まぁわけの分からないタイトルですみません。
きものばなし、まぁた止まっちゃってぇ…すみません。
忘れているわけではございませんで、ただいませっせと原稿を書いております。
「きものばなし」を書くにあたって、これはテキストとまでは行かなくても、
着物についてのいろんなことの「情報メモ」として、ご利用していただけたら…
そんな思いで書き始めました。
そのため、できるだけムダ話ナシ、さぶいシャレもナシ、どっかへ話が飛ぶこともナシ。
簡潔に短く(あれでもです…)と、考えながら書いております。
それでいいのですが、そうなると「実はね」とか「あたし、こうおもうんですよ」
なんて話が書けないんですね。これは性分として「消化不良」…。
というわけで、本文では書かないけれど…なんてお話を書いてみようと思うのです。
まず、今書いているのは「織り」について…です。
「織物」って、いつごろできたんでしょ。今回は日本でのお話しですが。
織物というのは「経に緯を規則的に交互にくぐらせて作るもの」です。
そのことで、細い一本の糸が「布」という面積を持つものになる、全ての織物の元はコレです。
また一本の糸をイロイロ結んだり絡ませたりして「編み物」をする、これも同様細かいワザですね。
こういうものが、ある日突然「こうしたらいいじゃない?」と、突然できたわけではないですね。
太古の昔、最初は獲物からとった毛皮を肩にかけたり腰にまきつけたり…。
そのうち、その辺の蔦かなんかで腰を縛る、それが「繊維」との出会いであって、
その繊維を細くすることができたときに「糸」が誕生し、皮に「穴をあけてそこに通す」という「縫製」が始まり…。
そんなことではなかったかと思うのです。
また最初は魚を獲ったときに、たくさん獲れて運ぶのにどうするか…。
その辺にある細い竹のようなものをなんやかや組み合わせているうちに、
カゴができた…当然それは今のように「篭目」だの「桧垣」だのという編み目組み目の揃ったものではなく、
「モノがはいればいい器」…だったと思います。それが「編む」ことの始まり。
「細い紐」のようなものなら、こうやって組み合わせると「線が面になる」、
これに気がついたから、糸も組み合わせれば面積を持つ…と布というものが作られるようになった…。
編むということ、織るということ、そういうことの始まりは、
そんなことだったのではないかと、ドシロウトのアタマで考えるわけです。
いまなら当たり前すぎて「だからなんなの」ですが、それに最初に気がつくことは、
実は大変なことだと思うのです。
何でもそうですが、最初にそれに気がつく…というのはたいしたことです。
そして更に「だったらここはこうすればもっとよくなる」という知恵が働く…。
文明は、知恵の産物ですが、その産物が更に「知恵」を磨くことになる…。
経と緯を交互に組み合わせる…それだけの基本から、1000年かけて、
日本人はものすごい織物技術を生み出してきました。(日本だけじゃありませんが)
その「産物」のお話しが、次回の「織り」のお話の基本なんですが、
美しい、素晴らしいといわれる織物を見るたびに、人間ってすごいよなぁと感じるのです。
今の私たち、先人たちがほんっとにいろいろなものを作り出してくれたおかげで、
すごいねぇ便利だねぇと暮らしていますね。でも…すぎたるはってとこ、ないのでしょうか?
文明が進むのはいいけれど、進み方があまりにスピードアップして、「淘汰」される間もない…。
わーっと飛びつき、ぱーっとはやって、さーっときえてゆく…。
そんな中で、いいものは残っていくのでしょうか。
便利だ、よくなった…といいつ、実は暮らしだけでなく、人間もユルくなってはいないだろうかと思うのです。
始まりは、魚や獣の骨に苦労して穴をあけ、そこに植物からとった糸を通し、縫い物を始めた…。
小さい骨に穴をあけるのも、どれだけ大変だったでしょうね。
いまや針も糸も、お店に行けば、いろんな種類のものが手に入ります。
それなのに…「縫う」ということから、私たちはどんどん遠ざかっていると思います。
今、テレビなどでいろいろな手芸とか、子供服などを作りましょう、とやっていますが、
ほとんどが「カンタンに出来ます」です。だから「赤ちゃんのじんべさん」でも、
衿のついていないただの「胴着」を「カンタンじんべい」などと間違った紹介をしたりする…。
いつも思うのです。これだけテレビで「ノウハウもの」を扱うなら、
「針仕事・基本から」みたいな、縫い物の「基本・難しいところ」を教える番組があっても、いいんじゃないかと…。
小さな巾着の、ほんの15センチほどの「運針」ができない「若い友人たち」を見るとそう思うのです。
あぁ和裁教室の先生方、ごめんなさい!ですぅ。
つまらないお話しになりましたので、あとは写真でお茶を濁す?
