大命降下、終戦内閣の成立と歴史は流れますが、上記木戸幸一口供書に見られる東條英機陸軍大将の頑迷さ、国民の生命の無視には驚きとともに怒りを覚えます。
すでに、東京大空襲など米爆撃機による日本本土の空爆により日本は焦土と化しつつあり、多数の死傷者を出していました。そして沖縄への米軍上陸など日本の敗戦は決定的であり、指導者としては一刻も早い終戦を模索しなければならない時期になお「本土決戦」を呼号し、クーデターの脅しをかけるなど絶対に許されることではありません。「本土決戦」がどのような事態を招来させるかは沖縄の地上戦の実態が物語るところです。国民の生命など文字どおり「鴻毛ヨリモ軽シ」(軍人勅諭)としてしか考えていないことがよく分かります。
東條陸軍大将は、内閣総理大臣として靖国神社に父親が戦死した遺児を集め「決してお父様の名を恥かしめぬよう」諭し、その写真を「靖国の子らに父の慈愛、東條総理誉れの遺児を激励」というキャプション付きで報道させたりもしています。政府広報誌は、「靖国の遺児に寄す」と題して「靖国の社頭に頭を垂れ、父の遺志に耳を澄ます可憐な姿、やがて父子相傳へて国に殉ぜんことを誓ふ、われらひたすらその健やかな成育を祈り、心を一つに力を共に、われらすべてがその父たらんことを希ふ」と報じています。遺児に対して、父のように「国のために」死ぬと云っているのです。
このように東條英機陸軍大将の戦争責任とは無謀な戦争の開戦責任だけではなく、戦争の終結を遅らせた継戦責任もあるのです。
同大将が、陸軍大臣在任の際に作った「戦陣訓」の中の「生キテ虜囚ノ辱ヲ受ケズ」によってどれほど多くの軍人・民間人(サイパン島、沖縄などでの民間人の集団自決)が斃れたかも忘れてはなりません。
このような人命軽視の発想の延長上に、特攻とか玉砕という思想が生まれてきたことは前に述べたところです。
また日本の敗戦後、占領地において連合国の戦犯裁判において少なからざる日本軍の将兵・軍属(植民地出身者も含む)が戦時中の捕虜虐待、斬殺、刺殺などの責任を問われ処刑されました。占領地において日本軍による国際法無視の捕虜虐待などの事案が多数発生した背景には、前述した人命軽視の「戦陣訓」や、「上官の命令は天皇の命令」であって、絶対服従すべしとする「軍人勅諭」などがあったと思います。
日本の敗戦後、由布子氏ら東條英機の孫達が小学校で担任のなり手がいなかったり、あるいは担任から「東條君のおじいさんは泥棒より悪いことをした人です。」と言われたりするなど心無い仕打ちを受けた(『さまざまなる戦後』保阪正康)ことについては、不当だとは思います。しかし、「中韓の内政干渉に対して…独立国としての威信を守ることができた。……」など、東條由布子氏の一連のコメントを読むとき歴史を学ぶことの難しさをつくづくと思います。
■■以上、内田雅敏弁護士執筆■■
東条英機が何をしたのか、その事実を把握しようともしないで靖国を語る資格はないっていうことでしょうか…。
★「憎しみはダークサイドへの道、苦しみと痛みへの道なのじゃ」(マスター・ヨーダ)
★「政策を決めるのはその国の指導者です。そして,国民は,つねにその指導者のいいなりになるように仕向けられます。方法は簡単です。一般的な国民に向かっては,われわれは攻撃されかかっているのだと伝え,戦意を煽ります。平和主義者に対しては,愛国心が欠けていると非難すればいいのです。このやりかたはどんな国でも有効です」(ヒトラーの側近ヘルマン・ゲーリング。ナチスドイツを裁いたニュルンベルグ裁判にて)
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