東京新聞特報面を担当している市川隆太記者が12月17日付「メディア観望」で、「良い番犬になるには」とのタイトルで、新たな被害者を生まないために、記者も制度論に踏み込もうと提言している。
従来、記者は、事実を伝えることが重視されてきた。そのため、【本職の評論家には失礼だが、『評論家』と呼ばれた時ほど新聞記者が屈辱を感じることはない】(本記事)という状況が長年続いてきた。
これまでの不祥事報道では、関係者、監督官庁の責任を問う記事が書かれ、【不祥事の本人は更迭され、組織は自浄作用を誓う。そして、一連の報道は終わる】(本記事)。
この従来の書き方について、市川記者は、【このパターンも決して無意味ではないのだが、書いても書いても人権侵害が繰り返されると、もぐらたたきの気分になる】(本記事)と指摘し、新聞に欠けているものを自ら問い、【「個人も組織も、必然的に人権侵害を起こすもの」という割り切りではないか】と答える。
そして、記者ももっと制度の問題に踏み込むべきだと主張する。
市川記者は、【例えば、政治難民の受け入れ問題。難民保護と入国管理は別組織に委ねるのが先進国の常識だが、日本は法務省入国管理局が両方を兼ねる。偽造パスポートで命からがら逃げてきた政治難民が「不法入国」で摘発されるようなケースが相次ぐのは、そのせいだ。取り締まり担当だった職員に保護をやれ、意識改革しろと求めること自体が無理難題だといえる】と具体例を挙げる。まさに制度論が問われているわけだ。
しかし、現状では、新聞社の顔である社説ですら、「企業倫理を高めろ」「意識改革せよ」「刷新せよ」などという精神論でまとめることが多い。
市川記者の言うとおり、それでは、世の中良くはならんよ。不祥事が起きないようなシステムをつくることが大切であり、記者はある意味、評論家よりも事実に迫っているのだから、システム論についても一言書くべきだ。少なくとも、事件について評論家のコメントを求める際、単に精神論を述べるような人ではなく(そういうのは評論家とはいえない。ただの屋台でくだを巻く親父)、きちんとシステム改善まで話せるような人を選択するべきだ。
そうして、制度論自体が新聞、テレビで報道され、市民がその是非について考えるようになったとき、日本の社会は、いまの1000倍良くなっているのではないかと思う。
個人的には、「新聞記者も制度論を」ではなく、「新聞記者こそ制度論を」心がけてほしいと思う。紙面などに反映されるかどうかは別にして常にいかにすればこの問題を防止できるのか、そのことは考えながら取材してほしい。そして、少なくとも社説を書く記者が、精神論で逃げるのは恥だと思えるような状況をつくってほしい。
…う~ん。この社説ウォッチングは、NPJ(News for the people in Japan)でのメディアリテラシー企画としてすぐにでも実行できるかもしれないですね。
ある重大な話題に関する各社の社説を比較して、将来の防止策として単に精神論に止まっているか、それとも制度論(現状の欠陥)まで踏み込んだ記述になっているか、それだけをまとめて報告するなら、労力もかからないように思う。次の編集会議で提言してみたい。
★「憎しみはダークサイドへの道、苦しみと痛みへの道なのじゃ」(マスター・ヨーダ)
★「政策を決めるのはその国の指導者です。そして,国民は,つねにその指導者のいいなりになるように仕向けられます。方法は簡単です。一般的な国民に向かっては,われわれは攻撃されかかっているのだと伝え,戦意を煽ります。平和主義者に対しては,愛国心が欠けていると非難すればいいのです。このやりかたはどんな国でも有効です」(ヒトラーの側近ヘルマン・ゲーリング。ナチスドイツを裁いたニュルンベルグ裁判にて)
★「News for the People in Japanを広めることこそ日本の民主化実現への有効な手段だ(笑)」(ヤメ蚊)
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従来、記者は、事実を伝えることが重視されてきた。そのため、【本職の評論家には失礼だが、『評論家』と呼ばれた時ほど新聞記者が屈辱を感じることはない】(本記事)という状況が長年続いてきた。
これまでの不祥事報道では、関係者、監督官庁の責任を問う記事が書かれ、【不祥事の本人は更迭され、組織は自浄作用を誓う。そして、一連の報道は終わる】(本記事)。
この従来の書き方について、市川記者は、【このパターンも決して無意味ではないのだが、書いても書いても人権侵害が繰り返されると、もぐらたたきの気分になる】(本記事)と指摘し、新聞に欠けているものを自ら問い、【「個人も組織も、必然的に人権侵害を起こすもの」という割り切りではないか】と答える。
そして、記者ももっと制度の問題に踏み込むべきだと主張する。
市川記者は、【例えば、政治難民の受け入れ問題。難民保護と入国管理は別組織に委ねるのが先進国の常識だが、日本は法務省入国管理局が両方を兼ねる。偽造パスポートで命からがら逃げてきた政治難民が「不法入国」で摘発されるようなケースが相次ぐのは、そのせいだ。取り締まり担当だった職員に保護をやれ、意識改革しろと求めること自体が無理難題だといえる】と具体例を挙げる。まさに制度論が問われているわけだ。
しかし、現状では、新聞社の顔である社説ですら、「企業倫理を高めろ」「意識改革せよ」「刷新せよ」などという精神論でまとめることが多い。
市川記者の言うとおり、それでは、世の中良くはならんよ。不祥事が起きないようなシステムをつくることが大切であり、記者はある意味、評論家よりも事実に迫っているのだから、システム論についても一言書くべきだ。少なくとも、事件について評論家のコメントを求める際、単に精神論を述べるような人ではなく(そういうのは評論家とはいえない。ただの屋台でくだを巻く親父)、きちんとシステム改善まで話せるような人を選択するべきだ。
そうして、制度論自体が新聞、テレビで報道され、市民がその是非について考えるようになったとき、日本の社会は、いまの1000倍良くなっているのではないかと思う。
個人的には、「新聞記者も制度論を」ではなく、「新聞記者こそ制度論を」心がけてほしいと思う。紙面などに反映されるかどうかは別にして常にいかにすればこの問題を防止できるのか、そのことは考えながら取材してほしい。そして、少なくとも社説を書く記者が、精神論で逃げるのは恥だと思えるような状況をつくってほしい。
…う~ん。この社説ウォッチングは、NPJ(News for the people in Japan)でのメディアリテラシー企画としてすぐにでも実行できるかもしれないですね。
ある重大な話題に関する各社の社説を比較して、将来の防止策として単に精神論に止まっているか、それとも制度論(現状の欠陥)まで踏み込んだ記述になっているか、それだけをまとめて報告するなら、労力もかからないように思う。次の編集会議で提言してみたい。
★「憎しみはダークサイドへの道、苦しみと痛みへの道なのじゃ」(マスター・ヨーダ)
★「政策を決めるのはその国の指導者です。そして,国民は,つねにその指導者のいいなりになるように仕向けられます。方法は簡単です。一般的な国民に向かっては,われわれは攻撃されかかっているのだと伝え,戦意を煽ります。平和主義者に対しては,愛国心が欠けていると非難すればいいのです。このやりかたはどんな国でも有効です」(ヒトラーの側近ヘルマン・ゲーリング。ナチスドイツを裁いたニュルンベルグ裁判にて)
★「News for the People in Japanを広めることこそ日本の民主化実現への有効な手段だ(笑)」(ヤメ蚊)
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