トップは今年はつぼみいっぱいの山茶花、もうすぐそんな季節です。
こちらは今年の実家のあけび、急に涼しくなって、あっというまに色がかわりましたが、
なんだか最後の時期だけものすごく「急ぎましたー」という感じ。
いつもより採ったときの状態がよくありません。それでも「豊作」ではありました。
こちらはご近所の紫式部、毎年登場してもらっていますが、今年は暑さのせいか
実のつきが悪く、色もちと薄目でした。
きものばなし、まぁた止まっちゃってぇ…すみません。
忘れているわけではございませんで、ただいませっせと原稿を書いております。
「きものばなし」を書くにあたって、これはテキストとまでは行かなくても、
着物についてのいろんなことの「情報メモ」として、ご利用していただけたら…
そんな思いで書き始めました。
そのため、できるだけムダ話ナシ、さぶいシャレもナシ、どっかへ話が飛ぶこともナシ。
簡潔に短く(あれでもです…)と、考えながら書いております。
それでいいのですが、そうなると「実はね」とか「あたし、こうおもうんですよ」
なんて話が書けないんですね。これは性分として「消化不良」…。
というわけで、本文では書かないけれど…なんてお話を書いてみようと思うのです。
まず、今書いているのは「織り」について…です。
「織物」って、いつごろできたんでしょ。今回は日本でのお話しですが。
織物というのは「経に緯を規則的に交互にくぐらせて作るもの」です。
そのことで、細い一本の糸が「布」という面積を持つものになる、全ての織物の元はコレです。
また一本の糸をイロイロ結んだり絡ませたりして「編み物」をする、これも同様細かいワザですね。
こういうものが、ある日突然「こうしたらいいじゃない?」と、突然できたわけではないですね。
太古の昔、最初は獲物からとった毛皮を肩にかけたり腰にまきつけたり…。
そのうち、その辺の蔦かなんかで腰を縛る、それが「繊維」との出会いであって、
その繊維を細くすることができたときに「糸」が誕生し、皮に「穴をあけてそこに通す」という「縫製」が始まり…。
そんなことではなかったかと思うのです。
また最初は魚を獲ったときに、たくさん獲れて運ぶのにどうするか…。
その辺にある細い竹のようなものをなんやかや組み合わせているうちに、
カゴができた…当然それは今のように「篭目」だの「桧垣」だのという編み目組み目の揃ったものではなく、
「モノがはいればいい器」…だったと思います。それが「編む」ことの始まり。
「細い紐」のようなものなら、こうやって組み合わせると「線が面になる」、
これに気がついたから、糸も組み合わせれば面積を持つ…と布というものが作られるようになった…。
編むということ、織るということ、そういうことの始まりは、
そんなことだったのではないかと、ドシロウトのアタマで考えるわけです。
いまなら当たり前すぎて「だからなんなの」ですが、それに最初に気がつくことは、
実は大変なことだと思うのです。
何でもそうですが、最初にそれに気がつく…というのはたいしたことです。
そして更に「だったらここはこうすればもっとよくなる」という知恵が働く…。
文明は、知恵の産物ですが、その産物が更に「知恵」を磨くことになる…。
経と緯を交互に組み合わせる…それだけの基本から、1000年かけて、
日本人はものすごい織物技術を生み出してきました。(日本だけじゃありませんが)
その「産物」のお話しが、次回の「織り」のお話の基本なんですが、
美しい、素晴らしいといわれる織物を見るたびに、人間ってすごいよなぁと感じるのです。
今の私たち、先人たちがほんっとにいろいろなものを作り出してくれたおかげで、
すごいねぇ便利だねぇと暮らしていますね。でも…すぎたるはってとこ、ないのでしょうか?
