一九五〇年ごろ、アレクサンドル・ミカさんというパン職人がフランス南部サントロペでポーランドの祖母に教わったタルト菓子を売り出したそうだ▼五五年、映画のロケでその地を訪れた女優ブリジット・バルドーがこれを気に入り、「サントロペの少女」(タルト・トロペジェンヌ)と命名。大評判となって、世界に広がったという。『お菓子の由来物語』(猫井登さん)にあった▼このお菓子、昨日の米朝首脳会談と関係がある。両首脳らが昼食を取りながら話し合うワーキングランチのデザートに出たのである▼ちょっと想像していただきたい。朝鮮戦争以来、長く敵対してきた両国である。最近まで物騒な言葉をぶつけ合っていた、強面(こわおもて)の両首脳が同じテーブルにつき、甘く、かわいらしいトロペジェンヌを食べている姿を▼今回合意した非核化は成果だが、それ以上に、お菓子を並んで食べる二人を思い浮かべれば、緊張の緩和を感じ、首脳会談の意味をかみしめる。平和と呼ぶには早すぎるが、甘いお菓子をほおばりながら喧嘩(けんか)はできぬと信じる▼非核化の長い道を歩む二人である。お菓子でビートルズの曲が浮かぶ。<世界はバースデーケーキみたいなもの。お一つ、どうぞ。でも(一人で)取りすぎてはだめ>(イッツ・オール・トゥー・マッチ)。互いに欲張らず譲り合ってその道を。甘いものでも食べながら。
羊が川で水を飲んでいるのを見かけた狼(おおかみ)がもっともらしい理由をつけてその羊を食べてしまおうと考えた。「おい、おれの水をにごらせているぞ」▼羊は反論する。「私はほんの口先で飲んだだけです。それに飲んでいるのはあなたよりも川下です」。あきらめない狼は別の理由を考える。「そういえば、おまえは去年、俺の親父(おやじ)の悪口を言った」。羊はこれにも反論する。「去年なら、まだ生まれていません」。狼は本音を明かす。「おまえがどんな言い訳をしても食べないわけにはいかないのだ」▼袴田さんの無実を信じる人にとってはどうあっても狼に許されぬイソップ寓話(ぐうわ)の羊を思い出すかもしれない。一九六六年、一家四人が殺害された事件で、東京高裁は死刑が確定した袴田巌さんの再審開始を認めた静岡地裁の決定を取り消した。つまりは、袴田さんが「犯人」なのだと▼検察の主張に対して反論、反証を積み重ねた結果、静岡地裁の再審開始を勝ち取ったのは二〇一四年。同時に釈放され、死刑は執行停止となっていた。今回、死刑と拘置の執行停止は取り消されなかったものの、再びの重い日々となるだろう▼東京高裁が再審を退けた最大の理由は袴田さん犯人説と結び付かなかったDNA鑑定に対する信ぴょう性。検察と裁判所を納得させる羊の反論の旅はなおも続くのか▼事件から五十二年。長すぎる旅である。