二次大戦開戦の前年、英国はほんの数日だけ、歓喜に包まれている。ミュンヘン会談でナチス・ドイツと協定を結ぶことに成功したという知らせがロンドンに届いたときのことだ▼<平和の意志が決定的に勝利を収めたように思われた><誰もがよろこんでいっしょに笑い…自分自身が翼の生えたようになっているのを感じた>。ユダヤ人作家のツバイクは、つづった▼人々は、<息をとめて>チェンバレン首相とヒトラーらの交渉を見守り、そして歓喜したという。しかし戦争回避への望みはすぐにヒトラーに壊される。祖国オーストリアに戻ることもかなわなくなったツバイクは<希望の大きな光は消えた>と嘆く。会談は英国の宥和(ゆうわ)政策の失敗として、語り継がれることになり、首脳会談への期待がいかにもろいかも後世に残った▼中止になった米朝首脳会談である。息をとめて話し合いの行方を見守るはずだった。北朝鮮の非核化が本当に実現するのではないかという希望の光もあっただろう。しかし、残念ながら期待は遠のいた▼そもそも非核化の考えにずれがあったという。使えば地獄を招き、捨てれば無力になる。持っているのが一番強い。それが北朝鮮のような国にとっての核兵器だ▼北朝鮮は会談を望んでいるという。だが核兵器を完全に手放す意志がないのなら、平和への希望は再びつかの間で終わるだろう。
ミュンヘン会談/ミュンヘン協定
1938年9月、ドイツのズデーテン併合問題で英仏独伊四国首脳が会談。イギリスの宥和政策によってドイツの要求を容認した。
ミュンヘン(ミュンヒェン)は南ドイツ・バイエルン州の中心都市。1938年9月、ズデーテン問題の解決のために開かれた国際会議がミュンヘン会議で、イギリス(ネヴィル=チェンバレン)・フランス(ダラディエ)・ドイツ(ヒトラー)・イタリア(ムッソリーニ)の4国代表が集まった。当事者のチェコスロヴァキアの代表は召集されなかった。会議はイギリス首相ネヴィル=チェンバレンの対独宥和政策によって枠が作られ、ヒトラー=ドイツの要求通り、ズデーテン併合を認めた。フランス外相ダラディエもそれに追随した。
チェンバレンのイギリス政府は驚愕したが、宥和政策を変えることはしなかった。しかし宥和政策の方法を変化させた。これまでの約束と譲歩でおびき寄せるやりかたではなく、威嚇を用いることにした。それがポーランドに対するイギリスの保証だった。<ハフナー/山田義顕訳『ドイツ帝国の興亡 ビスマルクからヒトラーへ』1989 平凡社刊 p.267>
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ミュンヘン協定の受け取り方
ミュンヘン協定では、チェコスロバキアの周辺地域がドイツに譲渡されただけでなく、今後重要なすべての外政的行動の際、ドイツは、イギリスと話し合って取り決めるとの内容があった。イギリスの立場からすれば、この点が最も重要な成果だった。ヒトラーにとっては、これこそが敗北と感じた点だった。彼は、東方での自由の手を欲した。ヒトラーがミュンヘンを自分の敗北、イギリスの勝利と感じていたので、それに対する復讐として、1939年3月、イギリスを無視し、予告なしにチェコスロバキア本体を軍事占領したのである。チェンバレンのイギリス政府は驚愕したが、宥和政策を変えることはしなかった。しかし宥和政策の方法を変化させた。これまでの約束と譲歩でおびき寄せるやりかたではなく、威嚇を用いることにした。それがポーランドに対するイギリスの保証だった。<ハフナー/山田義顕訳『ドイツ帝国の興亡 ビスマルクからヒトラーへ』1989 平凡社刊 p.267>
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