文明が進むのはいいけれど、進み方があまりにスピードアップして、「淘汰」される間もない…。
わーっと飛びつき、ぱーっとはやって、さーっときえてゆく…。
そんな中で、いいものは残っていくのでしょうか。
便利だ、よくなった…といいつ、実は暮らしだけでなく、人間もユルくなってはいないだろうかと思うのです。
始まりは、魚や獣の骨に苦労して穴をあけ、そこに植物からとった糸を通し、縫い物を始めた…。
小さい骨に穴をあけるのも、どれだけ大変だったでしょうね。
いまや針も糸も、お店に行けば、いろんな種類のものが手に入ります。
それなのに…「縫う」ということから、私たちはどんどん遠ざかっていると思います。
今、テレビなどでいろいろな手芸とか、子供服などを作りましょう、とやっていますが、
ほとんどが「カンタンに出来ます」です。だから「赤ちゃんのじんべさん」でも、
衿のついていないただの「胴着」を「カンタンじんべい」などと間違った紹介をしたりする…。
いつも思うのです。これだけテレビで「ノウハウもの」を扱うなら、
「針仕事・基本から」みたいな、縫い物の「基本・難しいところ」を教える番組があっても、いいんじゃないかと…。
小さな巾着の、ほんの15センチほどの「運針」ができない「若い友人たち」を見るとそう思うのです。
あぁ和裁教室の先生方、ごめんなさい!ですぅ。
つまらないお話しになりましたので、あとは写真でお茶を濁す?
トップは今年はつぼみいっぱいの山茶花、もうすぐそんな季節です。
こちらは今年の実家のあけび、急に涼しくなって、あっというまに色がかわりましたが、
なんだか最後の時期だけものすごく「急ぎましたー」という感じ。
いつもより採ったときの状態がよくありません。それでも「豊作」ではありました。
こちらはご近所の紫式部、毎年登場してもらっていますが、今年は暑さのせいか
実のつきが悪く、色もちと薄目でした。
織ったり編んだり組んだりを考えた昔の人は、
教科書も無い時代に高度な技術を残しているの
ですから、スゴイ事だと感心します。
本当に何も無い所から生み出す知恵、創意工夫
があったならではですね。
毎朝それをを取るんですが
次の日また蜘蛛が糸をかけます。
それは二階のベランダの壁でして
庭の真ん中の柳の枝先に別の糸
残りは枇杷の葉と、かなり大きな巣です。
(糸の長さは数メートルです)
どうやってあの高い柳の枝先に糸を付けるのか。
ヘクソカヅラの蔓が周りの草木を巻き込んで
不思議な織物状態になっています。
フジヅルの仕業はまさに織物。
森の類人猿たちも枝を折って巣作りするとか。
鳥の巣から人の織物までには
ずいぶん時間が掛かったことだろうと思いますが、
森の中には編み物や織物のお手本が
そこかしこにあったんでしょうね。
いろいろな場所で独特のものが
考え出されたのも、思えば当たり前のこと
その場所気候風土にあったものが
発展したんですよね。
何もないところからというのは、
ほんとにすごいですね。
今よりずっと原始的で自然の真ん中ですから、
いろいろなところからアイデアはもらえたはず。
猿が人間の真似をするのとおなじように、
まねをして、そこから更に発展させたのが
すごいですね。
それにしても、植物というのは、どうしてああも
妙な「強さ」があるのでしょ。
我が家は、ヤブカラシが実に巧妙に、
クーラーの室外機や、窓枠を飲み込んでいくのを
必死で阻止しました。
とってもとっても根が深くて取りきれません。
除草剤もムダなんですから困ったものです。